明治の肖像 ニッポンを変えた英国人たち 前編
三代目、歌川 広重による浮世絵。明治15年(1882年)、新橋~日本橋間に開通した鉄道馬車を描いた図。

●Survivor●取材・執筆/岩本 陽児氏・本誌編集部

■「ザンギリ頭をたたいてみ~れば、文明開化の音がする~」
時をさかのぼること、150年ほど前、東アジアの島国、ニッポンではこんな歌が流行っていた。
人々はチョンマゲを切り落とし、洋服を着て、牛肉をほおばりながら西洋文明の摂取にいそがしい。あの頃、誰が世界有数の工業国家に成長した今の日本を想像しただろうか。
今号より3回にわたって、明治時代、日本の近代化に大きく貢献した、ひと呼んで「お雇い外国人」のうち、英国人を中心に取り上げ、素顔と業績に迫ってみたい。

1858年(安政5年)に江戸幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、英国、フランスの5ヵ国と結んだ安政の五ヵ国条約に基づき、横浜、長崎、神戸、大阪、東京に外国人居留地が設けられた。写真は神戸外国人居留地のもの。

新しい国造りにお助けマン参上

日本人は外国文化への順応度が極めて高い民族だとよく言われる。ユーラシア大陸の端に位置しながら、たえず積極的に外国の先進文化を取り入れ、それを自国の文化と融合させて独自の文化を築いてきた。

その歴史を通し、直接我が国の発展に影響を及ぼした外国人も多い。奈良時代に日本に仏像や経典をもたらした中国の僧鑑真、戦国時代に、キリスト教を布教したフランシスコ・ザビエル、江戸時代の医学者シーボルトなどが思い浮かぶ。

近代の幕開けとなった幕末から明治にかけては、特に彼らの活躍がめざましい時期だ。その頃、来日した外国人の中に、外交官、貿易商人、宣教師らと共に「お雇い外国人」がいる。お雇い外国人とは、幕末以来、日本が欧米の近代化を急速に移入するための方策として、政府・民間を問わず、日本が招聘し雇った外国人工キスパートのことである。

はっきりとした人数はいまだ研究途上で把握できてはいないが、明治年間に官傭だけで少なくとも3000人が来日したと言われている(下表1参照) 。欧米の先進諸国からが主だが、アジア諸国からも少数が招聘された。ものの本によると、「お雇い外国人」という言葉は当時の流行語でもあったそうだから、彼らの姿は当時、新都、東京をはじめ日本の主要都市の風物でもあったのだろう。

お雇い外国人の役割はズバリ、新国家建設の助っ人以外の何ものでもない。そして、その新国家とはどんなものであったのか。次に、彼らが必要とされた背景を簡単におさらいしてみるとしよう。

表1:官・私傭お雇い外国人年代別延べ総人数(職業別) (単位:人)

注)( )は年代に該当する統計上の実際期間
資料:お雇い外国人/概説(鹿島研究所出版会)
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi

明治日本の選んだ道「富国強兵」

懐かしの日本史の教科書をひもとけば、「富国強兵」という言葉が目に飛び込んでくる。明治日本が近代化の第一目標として打ち出したスローガンである。明治維新(1868年)の後に国の舵をとることになった為政者たちが、欧米諸国と肩を並べられる近代国家を造ろうと生み出した不退転の策だ。

「強兵」つまり軍備増強は、ペリーの黒船などの来航により諸外国からの脅威にさらされた日本にとっては国の生死にかかわる急務。これを成功させないと、早い話がお隣りの清(中国)のように半植民地化されてしまう。

一方の「富国」。近代的軍隊を創設する一方、政府は産業の振興を図り、国民一人一人の力を結実させての国力増進を課題とした。それができてこそ初めて一流の近代国家と言える。欧米視察で資本主義社会の発展ぶりを目にした為政者たちはそれを実感していた。そこで学制をしいてまず国民の意識向上を図り、貨幣や金融制度を整え、「殖産興業」などのテコ入れ策を講じることになる。

冷徹な理性と現実的な見通しをそなえた明治の政治家、大久保利通(おおくぼ・としみち、1830~78)。欧米視察中のドイツでビスマルクに会い、その強固な指導力に強い憧れを抱いたという。

