●征くシリーズ●取材・執筆/本誌編集部
■ 2007年11月14日、午前11時1分。9年の歳月をかけ、ロンドンの新しい国際駅に生まれ変わったセント・パンクラス駅のプラットホームから、ユーロスター第1便が静かに滑り出た。今では様々なレストランやショップが並ぶ複合施設として、ユーロスターの乗客だけでなく、多くの人々でにぎわう同駅だが、実は何度も取り壊しの危機に直面してきた。3週間後にパリ五輪(7月26日~8月11日)を控える今回は、このセント・パンクラス駅を征くことにする。
聖人の名前を持つ駅
セント・パンクラス(St Pancras)という名の由来は、紀元304年に14歳の若さで殉教したローマ人の少年だ。
当時、ローマ帝国ではキリスト教徒迫害が大々的に行われており、ディオクレティアヌス帝の前に引き出されたパンクラスは、キリスト教の棄教を迫られたが、断固として拒否。幼いながらも強い信仰心と意志を示した少年に驚嘆した皇帝は、「改宗すれば富と権力を約束してやる」と特例を提示するも、彼は頑なに拒み続けたため、首をはねられてしまった。哀れに思った貴婦人に丁寧に埋葬された後、その墓所でふざけて偽誓を行った者が相次いで亡くなる不可解な騒動が起きたことから、のちにパンクラスは束縛する者、偽証する者に対して懲罰を与える「宣誓」そして「子ども」の守護聖人に列せられた。
かつてカトリック系教会と墓地が広がる小さな村であった現在のセント・パンクラス駅一帯に、この聖人の名がつけられたのは18世紀中頃のこと。やがて土地開発や整備が進み、100年以上の年月を経て、同所にセント・パンクラス駅が誕生することになる。
ライバルは隣のキングズ・クロス
産業革命真っ只中の19世紀半ば、多くの労働者であふれかえったロンドンでは、膨大な量のビール(エール)が消費されていた。過酷な環境での過剰労働を強いられていた労働者にとって、ビールは喉を潤し憂さを晴らすためにも「必要不可欠」な存在だった。英国随一のビール産地であるミッドランドのバートン・オン・トレントから、大量のビールが鉄道でロンドンに運び込まれた。その運送を一手に担っていたのが、ミッドランドとロンドンを結ぶ路線を運行していた「ミッドランド鉄道」だ。同社は、英国北部へのルートを持つ「グレート・ノーザン鉄道」が1852年に完成させたターミナル(終着駅)のキングズ・クロス駅を借りて運送していたが、「間借り」している状態に嫌気が差し、自社専用の「ビール御殿」ならぬ「ビール駅」建設に乗り出した。
規模においても、また華やかさや美しさといった点においても、過去に例を見ない駅を築くという一大プロジェクトを任されたのは、ヴィクトリア朝時代を代表するエンジニアのウィリアム・ヘンリー・バーロウと建築家のジョージ・ギルバート・スコットであった。バーロウは駅を、スコットは駅の玄関口にあたる壮麗なホテルをそれぞれ設計することになった。
隣のキングズ・クロス駅をしのぐ駅を目指した結果、バーロウはキングズ・クロス駅を見下ろすかのように高い位置にプラットホームを構えることにする。これは駅の裏手を流れる運河を越える手段としても有効で、地上5メートルの位置に線路が引かれることになった。また、屋根を支える柱をプラットホームに1本も建てない「シングル・スパン」様式を世界で初めて採用。さらに、ミッドランドから運ばれてきたビール樽の貯蔵庫として、ホームと線路の下にアーチが連なる「アンダークロフト」(undercroft/倉庫)をつくらせた。
駅は1868年に完成。その5年後の1873年、スコットが手がけた赤レンガ造りの「ミッドランド・グランド・ホテル」が落成式を迎える。250の客室を擁し、優美な時計塔を備えたゴシック・リバイバル様式のホテルは、大英帝国の中でもことさら贅沢なホテルと評され、駅とあわせて「英国鉄道界の大聖堂」と称賛された。
二度よみがえったターミナル
しかし、栄華は久しくは続かない。1920年代に入ると、全鉄道路線の国有化を目指した政府によって、私鉄会社は次々と統合されていった。ミッドランド鉄道も吸収合併され、合併先の鉄道会社が有していたユーストン駅がターミナルとなり、駅としては引退の危機に瀕してしまう。ホテルもオフィスへと姿を変えた。
