●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ナチス・ドイツの無条件降伏後も、ポーランドには反ユダヤ主義がうずまいていた。そのポーランドから、アーノルドという14歳の少年が英国に独り渡ったのは1946年のことだ。
傘会社を興し、エリザベス皇太后(クイーン・マザー)や故エリザベス2世に愛用される傘を作るまでに至った、このアーノルド・フルトン(Arnold Fulton 1931~2022)という人物の生涯について引き続きお届けすることにしたい。
生き残りをかけた「ざんげ」
故郷のチェルストホヴァで、アーノルドは、カトリック教のセント・ヤナ・ボスコ修道院に引き取られた。偽造の身分証明書にある「Adam Filipczak」の名前で、ポーランド人として生活することになったわけだが、カトリック教についての知識をまったく持たぬ状態で、修道院で過ごすのは危険すぎると判断する。
アーノルドは、「ざんげ」することを決意した。20代の親切なゴリク司祭を相手に選び、アーノルドは腹をくくって告白した。
「僕は…ユダヤ人なのです」
ざんげ専用の小さなボックスの中では、ゴリク司祭の顔は見えないようになっている。
ゴリク司祭はやがて静かに答えた。
「分かった。まず、これだけは先に言っておこう。この秘密は100パーセント、他にもれることはない」
司祭は続けた。
「アダム、何も恐れる必要はないからね。私に任せなさい、君を助けると約束する」
アーノルドは思わず、安堵の深いためいきをもらした。
ゴリク司祭は、この言葉にうそがないことを証明してみせた。アーノルドが修道院での暮らしの中で困ることがないよう、様々な形で手をさしのべ、配慮を示した。また、数学、ポーランド語、ラテン語、そしてカトリック教の教義を、この頭の良い少年に教え込んだ。
まもなく、アーノルドはカトリック教の洗礼を受けた。身を守るためからではなく、信仰心からだった。もともと、フルフト家は、ユダヤ教の教えに対してさほど厳格ではなかったこともあるが、戦乱の中で、心穏やかに過ごすという、今までは望むべくもなかった贈り物を与えられた13歳の少年が、その贈り物を授けた主、イエス・キリストに感謝や敬愛の念を持ったとしても何の不思議があろう。
アーノルドが修道院の中でこうした毎日を送っているかたわらで、世界は大きな転換期を迎えようとしていた。
1945年5月、ナチス・ドイツは無条件降伏を受諾。ヨーロッパ戦線における世界大戦はここに集結を見たのだった。
反ユダヤ主義の国との決別
5月下旬のある晴れた日のこと。
「アダム、君に来客だよ」
そういわれてアーノルドは玄関へと案内された。そこには、懐かしい2つの顔があった。
ソーニャとユレクだった。ふたりは結婚していた。アーノルドとソーニャは、飛び上がらんばかりに再会を喜んだ。
「私たちといっしょに住まないか」
ゴリク司祭のもとを離れるのはつらかったが、アーノルドは、修道院を『卒業』した。
チェルストホヴァの南、75キロのところにある町で、ふたりは新生活を始めていた。ユレクの故郷である町からも近く、3室あるフラットは、ナチス将校が直前まで使っていたもので快適だった。アーノルドは再び学校に通い始め、平和な日常が戻ってきたかのように見えた。
しかし、ポーランドでは反ユダヤ主義がまだ根強くくすぶっていた。戦後、約25万人のポーランド出身ユダヤ人が、自分の住んでいた場所に戻ってきたとされ、そこに住みつくようになっていたポーランド人たちと様々な摩擦が生じた。ポーランド人の中には、ナチス・ドイツによって多くのユダヤ人がいなくなって良かったと、声高に言う者もいたばかりか、ポーランド人によるユダヤ人の虐殺事件も起こった。
修道院でいっしょだった少年からひどい中傷の手紙を受け取ったこともアーノルドにとってショックだった。アーノルドはゴリク司祭に、カトリック教徒であることをやめる旨を手紙で告げた。
9月3日にはソーニャが長男ルードヴィックを出産した。フルフト一族にとって、十数年ぶりの新しいメンバーだ。希望の光が差し込んでいたが、ここポーランドにいては、ユダヤ人である限り、命に危険が及ぶ恐れがある―ユレクたちは次なる道を画策していた。
アメリカ合衆国への移住ビザを申請したものの、既に規定の数を超えているとして受領されなかった。4人での移住を考えていたユレクだったが、容易なことではないのは明らかだった。
