
ハイランドHighlandとは、「高地地方」と訳語がつけられることもあるスコットランド北部を指す言葉だ。
文字通り、標高は高めで岩がちの荒々しい山肌を見せる区域が少なくない。
この地方が歩んできた歴史のうち、18世紀に焦点を当てつつ、ハイランドならではの景観が広がる地を今号と次号でご紹介することにしたい。
※写真はカロデンの戦場跡。約280年前、多くのハイランド兵士の血が流れた。
●征くシリーズ●取材・執筆/本誌編集部
平和をとるか、独立をとるか18世紀の選択
スコットランド北部に広がるハイランドは、なだらかで緑豊かなイングランドとは印象が異なり、やせた土地と厳しい気候条件の中での暮らしは楽ではないことを推測させる。しかし、息をのむほど見事な景観を備え、また、後世に語り継がれる歴史をつむいできた地でもある。スコットランド史をふりかえる時、18世紀前半は、もっともドラマチックに語られるピリオドのひとつと言え、その舞台となったのもハイランドだった。
すべては、イングランド女王エリザベス1世(在位1558~1603)が独身のまま、世継ぎを残さずこの世を去ったことに端を発する。これを受けて、スコットランドのスチュワート王家出身のジェームズ6世(在位1567~1625)が、イングランド国王を兼ねるという、スコットランド人が夢にまでみた出来事が現実のものとなった。
それまでイングランドにはジェームズという名の国王はいなかったため、同王はイングランドではジェームズ1世と名乗ることになったのだが、この出来事がいかに大きいことだったか。イングランドという強大な隣国に常に虐げられてきたスコットランドの君主が、イングランドの頂点に立つという悲願が思わぬ形で成就したのだった。
しかし、わずか約100年で、その夢は終わりを告げる。1707年、スコットランドがこの宿敵イングランドとついに統合されてしまったためだ。スコットランドの歴史は、強国イングランドへの抗戦の歴史であり、この「統合」という名の併合が行われたことにより、スコットランドは、とうとう実質的な独立国家ではなくなってしまった。
イングランドとの争いが終結し、平和がもたらされたという意味では、確かに統合は有効だった。平和を国益と考えるとすればである。しかし、これを屈辱的と受け止めたスコットランド人たちも当然多かった。
1688年の「名誉革命」で、スチュワート王家出身のジェームズ2世(在位1685~1689。スコットランド王としてはジェームズ7世)が追放され、オレンジ公ウィリアムとメアリー2世(共同統治。1689~1702。なお、メアリーはジェームズ2世の実の娘だった)がイングランド統治を始めた後も、スチュワート王家を支持し続けるスコットランド人が少なくなかったのも不思議はない。
彼らは「ジャコバイト(Jacobite)」と呼ばれた。「James」のラテン名「Jacobus」を起源とする「ジャコバイト」は、そのまま反イングランドを意味する。イングランドからすれば「ジャコバイト」イコール反逆者であったわけだ。
スチュワート王家再興をかけて、ジャコバイトたちが、初めて蜂起したのは1715年。しかし、亡命先のフランスにいた、ジェームズ7世の息子、ジェームズ・フランシス・エドワードはスコットランド入りがひと月も遅れるなどし、蜂起は結局失敗に終わる。ジャコバイトたちが、再び夢をかけて武器をとったのはその30年後のことだった。
1745年、波乱の18世紀前半をしめくくることになる出来事は、ひとりの若者が船でスコットランドに渡ってきたことから始まった。
チャールズ3世の運命を変えたかも知れない決断
この若者の名前はチャールズ・エドワード・スチュワート(1720~1788)。1715年のジャコバイトの蜂起(「フィフティーンズ」)が鎮圧され、正式に即位することのなかった、ジェームズ8世の長男として1720年12月31日、ローマで誕生した。
「ボニー・プリンス」(ボニーは「美しい」の意)と呼ばれたほど、顔立ちの整った貴公子だった。彼は、イングランドと常に敵対していたフランスからの援軍を頼みにしつつ、1745年8月19日、スコットランドのグレンフィナンに上陸。スコットランド王室旗を高々と掲げ、イングランドに宣戦布告した。
右:32歳当時のプリンス(Drambuie Ltd蔵)。
ハイランド(スコットランド北部)を拠点とするジャコバイト派のクラン(氏族)のメンバーたちが続々と集まり、その数はすぐに2000(後には8000)に達した。中には、自分の属するクランの族長の命令に反し、プリンス軍に加わる者もあったという。