第二次世界大戦中の1941年には、ドイツ空軍が投下した爆弾が駅の3番ホームを直撃。階下のビール倉庫も大破した。終戦後に全鉄道の国有化が決まると、政府は財政難からセント・パンクラス駅の取り壊しを検討しはじめる。そうした中で取り壊しに強固な反対運動を展開したのが、詩人で作家のジョン・ベッチャマンだ。ベッチャマンは、資本主義経済の名のもとに切り捨てられ、永遠に失われようとしている歴史的建築物の保護を訴え、世論を巻き込んで積極的に活動。彼の尽力により、セント・パンクラス駅は「グレードⅠ」の歴史的建造物に認定され、修復も施されて半永久的に保存されることになった。
なんとか死の淵からよみがえった同駅だが、1980~90年代は再び不遇の時代を迎える。複数のマイナー路線の発着駅としては使われたものの、利用者は少なく、かつての活気は見る影もなかった。
そんなセント・パンクラス駅に転機が訪れる。サッチャー政権時代の1994年、ロンドンとパリを結ぶ「ユーロスター」が開業。当初はウォータールー駅発着だったが、そのルートでは出せる速度に限界があることから、別の駅にターミナルを移す計画が浮上したのである。その白羽の矢が立ったのが、再び廃れかけていたセント・パンクラス駅だった。
貧困層が他地域より多いとされるロンドン東部の活性化を目指し、2012年のロンドン五輪の誘致運動が繰り広げられるかたわらで、58億ポンドもの巨額の資金を投入して新たな国際ターミナル駅が誕生したのは2007年のこと。工事は9年の月日を要し、ロンドン~パリ間の所要時間は最短2時間15分にまで縮められた(従来よりも20分短縮)。また、旧ミッドランド・グランド・ホテルも5つ星の「セント・パンクラス・ルネサンス・ホテル」と名を改めて再始動した。
ロンドン五輪の開催時には、多くの観光客や応援団がユーロスターに乗ってセント・パンクラス駅に降り立ち、オリンピックを楽しんだ。あれから12年、ぜひこの夏は不死鳥のように何度もよみがえったセント・パンクラス駅からパリへ向けて旅立ってみては?
編集部制作の動画
セント・パンクラス
~数々の危機に見舞われながらも再び栄華を取り戻した不屈の駅~
セント・パンクラス・ルネサンス・ホテル
優雅に食事も楽しめる!
1873年に、セント・パンクラス駅に併設する「ミッドランド・グランド・ホテル」として開業した同ホテル。ハイドパークに建つロイヤル・アルバート・メモリアルのほか、多くの建造物を手掛けた名建築家ジョージ・ギルバート・スコットによって設計され、外観の重厚感と荘厳さから「大聖堂」とも呼ばれた。廃業の憂き目に遭いながらも、大規模な改修工事を経て、2011年にリニューアル・オープン。現在は「セント・パンクラス・ルネサンス・ホテル」の名前で、オリジナルの特徴を細部まで守りながら営業を続けている。
旧チケット売り場だったバー&レストラン
Booking Office 1869
駅のチケット売り場は、そのまま「ブッキング・オフィス」という名でバー&レストランとして営業。馬車から降りた駅の利用客は、まずここでチケットを購入した後、列車の乗り場であるプラットホームへ向かった。
旧ミッドランド・グランド・ホテルのダイニングルーム
Midland Grand Dining Room
旧ミッドランド・グランド・ホテルのダイニング・ルームは現在、レストランとなっている。宿泊客以外の利用も可能。スコットがこだわり抜いてデザインした優美な曲線を描く大階段は、世界一美しい階段のひとつ。敷かれたカーペットは当時のままで、下階から上階まですべて1枚で織られており、継ぎ目がない驚異の特注品。
旧馬車停留所だったホテル・ラウンジ
The Hansom
ガラス張りの高い天井から自然光が差し込む、開放的な雰囲気のホテル・ラウンジ。かつて駅の利用客を乗せた馬車が停まっていた停留所をリフォームしており、ラウンジ名の「ハンサム」は、馬車(ハンサム・キャブ:Hansom Cab)に由来している。アフタヌーンティー(13:00~17:00/£70)を楽しむこともできる。
St Pancras Renaissance Hotel
Euston Road, London NW1 2AR
TEL: 020 7841 3566
www.stpancraslondon.com
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週刊ジャーニー No.1349(2024年7月4日)掲載