ことに1874年は、明治日本にとって重要な年である。岩倉使節団の欧米視察から帰った大久保利通が内務卿に就任し、殖産興業策を推進。お雇い外国人の雇用も飛躍的に伸びた。日本のビスマルクを目指した大久保は、鉄道や郵便・電信の整備につとめ、官営工場を次々と建設してゆく。強い国、富める国は、大事に備えて確立した情報網を持ち、国庫を潤す輸出産業を抱えていることを知っていたからだ。日本の資本主義はこうして育成されていった。

結果的には、このたった30年あまりで急速に近代国家の基礎固めができたことが、後の日本の運命を大きく決したと言われている。1894~97年にかけて、治外法権の撤廃など欧米諸国間との条約改正に成功。日露戦争(1904~05年)での勝利を導き、日本は一躍アジアの強国として認識されるに至った。しかし、歴史学的には「富国強兵」は日本のナショナリズムの出発点であったことも付け加えておこう。

1871年(明治4年)12月にサンフランシスコに到着した直後の岩倉使節団のメンバー(左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)。

お雇いこぼれ話 その1船旅

▶ついこの間まで外国へ行くといえば船だった。明治初期、欧米視察に出向いた岩倉使節団も横浜~サンフランシスコ間を約25日、その後大陸を横断し、ボストンからリバプールまでを11日かけて周航している。

▶英国からやって来たお雇いたちもこれとほぼ同じルートを逆方向からとったようだ。契約書には、リバプールを発って、ボストンの代わりに新克約(ニューヨーク)経由で横浜へ入るとある。そう考えると、都合約1ヵ月半ほどかけての来日だったのだろうか。

▶むろん、その旅費650円ほどは全額支給されている。なぜインド洋を渡らなかったのかという疑問は残るが、スエズ運河は1869年に開通したばかり。航路網はアメリカ経由の方が充実していたようだ。

お雇い外国人は超エリート駐在員!?

さて、本題に戻りお雇い外国人。一口に近代化といっても分野は広い。「モチはモチ屋」の言葉どおり、明治政府は各先進諸国の得手な部分をよく理解した上で、各国から生え抜きのお雇いたちを集めている。たとえば、開拓の分野はアメリカ、港湾都市づくりに大切な土木はオランダ、美術はイタリアといったふうだ。英国はご承知のとおり、産業革命を世界に先駆け成し遂げた国。19世紀末には世界一の工業立国であった。それを反映して、建築や自然科学といった工業分野の熟練者たちが多数呼ばれている。彼ら一人一人(英国出身者のみにしぼる)の活躍については次号と次々号をじっくりお読みいただくとして、ここでは全般的なお雇い外国人の実情をご紹介しておこう。

まず年齢だが、概して若い。1874年の「文部省雇外国人明細表」(内閣総理府所蔵)によれば、26~30歳、31~35歳に各国人とも集中し、結局30歳前後が最も多かったようである。この統計において、最年長は、開成学校の法学担当教師、アメリカ人マッカシー(D B McCarthy)の53歳、最年少は英国人で英語学女工を務めたマイエル(Annie Meyer)の18歳とある。

次に来日の動機だが、これは宣教師として伝道的使命をおびて来た人以外は、まさに十人十色。本国で日本人留学生との出会いを通し後進国の発展に寄与するという使命感に燃えた人もいれば、故国で幸福な生活を送れず、生活の新天地を日本に求めた人もいる。

「グラバー邸」でおなじみのトーマス・グラバー。明治維新に深くかかわったと見られている。
英国人に関していえば、幕末に武器商人として倒幕派を支援したトーマス・グラバー(Thomas Glover)の影響も大きい。スコットランド出身の彼の人脈を通して、グラスゴー大学などからたくさんの優れた人材が送りこまれている。この時代のスコットランドは造船や鉄鋼業が発達し、イングランドの商業の繁栄に貢献していたほどなので、一流の技術者たちが集まっていたようだ。