ユレクは、戦時中に使っていたルートを通じて、ソロモン・ショインフェルド師に連絡をとった。ユダヤ教の律法学者(ラビ)である同師は、第二次世界大戦中、英国政府に働きかけて数え切れないほどのユダヤ人を救った活動家として知られていた。同師が、英国に移住させる戦争孤児を募っているという。アーノルドは、すぐさま同師の『面接』を受けた。
英軍の制服に身を包んだショインフェルド師は知的かつ覇気のある人物だった。堂々とした立ち居振る舞いからは強い信念がうかがえ、アーノルドもすっかり心酔。ただひとりで言葉も分からぬ国へと渡る不安はもちろん大きかったが、同師の勧めを受け入れ、アーノルドは英国行きを選んだ。
1946年4月。ワルシャワ経由でバルト海沿岸のグディニャから、スウェーデン籍の「ラグネ」号に乗船し、出発した。この時、英国政府は18歳以下の青少年、125人分のビザを約束していた。実際には20歳を過ぎた者や、わけありの「戦争孤児」も含まれていたが、乗船した全員が、新天地での人生を切望していたことは確かだった。
途中、嵐に見舞われながらも、「ラグネ」号は無事テムズ河へと到達。タワー・ブリッジが橋げたをあげて同号を迎え入れてくれた。14歳のアーノルド・フルフトは、父ヤクブが憧れた英国の地に、ひとり降り立った。
英国人「アーノルド・フルトン」の誕生
アーノルドの猛勉強が始まった。まずは英語を習得せねばならない。「th」の発音などに苦労する一方、学校の規則の多さに反発しながらも、充実した日々が過ぎていった。17歳で、イズリントンにあるノーサンプトン・ポリテクニックに入学。4年間ここで学んだ。
卒業をひかえたある日、数学の講師に進路相談をした時のことだ。就職を希望する先として航空産業界大手の企業の名を告げると、「それは難しいね」
と、にべもない言葉が返ってきた。成績にはかなりの自信があっただけにアーノルドは落胆を隠しきれなかった。
「君の成績は悪くない。問題は、その苗字なんだよ。フルフト、というドイツ語的な響きの名前をどうにかしないと、英国での就職は難しいだろう」
ナチス・ドイツが降伏してから7年が経っていたが、英国民のドイツ嫌いはまだ薄れていなかった。しかし姉以外、すべてを戦争で失ったアーノルドにとって、苗字はただひとつ残された大切なものだった。彼は悩んだ。
父もビジネスマンだった。ビジネスマンは時として難しい決断を迫られるものだ。父ならそれを分かってくれるだろう。
アーノルドは苗字を変えることを決めた。「F」で始まる名前を探したところ、1765年生まれの米国人でロバート・フルトンと名乗る発明家がいたことを見つけた。商業ベースの蒸気船の開発に初めて成功した人物だという。弁護士のもとを訪れ、「フルトン」姓に変える手続きをとった。
1954年、英国籍を取得。まっさらの濃紺のパスポートには「Arnold Fulton」と記されたのだった。
雨の多い英国での最強ビジネス
アーノルドは、当初希望していた大企業ではなく。チェコ生まれのユダヤ人、アナトール・ドリンが北ロンドンで経営する、小さな工具機械設計会社「ヘルメス・マシーン・ツール・カンパニー」に勤めることになった。
ドリンは、ナチス・ドイツの脅威をいち早く察して1937年に英国に逃れてきた人物だった。
様々な機械工具を設計する同社で、23歳になっていたアーノルドは新参者として、日々奮闘を続けた。職場では徐々に実績を積んで信頼を得るようになり、一時は、娘の婿候補に、とまでドリンに望まれたが、アーノルドは、彼女が自分より4歳年上であることを理由に丁重に断った。
小さい会社ながらもやりがいのある毎日を送っていたアーノルドだったが、予期せぬ形で転機が訪れる。55年4月、フランクフルトに出張したドリンが、機上で帰らぬ人となったのだ。心臓発作だった。ドリンを父親のように思うまでになっていたアーノルドだけに、この悲報がもたらした衝撃は大きかった。また、彼なき後、同社の存続はきわめて難しいように思えた。
アーノルドは、起業を考えるようになっていたものの、戦争により経済面で受けた打撃からまだ立ち直りきれていない英国で、24歳の若造に融資をしてくれる銀行などあろうはずもなかった。
思い悩むばかりのアーノルドに救いの手を差し伸べてくれたのは、姉のソーニャだった。招待を受け、一家が住むストックホルムへと飛んだ。
ソーニャと夫ユレクは、スウェーデンの首都で小規模ながらも傘工場を立ち上げていた。もともと、ポーランドでユレクの実家は傘ビジネスに携わっていた。2人がこの新天地で、なじみのあるビジネスを始めたのは自然な流れだったといえる。
「これからどうするつもり?」
ソーニャは尋ねた。
「傘はどう? 英国は雨ばかりなんでしょう?」
最初は、「まさか、傘ビジネスなんて」と笑っていたアーノルドだったが、その3日後。朝食の席でユレクに切り出した。
