明治14年(1881年)に第2回内国勧業博覧会で公開されたこの噴水も大人気を博した。
明治時代、急速な近代化に成功した日本。
官民に雇われた外国人工キスパートたちの多大なる貢献なくして、それは成し遂げられなかった。
今号では引き続き、こうした「お雇い外国人」のうち、英国人を中心に取り上げ、素顔と業績に迫ってみたい。
●Survivor●取材・執筆/岩本 陽児氏・本誌編集部
語学教育
バジル・ホール・チェンバレン Basil Hall Chamberlain
1850~1935

- ■海軍兵学寮英語教師のち東京帝国大学文科大学教師。別名、王堂チェンバン。
- ■1873年来日。
- ■日本人に英語のみならず、日本の古語も教えた言語学の神様。日本研究の第一人者として、「枕詞の研究」などの論文を発表。その後、森有礼に請われて文部省所属になり、帝大で日本語および言語学を教授。後輩のラフカディオ・ハーンとの決定的な違いは、そこまで日本を体系的に理解しながらも、西洋至上主義の権化であったこと。著書『日本事物誌』の中には「日本語を学ぶと、いかにヨーロッパの言語が絵のように美しく、隠喩にあふれ、空想できらびやかかがわかる」などと首をかしげたくなるような表現がある。
- ■ポーツマス出身。
ジョン・ラウダー John Lowder
1843~1902

- ■英国公使館通訳のち横浜税関顧問。
- ■1861年19歳で来日。
- ■アーネスト・サトウと共に通訳として活躍した後、法律家としての見識をかわれ大蔵省から税関業務を任される。月給600円。通訳生時代に出版した『日英会話書』は、画期的な実用英会話の本。サムライに出くわして無礼を働いた時の謝り方などが載っている。幕末の英国公使オールコックの義理の息子。
- ■上海生まれ。
ジェームス・サマーズ James Summers
1828~1891

- ■開成学校英文学教師のち札幌英語学校英語教師。
- ■1873年来日。
日本で初めて英文学の講義をし、シェークスピアを講読したと言われている。貧しい生い立ちから独学でシナで中国語を習得。ロンドン大のシナ語教授になった後、岩倉大使の斡旋で招聘された。月給300円。ロンドンでは『大西新聞』(邦字新聞)を発行し、日本文化を海外へ紹介すべく試みた。晩年、夫人と共に男女共学の英語学校を経営。 - ■ケント出身。
ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn
1850~1904

- ■松江中学英語教師のち東京帝国大学英文学講師。
- ■日本名、小泉八雲。
- ■1890年来日。
- ■英語教育の傍ら、外国に文筆をもって日本文化を紹介した第一人者。自らお雇い志願をして、松江中学の英語教師に就職した。その後、『神戸クロニクル』の詰説記者を経て、東大で英文学を講じる(後任は夏目漱石)。1896年、日本に帰化し小泉名を名のる。
- ■最も尊ばれる業績は、14年の滞在期間中に、日本人の穏やかな精神性や田舎の叙情性をテーマにした書物を数多く著したこと(代表作『怪談』など)。その視点はキリスト教文明の優位性にとらわれず、19世紀の西欧人としては異例的。ギリシャの血を引くアイルランド人として生まれ、アメリカで修行、日本に骨を埋めたという真のコスモポリタンである。
- ■イオニア諸島合衆国(1864年に英国からギリシャ王国に譲渡された)のレフカダ島出身。
宗教
ヘンリー・フォールズ Henry Faulds
1843~1930
- ■プロテスタント宣教師兼医師。
- ■1874年来日。
- ■社会活動家でもあり、教育者でもあり、学者でもあった、この頃の宣教師を代表するような人物。築地病院を開設し、日本の医療事業や盲人教育を推進した。進化論を批判し、アメリカ人モースとも対立している。また、モースの発見した大森貝塚の土器から古代人の指紋を観察。それがきっかけとなり、指紋の研究を行い、指紋法の基礎を築いた。
- ■スコットランド、エアシャー出身。
音楽
ジョン・フェントンJohn Fenton
1828~1890

- ■鉄海軍軍楽隊教師。もとは英国の公使館づき護衛兵(当時「赤隊」と呼ばれた)付属の海軍軍楽隊付楽長。
- ■1868年来日。
- ■ペリーの来航で初めて軍楽隊の存在を知った日本に、吹奏楽を移植した。島津藩はフェントンを通じて、英国ベッソン社へ軍楽隊用の楽器を注文。彼を教師に迎え、毎日昼夜4回の猛特訓。これが日本の吹奏楽の始まりである。1871年に兵部省に雇われ、本格的に編成された海軍軍楽隊の教師となった。
- ■アイルランド、コーク出身。
金融・財政
アレキサンダー・シャンド Alexander Shand
1844~1930

- ■近代的銀行制度移植政策顧問兼教師。
- ■幕末に来日、英系銀行の日本支店で働いていたところをスカウトされ、1872年大蔵省雇いになった。
- ■月給450~500円。弱冠28歳の銀行マンでありながら、国立銀行の設立を手がけた。記帳やブックキーピングを日本人に教え、我が国初の簿記教科書「銀行簿記精法」を著す。第一国立銀行初代頭取の渋沢栄ーも彼から簿記のイロハを学んだ。また、若き日の高橋是清(後の日銀総裁)はボーイとして彼の元で奉公し、英語を習得。その際シャンドのビフテキ焼きを使ってネズミ(!)を焼き、静かにいましめられたという珍エピソードがある。
- ■スコットランド、アバディーン出身。
ウィリアム・ガウランドWilliam Gowland
1842~1922

