世界遺産に認定されている海事都市、グリニッジのランドマーク的存在であるカティ・サーク号。
ウィスキーの名称としてもなじみ深い。
19世紀に紅茶輸送船として誕生した、この美しき帆船の波乱に満ちた歴史を今号ではひも解いてみたい。
●征くシリーズ●取材・執筆/根本玲子・ロバーツ、本誌編集部
世界を駆け巡った悲報
2007年5月21日未明、グリニッジは時ならぬ喧騒と、煙と異臭に包まれた。同地のシンボル的存在、カティ・サーク号が炎上したのだ。放火の噂も立ったものの、捜査の結果、出火原因は現場に放置されていた業務用掃除機の電源だったことが分かっている。
鎮火までの2時間ほどで、炎は甲板と工事用足場を燃やし尽くした。しかし、火災発生時は修復作業中のため船体の部材や調度品は取り外されており、実際に被害を受けたのは5%に満たなかった。2012年にカティ・サーク号の雄姿を我々が再び目にすることができたのは、非常に幸運なことだった。
「幸運」―。
順に述べていくが、カティ・サーク号は、数多くのトラブルや不幸に見舞われた。が、そのたびに、挽回や復活を果たし、今に至っている。
この不運そうで、実はこれほど強運な船は数少ないと思わせるカティ・サーク号は、中国から英国へと紅茶を運搬する高速帆船「ティー・クリッパー」として誕生。ところが、進水式の5日前にはスエズ運河が開通(1869年11月17日)し、時代は蒸気船へと移り変わろうとしていた。同号が産声をあげた時、船舶史は、帆船時代の最終章に既に入っていたのだ。
ティー・クリッパーとしての現役時代は8年あまりと短かく、それ以降は流転の道を歩みながらも、見事に生き残ったカティ・サーク号。その数奇な運命をたどってみることにしたい。
紅茶レース時代、到来
ウィスキーのラベルに描かれた3本マスト姿でお馴染みのカティ・サーク号が建造されたのは、ヴィクトリア朝時代の1869年だった。かつて高級品だった紅茶が一般にまで広まり、茶葉の需要が大幅に増えた時期にあたる。
この紅茶を中国から輸送していたのが帆船だ。この時代にはまだインドでの紅茶生産は行われておらず、中国からの輸入に頼るしかなかった。
乾燥品である紅茶は保存状態さえ良ければ3年はもつ。このため、当時紅茶貿易を独占していた東インド会社は、150年以上の長きにわたってのんびりしたペースで茶葉を運んでいた。しかし、19世紀初頭に軍用の小型帆船をもとにした米国の大型クリッパー(語源は、go at a clip=「高速で一気に進む」)と呼ばれる高速帆船が誕生。そして英国人商人のチャーターした米国生まれのクリッパー船が、香港から積んだ茶葉をたったの3ヵ月余りでロンドンに運んだというニュースが伝わる。これまで片道1年以上かけていたことを考えると劇的な進歩だ。
金の卵を米国に奪われてはたまらない。英国も紅茶運搬用のクリッパー船の建造に着手。そして新茶をいち早く英国へと届けた船には多額の金を約束し、その速さを競わせた。こうして「ティー・レース」時代が始まった。
ライバルもスコットランド生まれ
ティー・レース全盛期、ロンドン在住のスコットランド人船主ジョン・ウィリスなる人物が、スコットランド中西部ダンバートンの造船会社「スコット&リントン社」に新しいティー・クリッパーの製造を発注する。
ところが「強度、積荷量、スピードに、より優れた船を」と、注文が次々に加わり設計の練り直しが繰り返されるうちに納期は遅れ、そのうちに「スコット&リントン社」は経営難に陥り、債権者が造船プロジェクトを引き継ぐという事態になる。こうして、難産の末に生まれたのがカティ・サーク号だ。
1869年11月22日、無事進水式を迎えた船は年明けまもなくクライド川を下ってロンドンの大貿易拠点イースト・インディア・ドックへ向かい、中国へと旅立っていく。
そして8ヵ月後。初の船旅を終えたカティ・サーク号は600トンという膨大な量の紅茶をロンドンへ持ち帰った。上海からロンドンまで110日と、なかなかの成績ではあったのだが、1年先輩で同じくスコットランド生まれの帆船、サーモピリー号(Thermopylae)のスピードには残念ながら並ぶことができなかった。