「傘ビジネスのことなんだけど…。興味が出てきたんだ」
「そうくるだろうと思っていたよ、アレック」
アーノルドは近い人々から「アレック」または「アルシュ」と呼ばれていた。
「できれば傘ビジネスの全てを知りたいんだ」
「傘ビジネスを学ぶのに、ここ以上に最適なところがあると思うかい」
ユレクは自信に満ちた笑顔を見せた。
ピーナツ工場の隣で創業
それからの3週間、アーノルドは毎日ユレクについて傘工場に通った。アーノルドは、商売を始めるには、まずその商品を真に理解する必要があると考えていた。ユレクに弟子入りしてのこの3週間、アーノルドは夢中で傘について学んだ。
やがてロンドンに戻る日が来た。
ソーニャは、アーノルドに300ポンド(現在でいう5200ポンド相当)を手渡した。また、ユレクは、傘作りに必要な資材の買い付け先としてイタリアやドイツの業者の連絡先をくれた。アーノルドはこの2人の心強い味方に感謝するばかりだった。
ロンドンでは、ユレクのいとこが東ロンドンに格安物件を探してくれていた。ピーナツの加工工場とユダヤ人相手の精肉店にはさまれた、みすぼらしい建物で、トイレも外にしかなかったが、グランド・フロアは事務所と受付に、ファースト・フロアは作業場、セカンド・フロアは倉庫にと使える十分な広さがあり、そして何より借り賃がきわめて安かった。コマーシャル・ロードの469A番地で「A. Fulton Company Limited」は創業した。
1955年10月31日、アーノルドが英国の地を踏んでから約9年半がたっていた。
アーノルドはオルドゲート・イースト駅からバスで工場まで通った。従業員は、お針子歴12年という英国人女性、デイヴィス夫人ひとり。当時、英国では年間300万の傘が買われ、74の傘会社がひしめきあっていた。アーノルドの会社は75番目の末席からスタートしたのだ。
何か新しい製品を作らねばならない。アーノルドは、当時、傘の骨が8本というスタイルが主流だったところに目をつけた。アーノルドは骨が10本という、丈夫で、かつ従来の商品とは違って見える傘を作ることにした。カラフルな生地を選び、持ち手もおしゃれに見えるものにし、本体とおそろいの生地で作ったカバーをつけた。しかし、周囲の小売店に置いてもらう程度では大きな発展は望めない。
かつて、工具機械設計会社に勤めていた時に、初めて一人前のエンジニアとして任された、ニワトリの羽をむしる際に効率をあげる機械を考案するにあたり、良い案が浮かばず弱り切っていたアーノルドを救ってくれたセルフリッジズのことが頭に浮かんだ。たまたま訪れたこのデパートで、彼は重要なヒントをつかみ、ニワトリの羽をむしるための機械を無事に完成させることができたのだった。
セルフリッジズに売り込んでみよう。
バイヤーの名前を探し当て、アーノルドは思い切って電話をかけた。
そのバイヤーはパトリック・マッキンタイヤーといった。アーノルドは、彼の傘が他の傘とどんなに違うかを電話口で懸命に説明した。マッキンタイヤーに、「では、サンプルを持って来てください」と言われた時、アーノルドは興奮を抑えることができなかった。
しかし、1回目の面談は散々な結果に終わった。約1時間待たされた後、ようやく部屋に入ってきたマッキンタイヤーは、多忙であることを全身に漂わせていた。
「申し訳ない、フォクストンさん」
「フルトンです」
「すまないが、来週、またきてくれませんか」
翌週、アーノルドは再びセルフリッジズの受付でマッキンタイヤーを待った。
「いやー、本当に申し訳ない、フォクストンさん」
「フルトンです」
「目が回るくらい忙しくてね。来週、出直してもらえませんか」
アーノルドがマッキンタイヤーにサンプルを見せることができたのは、4回目の約束の時だった。その日は金曜日だった。
サンプルを見てマッキンタイヤーは言った。
「確かに英国では見ないスタイルですね。かなり『ヨーロッパ』風だ」
マッキンタイヤーがあまり気に入っていないらしいことを察し、アーノルドは必死で訴えた。
「売れなければ引き取りますので、少しでも店に置いてもらえないでしょうか」
「そう言われてもねえ、フォクストンさん」
「フルトンです」
アーノルドはさらに食い下がった。しばらく考えてからマッキンタイヤーが口を開いた。
「いいでしょう、2ダースほど預かりましょう」
その場を辞し、セルフリッジズの外に出るや、アーノルドはこぶしを天に向かって突き上げた。とにかく、1歩目を踏み出したのである。
一発逆転の雨の土曜日
翌週の月曜日。
朝9時45分に事務所の電話が鳴った。
「フルトンさん?」
