●征くシリーズ●取材・執筆/本誌編集部
710年前、スコットランド軍がイングランド軍相手に大勝利をおさめたバノックバーンの戦いについて2回にわたってお届けした。
その戦いで英雄として名前を刻んだロバート1世だが、スコットランド史上、彼と並び称されるもうひとりの英雄がいる。
バノックバーンの戦いの17年前にイングランド軍を破る快挙を成し遂げたウィリアム・ウォリスだ。
今号では、このウォリスのために建てられたウォリス・モニュメントを征くことにしたい。
スコットランドの 「英雄」の条件
「ユナイテッド・キングダム・オブ・グレート・ブリテン&ノーザン・アイルランド」を構成する4国のうち、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの歴史は、制圧者イングランドとの戦いの歴史でもある。スコットランドの旗とアイルランドの旗の上に、イングランド(当時、既にウェールズを併合)の旗が重ねられてできあがったユニオン・ジャックが、英国の成り立ちを端的に物語っている。
経済的理由などから現実問題として容易なことではないものの、イングランドの支配から逃れたいと願わぬ地域はないようだ。スコットランドの独立運動も長きにわたってくすぶり続けている問題だ。近年では、2014年にスコットランド独立の是非を問う「国民投票」が行われ、投票率は84・6%を記録し、関心の高さを見せつけた。原則として政治問題に意見を述べることはない英国君主、エリザベス2世も独立を思いとどまるよう望んでいることをうかがわせる声明を発するなど、周囲を心配させたが、投票したスコットランド人362万3344人のうち、約55%が「ノー」=独立を望まない=と投票した。
この投票結果では独立賛成派が敗れたとはいえ、時のイングランド王エドワード1世が、スコットランド王政の混乱につけいりスコットランド支配に着手してから700年余。独立を悲願とするスコットランド人が半数近くいることが改めて立証された。満たされぬ思いを抱き続けてきた、このスコットランド人たちが「英雄」としてあげる人物が少なくとも二人いる。
スコットランドで英雄としてみなされるには、イングランドに対して勝利をおさめたことが第一条件といって過言ではない。そのうちのひとりが、今回ご紹介するモニュメントを捧げられたウィリアム・ウォリスだ。
外国語も操る才力兼備の大男
1995年制作と、30年近くも前の話になるが、メル・ギブソン主演/監督の映画『ブレイブハート』をご覧になったことがあるだろうか。監督賞・作品賞を始め、95年度アカデミー賞の5部門で栄誉に輝いた同作品の主人公がウィリアム・ウォリスだった。
ウォリスが宿敵イングランド軍を初めて華々しく破った「スターリング・ブリッジの戦い」から727年。この17年後に起こったバノックバーンの戦いで、スコットランド王ロバート1世(ロバート・ザ・ブルース)がイングランド軍を撃破したことは、5月30日号と6月6日号でお届けしたとおりだ。ロバート1世にさきがけてイングランドに勝利をおさめたウォリス。わずか30年余りの短い一生の間に、ウォリスがスコットランド史に残したものは、計り知れないほど大きかった。ウォリスを独立の象徴とみなす人々がいるのも、無理からぬことといえるだろう。
スコットランド人のウォリスに対する強い敬愛の念が凝縮され、1869年に完成したのが高さ約67メートルのウォリス・モニュメントだ。このモニュメントについて詳細を記す前に、ウォリスの生涯を振り返っておきたい。
ウォリスが生まれたのは1272年頃と推定される。この生年や生誕地のみならず、貴族階級出身ではなかったウォリスについて、記録がなく不明とされる部分は多い。これが逆に人々のロマンをかきたてるようで、様々な物語の創作にもつながった。
中でも広く知られるのが、1470年頃に著されたという長編詩「「The Actes and Deidis of the Illustre and Vallyeant Campioun Schir William Wallace」。作者は、ヘンリー・ザ・ミンストレル、通称「ブラインド・ハリー」。ハリーはおそらく貴族階級出身で、生まれた時から盲目だったと考えられている。フィクション、時代考証的に誤りと指摘される箇所も多いとされるが、ウォリスについてまとめられた著作の中で、もっとも古いもののひとつ。
この長編詩をはじめ、伝承を要約すると次のようになる。