2年後の1872年6月17日、奇しくも2艘が上海を同日の同時刻に出港するという運命の日が巡ってくる。
インド洋まではふるわなかったものの、その後カティ・サーク号は南東の貿易風をとらえ、南アフリカ沿岸を通過する頃にはサーモピリー号を400マイルも引き離す。ところが、ここですんなり勝利、といかないところがカティ・サーク号。不運にも嵐に巻き込まれ舵を失って足止めをくらい、結局サーモピリー号より1週間遅れて帰港した。
「何でも屋」として世界を放浪
こうして、華やかな話題をふりまいていたティー・クリッパーたちだが、変化の波が容赦なく襲い掛かろうとしていた。
先にも述べたように、地中海と紅海を結ぶスエズ運河が開通したことで、高速船の時代は帆船から蒸気船へと急速に移りつつあった。運河では、帆船が航行するに足りるだけの風が吹くことが稀で、蒸気船でなければ通過することができなかったためだ。
カティ・サーク号の誕生から間もない1870年当時に59艘あった英国籍ティー・クリッパーは、7年後には9艘までに激減。帆船の2倍に及ぶ紅茶が積載可能、輸送スピードでもひと月分は上回るという蒸気船の前に帆船はなすすべはなかった。
1878年、紅茶貿易の要地であった中国・漢口へ到着したカティ・サーク号は、積み込むはずの紅茶を蒸気船に奪われるという屈辱的な事件に遭遇する。仕方なく、上海に向かったり、長崎で石炭を求めたり、さらには米国ニューヨークへと航行したりし、これ以降、同号はその時々の荷を積み込み各地の港を渡り歩く「浪人時代」を送ることになる。
やがて、斜陽産業となりつつあった、紅茶の帆船貿易に見切りをつけた船主ウィリスは、1883年に入ってカティ・サーク号を当時世界最大の羊毛産出国だったオーストラリア~英国間の羊毛輸送に従事させることにする。輸送船としてのピークを過ぎた同号だったが、ここで返り咲きともいえる大活躍を見せる。
サーモピリー号との幻の再対決
羊毛輸送は夏にオーストラリアへ向かい、翌年の初めに荷を積んで戻ってくるというのが常だった。
羊毛を積み、初のオーストラリア~英国航路に臨んだカティ・サーク号は、ロンドンまで84日で渡りきり、同時期にオーストラリアを出航した船に25日以上もの差をつけて帰還した。翌年は自己記録をさらに更新して80日。1885年に船長が交代すると、また記録を伸ばし、シドニーからロンドンまで73日という大記録を打ち立てる。
このとき舵をとったのは、後にカティ・サーク歴代船長の中でも最も優れていたと称されたノーフォーク出身のリチャード・ウジェット(Richard Woodget)。1889年には最新鋭の蒸気船ブリタニア号を追い抜くという快挙を成し遂げた。
これは、同じく羊毛輸送に従事していた紅茶輸送時代のライバル、サーモピリー号にも太刀打ちできない離れ業だった。かつてのレースでは惜しくも負けてしまったが、ここで大きく逆転したのだ。
ポルトガルに売られた老船
幻の再対決で勝利をおさめたカティ・サーク号だったが、またしても、変化の渦へと押し流されていく。
羊毛輸送は紅茶に比べ利益が低かったことに加え、年月が経つにつれ船のメンテナンス費用がかさむようになり、船主のウィリスは1895年、ついにカティ・サーク号をポルトガルの貨物船会社へと売却することを決める。要はお払い箱になってしまった訳だ。
老朽ティー・クリッパー船の末路としてはお決まりのコースといえるのだが、同じくポルトガルに売却されたライバル船サーモピリー号は、その後まもなく、リスボン沖でポルトガル海軍の砲撃訓練の標的となり、この地で一生を終えた。
一方のカティ・サーク号は船名をまず「フェレイラ」と変えられ、その後も船主や名前を変えながら、ポルトガル船籍の船としてブラジルやバルバドス、東アフリカの植民地、そして米国の間を結び、27年の長きを過ごした。