声の主はマッキンタイヤーだった。
「土曜日に雨が降ったでしょう、フルトンさん」
「確かに、雨が降りましたね」
「あなたの傘は2時間で完売しました。追加で5ダース、すぐに納品してください」
この上ない、うれしい知らせのはずだったが、5ダース(60本)と聞いてアーノルドは頭を抱えた。資材は全額前払いでないと売ってもらえない。傘を作りたくとも、資材が買えないのだ。
アーノルドはコマーシャル・ロードのバークレイ銀行へ向かった。マネージャーの名前はジョウ・ホームズ。マッキンタイヤーに傘を預けることが叶ったのが金曜日だったことから縁起をかつぎ、面談日は金曜日にしてもらい、その当日を迎えた。
ひとしきりアーノルドが説明した後、ホームズは尋ねた。
「融資はいくら必要なんですか」
「700ポンドです」
ホームズは口笛を軽く鳴らした。
「担保にできるものはありますか」
「…特には…何もありません」
ホームズは目をつむり、考えをめぐらしているらしかったが、やがて目を開いた。
「500ポンド、お貸ししましょう」
アーノルドは心の中で飛びはねた。
なぜ、資産も担保も何もない若者に500ポンドも融資する気になったのか、アーノルドが後にホームズに聞いたところ、こんな答えが返ってきた。
「カンです。フルトンさん、あなたはきっと良い顧客になる、そう思ったのですよ」
ホームズのカンは正しかった。この後50年余りにわたって、バークレイ銀行はフルトン社のメーン銀行として、アーノルドのビジネスの成長を見守っていくことになる。
いつか必ず雨は降る
1960年代半ばには業界6位のシェアを誇るようになったフルトン社で、アーノルドは休みなく新しいアイディアを試した。
そのひとつが透明のPVC生地を使った「Birdcage」だった。これは、故エリザベス女王の母君である、クイーン・マザー(皇太后)に気に入られ、悪天候下の公務の際には必ずそのお供をするようになった。現在もカミラ妃などが雨天時にはこの傘で現れる。風が強く雨が横なぐりで降るような天気の日でも、彼らは国民やメディアから『見られる』ことが職務だからだ。
フルトン社は1990年代後半、ついに業界トップへと踊りでた。また、プライベートでは、59年にコレット・ロドナーと結婚。61年には長男のアシュリー、63年には次男クレイグ、68年には三男ナイジェルを授かり、この三男が社長としてアーノルドの跡を引き継いでいる。
もちろん、この70年近く、常に順風満帆だったわけではない。折り畳み傘の激しい攻勢にあって苦境に立たされたり、また、90年代に不況の波が英国に押し寄せたりした。この不況時には、天候までもフルトン社に背を向けた。好天が続いたのである。
3年間、英国は記録的に降雨量の少ない年が続いた。バークレイ銀行は、やむなくドックランズのフルトン・ハウスを売りに出したが不況のただなかで、買いたいと名乗りでる者は1人たりともいなかった。自社ビルはこうして意外な理由で売られずに済んだ。断腸の思いでリストラを敢行し、忍耐強く傘を作り続けるうちに、やがて景気も回復。フルトン社は、創業以来最大の危機を乗り越え、2008年には故エリザベス女王から王室ご用達のお墨付き(ロイヤル・ウォラント)を賜った。
2012年、筆者は生前のアーノルドにインタビューする機会を得た。「成功」するための条件とは何かと聞かれた時、こう答えることにしているという。
まず、能力(ability)。「人それぞれ能力があり、しかも異なる。与えられた能力を活かせば良い」と、アーノルドは力を込めて話した。
次にやる気(ambition)。「野心、あるいは向上心というべきかもしれない。どんなにすばらしい能力を備えていても、やる気や向上心がなければムダになるだけ」だという。
そして強い意志(determination)。これに、ハード・ワークを付け加えようとする人もいるだろうが、「私にとって、がんばって働くことは『ハード』ワークではない。目標に向かって進むことは、喜びだから」。
いずれにせよ、どのような危機的状況に置かれても、「私には、そこまで悲劇的とは思えない。常にユーモアを失わずに乗り切っていきたい」とアーノルドは続けた。それは、ホロコーストを逃れ、言葉もわからぬ未知の国に14歳で孤児として降り立ち、ロイヤル・ウォラントを賜るまでに会社を育てた人物の言葉だからこそという強い説得力に満ちていた。
やまない雨がないのと同じで、逆に必ずいつか雨は降る。
80年の半生をふり返りながら、アーノルド・フルトンが浮かべた静かな微笑が心に強く残った。
(文中敬称略)
週刊ジャーニー No.1359(2024年9月12日)掲載