ウィリアム・ウォリスはグラスゴー近郊の街、ペイズリーにほど近い小さな村エルダーズリー(Elderslie)で、地主でもあり騎士でもあったサー・マルコム・ウォリスの次男として誕生した。身長約2メートル、烈火のごとく怒りを増発させることもあるウォリスが粗野であったことは否めないようだが、その一方でラテン語・フランス語に通じ、信仰心厚いキリスト教徒であり、ビジネスの才もかなりのものだったと伝えられる。フランスはイングランドを宿敵とみなしており、敵の敵は友ということで、スコットランドとフランスのつながりは深く、当時、騎士階級以上のスコットランド人にはフランス語を話す者は少なくなかったという。
ウォリスのイングランドに対する怒りを燃え上がらせるきっかけとなったのは、父マルコムの死(1291年)だった。マルコムを殺害したフェニックというイングランドの騎士に復讐を果たし、自ら「アウトロー(社会から追放された者)」となったのが1296年。奇しくも、スコットランド軍がエドワード1世率いるイングランド軍に敗れ、スコットランド王戴冠の折りの玉座として使われていた「運命の石 (The Stone of Destiny)」をウェストミンスターに持ち去られてしまった年でもあった。
さらにウォリスの運命を決定づけるできごとが起こったのが翌1297年。ウォリスの最愛の妻が、イングランド軍のラナーク州長官ヘイゼルリッグにより殺害されてしまったとされている。ウォリスの怒りはすさまじいものだった。その日のうちにヘイゼルリッグの息の根を止め、ラナークのイングランド軍を全滅させたのだった。
ウォリスへの敬愛の念がつまった 映画「ブレイブハート」
■スコットランド独立推進派により宣伝フィルムとして用いられ、メル・ギブソン側が抗議したこともあったというほど、愛国精神タップリの映画『ブレイブハート(BRAVEHEART)』。
■ソフィー・マルソー演じる、後のエドワード2世の妃イザベラ(映画の中ではウォリスと恋に落ちる設定!)=写真左=と、メル・ギブソン扮するウォリスとの関係がストーリーに彩を添えている。ただし、史実上では、ふたりの年は離れすぎているうえ、女性が王の使者として遣わされることもまずなく、ロマンスが起こり得るわけはなかったとのこと。これ以外にも史実に忠実とはいいがたい部分が多々あり、それに対する批判もあるのは事実ながら、「物語」としておもしろいのだから、そうそう目くじらをたてる必要はないでしょ、というところか。
■映画制作から25年を記念して、デジタル化したブルーレイ版も販売されている(アマゾンなどで購入可)。
スコットランド軍、圧勝!
この快挙のニュースはたちまちスコットランド中にひろまり、ウォリスを支持して立ち上がる人々により大規模な反乱へと発展。エドワード1世は6万の大制圧軍をスコットランドに送った。これを迎え撃つウォリス側は4万。しかも装備・訓練ともにイングランド軍がはるかにスコットランド軍をしのいでいた。
1297年9月11日。運命の日がやってきた。フォース川をはさんでにらみあっていた両軍だったが、ウォリス側に停戦交渉に臨む意向が皆無であることを知るや、イングランド軍上層部は、全面攻撃を決行。ついに、未明より橋を渡ってスコットランド軍側への攻撃を開始した。しかし、当時のスターリング・ブリッジは木造で、馬にまたがった騎兵なら2騎がようやく渡れるほどの幅しかなかった。
しかも、橋を渡ったところにひろがる湿地での戦いは、重装備のイングランド軍にとってきわめて不利だった。
戦いはスコットランド軍の大勝に終わった。勢いに乗じてウォリスは国境を越えイングランド北部へ侵攻。カーライル城などを占拠することはなかったが、約1ヵ月の遠征で多くの戦利品をもちかえり、スコットランド人の溜飲を大いに下げた。
ウォリスの魂は死なず
ノルマン朝がイングランドを征服した時点で、数々のノルマン貴族がスコットランドに領土を与えられ赴いた。貴族として、地元のクラン(氏族)たちの上にたった彼らはスコットランド王の座をめぐり対立を繰り返した。イングランド支配に対して反発していても、保身や自らの利益のためにイングランド王に忠誠を誓う者もおり、13世紀のスコットランドは混乱のさなかにあった。それだけにウォリスがおさめた勝利の意義は大きかった。
スコットランド貴族たちも、ようやくウォリスを認め「ガーディアン・オブ・スコットランド」というタイトルを与える。事実上の王ともいえる役職だが、貴族たちがウォリスをスコットランド王としなかったのは、彼が貴族出身者ではないという理由による。そしてこの差別が、後にウォリスを死に追いやることになる。
差別は裏切りへと変容した。1298年、エドワード1世が挑んだ雪辱戦「フォルカークの戦い」でウォリスは大敗。スコットランド貴族の一部がその配下の兵士とともに戦線を離脱したためとされる。ウォリスは「ガーディアン・オブ・スコットランド」の地位を辞し、以後7年間、大きな軍を組織することなくゲリラ的反抗を続ける。