グレンフィナンでの旗揚げを前に、ことの無謀さを説き、「Please go home.(ローマにお帰りください)」と嘆願した有力クランの族長や長老たちに対して、「I’m come home.(私は故郷に帰ってきたのだ)」と答えたという逸話が残っている。
プリンスにしてみれば、グレンフィナンで目にしたのは、感無量の光景だっただろう。弱冠25歳、スチュワート家の正統後継者とはいえ、それまでスコットランドに住んだこともなく、統率能力の有無も不確定(実戦経験は少々ありという程度)だった彼に命を投げうってでもついていこうとする者が、これだけ集まったのである。
パース、スターリング、エディンバラ―とプリンス軍は順調に進軍。イングランド軍との小競り合いに勝利をおさめつつ、カーライル、プレストン、マンチェスター、そしてロンドンからわずか120マイルのダービーへと歩を進めた。旗揚げから約5ヵ月後、12月4日のことだった。ハノーヴァー朝2代目のイングランド王、ジョージ2世(在位1727~1760)は、この報を聞くなりロンドン脱出を考えたといわれ、ロンドンもパニック状態に陥ったという。
ところが、プリンス軍の計画性のなさが露呈する。補充物資の欠乏と本格的になる寒さを憂えた、プリンスの参謀たちはここで引き返す道を選ぶ。歴史に「もし」は禁句ではあるが、もし、ここでロンドンに攻め入っていたら、後のエリザベス2世もチャールズ3世も存在していなかったかもしれない。

「ブッチャー」との戦いに敗れて
このダービーの後、流れは完全にイングランド側優位へと変わる。ひたすら北進するプリンス軍に対するイングランド軍の追撃が開始された。そして、1746年4月16日。飢えと疲労にさいなまれるプリンス軍5000と、カンバーランド公率いるイングランド軍9000は、インヴァネス郊外のカロデンという荒れ野で決戦の時を迎える。
結果は、プリンス軍の惨敗であった。
負傷者や捕虜にまでも容赦なかったカンバーランド公は「ブッチャー(屠殺人)」とあだなされたほどの陰惨な戦いで、落ちのびたボニー・プリンスの首には3万ポンド(現在の100万ポンド以上に相当する)の賞金がかけられた。
しかし、ハイランドの人々はボニー・プリンスを最後まで裏切りはしなかった。ナショナル・ロッタリーのジャックポット(特賞)並みの賞金に、目がくらんだりする者が皆無だったことは驚きに値する。カロデンで敗れてから、プリンスはなんと半年もハイランドおよびスカイ島を始めとする島々を転々と逃げ続けたが、この間、さまざまなハイランダー(ハイランドの人々)がプリンスの逃亡を、時には命をかけて助けた。
中でも、プリンスに女装させ自分の侍女と偽りともにスカイ島に渡った、フローラ・マクドナルド(Flora MacDonald1722~1790)は有名で、死と隣り合わせのこの逃避行はロマンと冒険に満ちたドラマとして、現在も語り継がれている(次号でさらに詳しくお届けする)。
グレンフィナン・モニュメント Glenfinnan Monument (National Trust for Scotland)

Glenfinnan, Lochaber, Highland Council PH37 4LT
www.nts.org.uk/visit/places/glenfinnan-monument
◆シール湖(Loch Shiel)のほとりに建つ高さ18メートルのモニュメントは12月24日~26日、12月31日~1月1日をのぞき、毎日そばまで歩いていくことができる。
◆モニュメントの中は登れる構造になっているが不定期に閉まるので、ビジターセンターで要確認。
◆カフェを備えたビジターセンターあり。5月~9月末まで9:30~18:00オープン(10月、11月は17:00まで。冬期は16:00まで)。
◆入場料は大人5ポンド、子ども4ポンド、大人2人を含むファミリー・チケット13ポンド(ショナル・トラスト・フォー・スコットランド会員は無料)。

◆「ハリー・ポッター」の映画内で魔法学校に向かうホグワーツ特急が走るシーンで有名な高架鉄道Railway Viaduct(ヴァイアダクト)より近いことから、ハリポタファンも多く訪れる。かなりの坂道を歩くことになるが、ビジターセンターからグレンフィナン鉄道駅まで約1キロ。
ローマに生まれローマに眠る