何はともあれ、日本には攘夷運動なるものがあり、その頃外国人の斬り捨て事件があったことなどは外国にも伝えられていた。招聘に応じるのはかなりの決意を要することだったに違いない。アメリカの保険会社は、当初、日本での生活をする者とは契約を結んでくれなかったと記録にある。

とはいえ、彼らの多くは正式な雇用契約を雇用主との間に結んだエリート駐在員である。日本政府は外国人を雇うにあたり、その規定を定めた「外国人雇入方心得」を発布し、トラブルが起きないよう万全を期している。

官傭の大学教師クラスなどは、住まいは元大名屋敷などがあてがわれ、外出の折には護衛がつき、とかなりのVIP待遇であったらしい。ただし、基本的には居留地を定められ、商用、休暇などでその遊歩区域外に出る時には通行免状の所持を強要された。もっともこれも彼らの身の安全、ひいては外交問題を考えてのことで、条約改正が済んだ時点で規制はなくなっている。

そして、気になる給料。官傭外国人の月給は、お雇いが行われた約30年間を通して、100円以上200円未満の者が最も多い。ついで、200円以上300円未満、100円未満と続く。これに対して、私傭は100円未満が圧倒的に多く、官傭の方が全体的に高給であったことがわかる。ちなみに、当時の日本人教員の月給の多くは10円以下、工場職工にいたっては5円1銭。米1升は8銭8厘であった。それと比較するといかに彼らが高給で優遇された貴重な存在だったかが知れよう。

日本人の大臣クラスと著名な官傭外国人を比較すると、右大臣の岩倉具視が月給600円。対して造幣局首長の英国人キンドル(Thomas Kinder)が1045円と2倍弱も多い。彼はお雇いたちの中でも一番の高給取りであった。他の有名どころでは、東大教師で大森貝塚を発見したアメリカ人モース(Edward Morse)が月給350円。彼は一時帰米した際、美術研究者のフェノロサ(Ernest Fenollosa)に「給料の半分を貯めることは容易で、なおかつ立派な暮らしができ、ひとたびアメリカに帰れば各地で講演もできよう」と説いて来日を勧めている。

そんな彼らの仕事ぶりはおおむね誠実、献身的で日本人の尊敬を勝ち得るに十分なものであった。一部の例外を除き、仕事や講義はすべて母国語で行われ、必要に応じて通訳がつけられた。特に、電信学を工部大学校で教えた英国人工アトン(William Ayrton)などは帰国当日、新橋駅を汽車で出発する直前まで学生を指導し液体摩擦の実験を行ったなどの逸話も残っている。

また、お雇い外国人の役割は日本人に先進技術を教えるばかりでなく、外国への日本文化の紹介者でもあった。帰国後、数々の著書を著した者も多い。中には本来の職務を離れた分野で業績を残した者もいる。次号からの人物紹介には、紙面の許す限り、彼らの日本の印象や職務外での活躍なども盛りこんでみる。いろいろな面で参考になるのではないかと思う。
《中・後編に続く》


お雇いこぼれ話 その2結婚

▶本文で触れたとおり、お雇い外国人の多くは20代~30代。ゆえに、独身者で日本人女性を妻にした人もいる。NHKの連続ドラマ「ばけばけ」のモデルとなった、ラフカディオ・ハーン(次々号にて掲載)夫妻など、幸せな結婚生活を送ったケースも見られた。

▶一方、既婚者は、妻や子供を連れて来日し豪華な一軒家をあてがわれたりしている。

▶気になるのは独身者(または既婚)でガールフレンドを持った人たちの身の処し方。借家に近親者や使用人以外を住まわせることは禁じられていたので、彼女たちを妾として外に囲ったらしい。

▶東京府が出した「外国人雇入方心得規則」(1871)には「妾を抱える者は、事前に雇い主より許可を得ること」などとある。規則にする必要があるほど、こうしたケースは多かったということだろう。

執筆者
和光大学 現代人間学部 人間科学科教授(研究分野は社会教育学・環境史・日欧文化交流史)/地域史研究家 岩本陽児氏

参考文献
お雇い外国人全17巻(鹿島研究所出版会)
Okubo Toshimichi-The Bismarck of Japan (University of California Press)

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週刊ジャーニー No.1436(2026年3月19日)掲載