しかし、その反抗もやはり裏切りによって終わりを告げる。かつての戦友の家に滞在した際、イングランドに寝返ったその戦友の通報によりウォリスは捕縛されてしまったのだ。
引き回しの末ロンドンに連れていかれたウォリスは一方的な裁判をうける。判決は、反逆罪による極刑。当時、処刑は庶民の一種の娯楽でもあった。その頃の刑場であった、現在のバーソロミュー病院前の広場(現スミスフィールド精肉市場のそば)で人々が見物する中、1305年8月23日、ウォリスは処刑された。首吊りの後、内臓を引き出し四つ裂きにするというもっとも惨たらしい方法がとられ、体の一部はスコットランドでも見せしめのためにさらされたのである。
しかし、ウォリスの魂は不滅だった。1307年、エドワード1世が病死。後を継いだエドワード2世は無能で、父主が残してくれたものを守り切ることはできなかった。そして1314年。スコットランド貴族ロバート・ザ・ブルースが、スターリング近郊のバノックバーンでイングランド軍を撃破。ここに、ようやくスコットランドは独立を取り戻したのである。かつて、保身のためにウォリスを支持しなかったこともあるブルースだったが、結果的にはウォリスの意思を継いだことになる。
なによりも自由のために
さて、ウォリス・モニュメントに話を戻そう。正式名称は「ナショナル・ウォリス・モニュメント」で、この「ナショナル」はスコットランドのみを示す。英国政府からの補助金は受けず、全額寄付金で建てられたことからも、このモニュメントがスコットランド人の誇りの塊であることがわかる。
ウォリスとともにスコットランド軍を率いたアンドリュー・モーレイ(この戦いで負った傷がもとで数ヵ月後に死去)が、スターリング・ブリッジの戦いの前夜、自軍の陣営をはる場所に選んだアビー・クレイグの丘の上に建つ。
モニュメント内にはスターリング・ブリッジの戦いやウォリス関連の展示のほか、ロバート1世に関するコーナーや、スコットランドの偉人たちの展示に特化したフロアもあり、じっくり見学するのに1時間はあてておきたい。
また、最上階の展望台からは360度の眺望がひらけ、うねりながら流れるフォース川をはじめ、ハイランド(スコットランド高地地方)とスコットランド地方南部を結ぶ幹線路が通ることから、「ハイランドへの鍵」と呼ばれたスターリング城などが望める。
727年前、ウォリスたちはこの眺めをどのような思いで見つめていたことか。栄光や富や名誉のためでなく、なによりも自由のために戦ったというウォリス。自由でなければ、何のための栄光か、何のための富かと問い続けたウォリスの精神は、これからも変わることなくスコットランドの地で受け継がれていくのだろう。
ウォリス・モニュメント The National Wallace Monument
※情報はすべて2024年6月10日現在のもの。 Special Thanks to: Stirling Council, Visit Scotland, Historic Environment Scotland, National Trust for Scotland
Abbey Craig
Hillfoots Road, Causewayhead
Stirling, FK9 5LF
Tel: 01786 472140
【開場時間】
1月-2月 毎日 10:00~16:00
3月 毎日 10:00~17:00
4月-6月 毎日 9:30~17:00
7月-8月 毎日 9:30~18:00
9月-10月 毎日 9:30~17:00
11月-12月 毎日10:30~16:00
12月25・26日、1月1日 休場
※最終入場は閉場の45分前。
【入場料】
大人 £11.30
子供(5~15歳) £7.10
5歳未満 無料
www.nationalwallacemonument.com
■ 駐車場にはカフェとトイレ、ショップを備えたビジター・センターがある(モニュメント内にトイレなし)。モニュメントを訪れるにはここからさらに丘を上る必要がある。駐車場から運行されている無料のシャトルバスも利用可。
■ モニュメント内の移動に利用できるのは階段のみ(246段)。小さなお子さん連れ、あるいは階段の上り下りに不安のある方には不向きなのが残念。階段はかなり狭いので、すれ違う際にはご注意を。
■ スターリング駅近くのバスターミナルから52/MA3番のバスで約20分。駐車場のすぐそばにある、「Causewayhead」バス停下車。週末はバスの便が少なくなる。
週刊ジャーニー No.1346(2024年6月13日)掲載