時が過ぎ、まもなく船としての一生を終えつつあるかに思われたカティ・サーク号に思わぬ転機が訪れる。1922年、嵐を避けるためにコーンウォール南部ファルマス港に停泊していた老カティ・サーク号を、ある男性が見かけたことが発端だった。彼は、目の前の年老いた貨物船が、かつては花形船として名を馳せた船であることを見抜き、何としてもこの船を英国に取り戻そうと決意したのだ。
この男性はウィルフレッド・ダウマン(Wilfred Dowman)。かつて船長だった人物で、若き見習い船員の時代に、目を奪われた美しい帆船のことを鮮明に覚えていたのだ。
懐かしい故郷への帰還
ダウマンは、ただの「元船長」ではなかった。夫人であるキャサリンは、絹織物業で巨万の富を築いた実業家コートールド家出身だった。このおかげで、老朽船としての商業価値を大きく上回る高値で『身請け』され、英国に晴れて帰還する。イングランド南西部コーンウォールのファルマス港に英国船として帰り着いたカティ・サーク号は、大掛かりな改装と修復を経て美しい姿を取り戻した。
そして夏季には見習い水夫たちが寝泊まりする訓練船として新しいキャリアを開始する。同時にダウマンはこの船を観光客のために公開し、岸からボートで訪れる人々を受け入れることも始めたのだった。
ダウマンが1936年にこの世を去るとカティ・サーク号は、夫人、キャサリンによってケント州にある海軍学校に5000ポンドの維持費とともに寄付される。軍艦ウースター号に牽引されながらのこの旅が、カティ・サーク号最後の航海となった。
第二次世界大戦時には、爆撃の標的となることを避けるため、カティ・サーク号のマストはおろされて訓練生たちの緊急避難所となり、戦火が拡大すると訓練生たちとともにロンドン南東部に移された。
この地で多くの船が爆撃の被害を被るのだが、カティ・サーク号は無傷で生き残った。まことに強運な船だとしかいいようがない。しかし戦時中のメンテナンス不足から老朽化はさらに進み、ついに引退の時がやってくる。
安住の地、グリニッジ
訓練船としての役目を終えたカティ・サーク号に、次の救いの手が差し伸べられた。その手の主は、グリニッジ国立海事博物館の館長フランク・カー(Frank Carr)だった。1951年、英国博覧会の一環としてデットフォードに展示されたカティ・サーク号は、英国海軍ゆかりの地グリニッジで永久保存されるという栄誉を受けることになる。
カー館長率いるカティ・サーク号保存協会(Cutty Sark Preservation Society)は、故エディンバラ公フィリップ殿下の後押しを得て、民間から25万ポンドの修復資金を集めることに成功する。こうして1957年にはグリニッジの乾ドックでの一般公開が始まり、観光名所として親しまれるようになったのだった。
故エディンバラ公の力添えまで得て、余生は安泰―と、誰もが思った矢先、厄介な問題が起こる。建造から150年以上。枠組みがたわみ、野外展示であることも手伝って傷みが加速し、崩壊する危険性が出てきたのだ。
再修復のための資金が不足し、一般公開の中止が検討された。しかし、2006年に英国国営宝くじの文化遺産基金ほか各機関から助成金がおりることになり、大掛かりな復元修理工事が実現。カティ・サーク号は再生に向かって歩み始めたのだったが…。
と、ここまで書けば、この先の展開は予想していただけるのではないだろうか。ここで発生したのが、冒頭で述べた修復工事中の火災だ。
修復のため、船体の部材や調度品が取り外されていたおかげで、実際の被害は5%にとどまった。2012年、故エリザベス女王列席のもと、お披露目式が行われたことを、「奇跡」と思った関係者も少なくないことだろう。
こうして振り返ると、いくつかの「もし」が頭に浮かんでくる。もしポルトガルで処分されていたら、ダウマンが船を目に留めなかったら、火事で全焼していたら…。人に限らず運命とは実に予測不可能なもの。かつて白い帆をはためかせ世界の海洋を疾走し、引退後も私たちの目を楽しませてくれるカティ・サーク号は、生涯のレースに勝ったといっても良いのかもしれない。
カティ・サークってどんな意味?