- ■大阪に設置された造幣局の首席技師のち局長。
- ■1872年、31歳で来日。
- ■月給630円。英系の採鉱精練法を導入して、日本の鋳金工業の改善を図る。反射炉熔鉱技術を大阪にある民間の工業機関に伝え、地方の発展にも貫献した。明治天皇が造幣局の工場を巡視した折り、ガウランドはひざまずき片膝を立てて帽子を脱ぎ挨拶。これは高慢で有名だった前任者キンドルは決してしなかったことで、関係者一同おおいに気をよくしたという。帰国後、著作を出版し冶金学会の第一人者になった。
- ■鉱脈地質の調査で古墳も発見し、「日本考古学の父」とも呼ばれる。また、その仕事の延長で日本の山奥にも分け入り、日本アルプスを踏破。「日本アルプス」とその地を最初に呼んだ張本人とも言われている。
- ■イングランド、サンダーランド出身。
政治・法制
フランシス・ピゴットFrancis Piggott
1852~1925

- ■内閣顧問法律学者。
- ■1887年、一家4人で来日。
- ■憲法起草中の伊藤博文を補佐した知恵袋。当時、伊藤は英国の習慣法をドイツを模範とした大日本帝国憲法にどう取り入れようかと模索していた。しかし、ピゴットは秘書たちから送られてくる質問に毎日ただ答えるだけという生き字引のような使われ方に嫌気がさしたよう。ドイツ人法制顧問の排他主義にもあい、仕事は消化不良のうちに帰国。
- ■当時の日本人には、国王は拒否権を有しているが、それを行使すれば非立憲行為になるというような、議会政治のもつ矛盾がわからなかったと彼の記録にある。
- ■ロンドンのベルグレイヴィア出身。
新聞
ジョン・ブラック John Black
1826~1880

- ■新聞記者。
- ■1863年頃、オーストラリアを経て来日。
- ■当初は英字隔週刊誌『ファー・イースト』の記者として、見聞きした日本の印象をレポート。読者対象は東アジアの居留地外国人や本国の英国人だった。
- ■1872年、邦字新聞『日新真事誌』を創刊。日本人読者に新聞のあるべき姿を周知させていく。特に読者投稿襴は他紙をしのぐ出来ばえで大成功。しかし政府は「新聞紙条例」を施行してジャーナリズムの自由を制限。治外法権下にあるブラックに対しては太政官左院お雇いとして、1875年、彼を抱え込む作戦にでた。月給300円。結局彼は翻訳程度の仕事しか当てがわれないことに不満を持ち、当局者たちと対立。半年後に解雇される。著書『ヤング・ジャパン』。対照的に外交官のシーボルト(シーボルト事件のシーボルトの長男アレクサンダー〈1846~1911〉)は、国外で日本を好印象づけるジャーナリズム姿勢でその功を認められた。
- ■スコットランド、ファイフ出身。
外交 番外編
アーネスト・サトウErnest Satow
1843~1929

- ■英国外務省所属通訳のち書記官。ゆえに厳密にはお雇いではないが、幕末から明治にかけての日英関係構築の貢献者としてご紹介する。
- ■1862年、江戸の公使館に通訳として勤務。
- ■江戸の下町言葉から会津弁までをこなすスーパーな仕事ぶりであった。明治維新に際しては、「英国策論」を『ジャパンタイムズ』紙に発表。そこで天皇を元首とし、諸大名の連合政権をその下に置くことを提唱した。その議論は邦訳されて、日本国内の政治状況に影響を及ぼした。明治政府のとった廃藩置県による中央集権化も、少なからず彼の議論が参考にされているのかもしれない。
- ■維新後も公使パークスの片腕として活躍し、1883年帰英。その後95年、駐日公使となって再来日、日清戦争後の日英関係の強化に努めた。生涯独身で通したが、武田兼(かね)との間に1女(夭逝)2男をもうけている。次男は、「尾瀬の父」とも呼ばれた著名な植物学者で、登山家(日本山岳会創立時の発起人のひとり)でもあった武田久吉(ひさよし、1883~1972)。著書『一外交官の見た明治維新』。
- ■ロンドン出身。
お雇いこぼれ話日本の印象
▶はるばる東洋の島国へやって来ることになった彼らは、日本についてどのくらい知っていたのだろう。
▶当時、英国にはアジア事情を報道するメディアとして「ロンドン&チャイナエキスプレス」という新聞があった。記事は電報でニューヨークや上海経由でロンドンに送られていた。ビジネスマンなどはこれを読んで結構な知識を持っていたのかもしれない。
▶面白いのは、来日後彼らが口をそろえて日本の音に閉口していることだ。ソバをすする音やネズミが屋根裏を走る音、はては「火の用心」の拍子木の音までも癇にさわってしょうがない、というのだ。確かに新聞では音まで伝えられない!
■編集部注■本記事では、スコットランド・アイルランドを含む英国圏出身者で、活躍の顕著な「お雇い外国人」の方々のみを取りあげた。なお、英語名のカタカナ表記は、当時の日本での読み方をそのまま残した形で掲載している。
執筆者
和光大学 現代人間学部 人間科学科教授(研究分野は社会教育学・環境史・日欧文化交流史)/地域史研究家 岩本陽児氏
参考文献
お雇い外国人全17巻(鹿島研究所出版会
週刊ジャーニー No.1438(2026年4月2日)掲載


















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