1746年10月10日。ボニー・プリンス・チャーリーはようやくフランスに亡命。以降、スコットランドの地を再び踏むことはなかった。1766年には、父君が亡くなったのを機に自ら、英君主として「チャールズ3世」を名乗るも、フランスはこれに先駆けてハノーヴァー朝を正統な王室と認める条約を英国と結んでおり、ボニー・プリンスの宣言も空しく響くだけだった。
その6年後には、母方の家系がスコットランド王室の血を引く、ドイツのストルベルグ家のルイーズ・マキシミリアーナ王女と結婚はしたが、子宝に恵まれず、不仲のまま晩年を迎えたとされている。
プリンスの晩年、約3年ほどは、別の女性との間にできた娘シャーロットがつきっきりで彼の世話をしたという。そして1788年1月31日、ボニー・プリンス・チャーリーは永遠の眠りにつき、ローマに葬られたのだった。生まれた時からスコットランド再興の夢を託されもがき続けたであろう、この王子の最期の時が穏やかなものであったことを願うばかりだ。
※この波乱に満ちた人生を送ったボニー・プリンス・チャーリーとゆかりの深いスカイ島について、次号で取り上げたい。
カロデン
Culloden (National Trust for Scotland)
Culloden, Inverness IV2 5EU www.nts.org.uk/visit/places/culloden
◆カロデンの戦いに関する資料や展示が充実しているビジター・センターはクリスマスや新年をのぞき、毎日オープン。3月~10月末まで9:00~17:00(冬期は16:00まで)。
◆入場料は大人12.50ポンド、子ども8ポンド、大人2人を含むファミリー・チケット33ポンド(ショナル・トラスト・フォー・スコットランド会員は無料)。
◆無料のガイド付きウォークに参加したい場合は、チケット売り場で確認すること。
●原作はダイアナ・ガバルドンの小説で、第2次世界大戦中、従軍看護師として生きる主人公クレアが、18世紀のスコットランドへタイムスリップし、激動の歴史に巻き込まれるという筋書き。
●医療知識と技術を駆使して人々を救う一方、フレイザーというクラン(氏族)に属するジェイミーとの愛を育んでいくロマンス大作でもある。
●この作品の影響で、カロデンを訪れるファンが急増。カロデン内にある、フレイザー兵たちを追悼する小さな石碑の前には花が置かれていた(他のクランの石碑に手向けられた花より、数が圧倒的に多かった!)。
Travel Information ※2026年6月15日現在
インヴァネス Inverness
スコットランドの主要都市として、エディンバラ、グラスゴー、アバデイーン(ハイランドには含まれない)、ダンディーが「ビッグ4」に挙げられ、それらに次ぐパースに続く都市であり、「ハイランドの首都」ともいわれるのがインヴァネスだ。ネス川の河口(インヴァ)にある。ネス湖に近いことから、通年で観光客が絶えない町であり、カロデン古戦場に行く際の拠点とするのにも便利な場所。www.explore-inverness.com
◆ ロンドンからのアクセス
【空路】ブリティッシュ・エアウェイズ(ヒースロー空港利用)、イージージェット(ガトウィック空港/ルートン空港利用)の直行便がある。所要約1時間半。インヴァネス空港から市内へは1時間に約2本ほどバスが運行されている(所要約40分)。
【鉄道】ロンドンのキングズ・クロス駅からグレート・ブリテン島の東側ルートを通って最速で約8時間。
【道路】ロンドンからインヴァネスまで約570マイル(約912キロ)。飛行機でエディンバラやインヴァネスまで飛び、レンタカーを借りるのが現実的。
◆ 町に残る歴史的建造物は比較的新しい。19世紀建造でネス川のほとりにたたずむ大聖堂Inverness Cathedral、18~19世紀に増改築されたタウン・ハウスInverness Town Houseのほか、改築中のインヴァネス城Inverness Castle、博物館・アート・ギャラリーInverness Museum & Art Galleryなどもある。また、ヴィクトリア・マーケットは屋内マーケットでフードホールもあって重宝する。
◆ 近郊にあるネス湖は、ネッシーであまりにも有名。
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週刊ジャーニー No.1449(2026年6月18日)掲載


























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