■「カティ・サーク」とはスコットランド語で「短い下着、シュミーズ」という意味。実はこの名前、日本で『蛍の光』(英国では新年を祝う歌)として歌われる『Auld Lang Syne(オールド・ラング・ザイン)』の作者、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns 1759~96)が綴った物語形式の詩『タム・オ・シャンター』(『シャンター村のタム』/1791年発表)にちなんでつけられた。
■シャンター村の男タムがある晩、酔っ払ったまま愛馬メグにまたがり町から帰宅する途中、廃墟になった教会跡で不気味な面相の魔物たちが踊っているのに出くわす。その様子をこっそり覗き見したタムは、肌もあらわな下着(カティ・サーク)をまとっただけの妖艶な魔女ナニーの踊りを見て思わず「いいぞ、カティ・サーク(短いシュミーズ)!」と声を上げてしまう。
■たちまち悪魔たちとタムの追いかけっこが始まる。タムは水の上を渡ることができない魔女たちを引き離そうと、愛馬メグにムチを入れ、橋へ向かって一目散。しかし橋の手前でナニーが伸ばした手がメグの尻尾をむんずとつかみ、そのしっぽはお尻からすっぽり抜けてしまう。それでもなんとか橋を渡りきり、タムは命からがら逃げおおせた―というのがストーリーだ。
■博物館入り口とは逆側にある、カティ・サーク号の船首を見上げてみよう。そこには薄衣を身にまとった魔女ナニーの船首像(フィギュアヘッド)が飾られており、前方に伸びた手にはあわれなメグのしっぽがしっかりと握られている=写真。
■命名は船の建設を監督し、カティ・サーク号の初の船長となったジョージ・ムーディの妻のアイディアによると伝えられている。また、スコットランド人である船主のジョン・ウィリスが同郷のバーンズに敬意を表したとも、そして、この船がナニーのように速く走れるようにとの願いもこもっているという。かつて同船が港に入ると、年若い見習い船員はロープをメグのしっぽに見立てて彼女の手にロープを引っ掛けるのが習わしだったとか。
なぜウィスキーに紅茶船の名前がついた?
1923年誕生のブレンデッド・スコッチ・ウイスキー「カティ・サーク」。禁酒法の撤廃運動が加熱していた米国に向け、新しいブレンドウイスキーを販売しようと画策するベリー・ブラザーズ社は、前年にポルトガルから買い戻され大きなニュースとなったカティ・サーク号の歴史と、冒険に彩られたイメージに注目。スコットランドの有名アーティスト、ジェームズ・マックベイがあの有名なラベルの絵を担当し、人気ブランドが誕生したのだった。
Travel Information ※情報は2023年12月11日現在のもの。
カティ・サーク号
Cutty Sark
【住所】
King William Walk, Greenwich SE10 9HT
Tel: 020 8858 4422
www.rmg.co.uk/cutty-sark
【アクセス】
最も便利なのはDLR(ドックランド・ライト・レイルウェー)。最寄り駅はカティ・サークCutty Sark駅。
【開館時間】
毎日 10:00 - 17:00(最終入場16:15)
※年末年始の開館時間についてはウェブサイトにてご確認を。
【入場料】
大人18ポンド/学生12ポンド/子ども9ポンド(4歳未満無料)
グリニッジに行くなら…
グリニッジには海事にまつわる歴史的遺産が数多くある。カティ・サーク号だけでなく、国立海事博物館(National Maritime Museum/無料)にも足を運んでみては? さらに、グリニッジ・パークの小高い丘にあるグリニッジ王立天文台(Royal Observatory/18ポンド)もぜひ訪れてみたい場所。この天文台(正確には、旧天文台)の敷地内には経度ゼロ度である「本初子午線」を示すラインが引いてあり、これをまたいで写真を撮る人の長~い列ができている。カティ・サーク号とグリニッジ王立天文台を訪れるなら1日パス(27ポンド)を購入すると割安。
- ①フット・トンネル Foot Tunnel
- ②カティ・サーク号 Cutty Sark
- ③グリニッジ・マーケット Greenwich Market
- ④扇博物館 Fan Museum
- ⑤ペインテッド・ホール Painted Hall
- ⑥ザ・チャペル The Chapel
- ⑦国立海事博物館 National Maritime Museum
- ⑧クイーンズ・ハウス The Queen's House
- ⑨グリニッジ王立天文台 The Royal Observatory, Greenwich
カティ・サーク号の雄姿を「英国ぶら歩き」のムービーで観よう!!
本誌編集部が制作した動画、「カティサーク 洋上を駆けた魔女 高速で紅茶を運んだティークリッパー Cutty Sark the Tea Clipper」をユーチューブで観よう!
週刊ジャーニー No.1321(2023年12月14日)掲載