
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 日本では、1月20日を「玉の輿の日」と呼ぶのをご存知だろうか? その起源は明治時代、ある祇園の芸妓が、当時の米国経済を牽引していた「金融王」ことJ.P.モルガン(ジョン・ピアポント・モルガン)の甥と結婚し、「日本のシンデレラ」「近代史上最高の玉の輿」と日本で大きく報じられたことが由来となっている。今号では、波乱の人生を送ったユキ・モルガンについてお届けする。
放蕩息子の「運命の恋」
19~20世紀初頭にかけて、米国で石油、金融、鉄鋼、鉄道業などで巨大な富を築き、今なお世界経済に大きな影響力を持つ米国の5大財閥、ロックフェラー、メロン、デュポン、モルガン、カーネギー家。その金融財閥モルガン家出身の御曹司と国際結婚したのが、今回紹介する女性、お雪である。2人は一体どのようにして出会ったのだろうか。
モルガン家は、17世紀にウェールズから米国へ移住してきた一族だ。米国で生まれたジョン・ピアポント・モルガン(1837~1913年)が、父親が英国で起業したビジネスを引き継いで世界最大の銀行家となるまでに事業を成長させ、「モルガン財閥」を築き上げた。
彼の妹サラは一族の男性と結婚、3人の子どもを授かったが、優秀な長男に比べて末っ子は「放蕩息子」に育ってしまった。イェール大学に進学したものの中途退学、伯父の銀行にコネ就職するも金融業に興味を持てず、やがて恋人との婚約も解消。埋められない喪失感を抱えながら世界中を放浪し、古美術品収集を目的に訪れた京都で一目ぼれしたのが、祇園で芸妓をしていたお雪だった。ジョージ・デニソン・モルガン30歳、お雪20歳のことである。
8億円の花嫁
お雪の本名は加藤ユキといい、1881年に京都寺町の刀剣商の娘として誕生した。年齢の離れた元芸妓の姉は、祇園でお茶屋兼置屋「加藤楼」(現・かとう)を営んでいた。お雪も姉にならって、14歳のときに「雪香(ゆきか)」の名で芸妓デビュー。歌舞の才能に恵まれ、とくに得意の胡弓の腕前は名手と称えられるほどだった。
ジョージがお雪と初めて顔を合わせたのは、外国人客専門のお茶屋「小野亭」だ。お茶屋には「格」の差による明確な序列があり、外国人を相手にする小野亭は、仲間内では格下の店とみなされていたという。
一目で恋に落ち、足繁く店に通い詰めたジョージとは異なって、お雪は彼に特別な想いを抱きはしなかった。というのも、当時彼女には惚れ込んだ恋人がいた――京都帝大(現・京大)で法科を学ぶ、エリート候補の川上俊介(のちの浪速銀行東京支店長・東京ガス常務)である。お雪を妻として米国へ連れ帰りたいジョージは、何度も彼女に求婚し、「身請け金ならいくらでも出せる」と話したが、首を縦に振ってくれることはなかった。
一旦は米国へ戻ったものの、どうしても諦めきれなったジョージは、翌年に再び来日。懲りずにアプローチし続けた。のらりくらりとかわすのにも限界を感じ始めたお雪は、贔屓(ひいき)の客に相談した結果、それならば「しこたまカネを吹っかけてやれ!」と冗談めかしたアドバイスを真に受けてしまう。そうして彼女が提示した金額は4万円(当時)。現在の約8億円に相当する莫大な額だった。
通常なら、笑い話で終わったかもしれない。だが、そこは天下のモルガン家の男。帰国して準備を整えたジョージは、なんと8億円を携えて再び海を渡ってきたのである。
マスコミに追われて
この顛末は、瞬く間に面白おかしく新聞で報道され、お雪は「時の人」になってしまった。恋人の川上とも破局。エリート街道を進む川上と結婚できると思うほど世間知らずではなかったが、苦い結末に心を痛めた。でも自分が言い出した約束は、きちんと守らなければならない…。お雪は覚悟を決め、ジョージのプロポーズを受諾。1904年1月20日、横浜の領事館で小林米珂(日本に帰化した英国人法律家)の立ち合いのもと、2人は結婚した。出会ってから3年、長い船旅をものともせず、3度も日本と米国を行き来して愛を伝え続けた執念の勝利とも言える。夫妻は共にニューヨークへ旅立っていった。
米国では、モルガン家の「問題児」が特大スキャンダルを起こしたと取り沙汰された。「J・P・モルガンの甥が東洋人を妻にして連れ帰ってきた!」と各紙が大々的に報じ、常にマスコミに追いまわされた。さらに、父親の反対に耳を貸さずに大金を支払って「買った」、キリスト教にも改宗していない、言葉も通じない日本人妻を一族が認めることはなかった。
日英同盟が締結され、日露戦争で勝利を収めるなど、日本の国際的な地位は上がっていたが、一方で米国では増加していく移民の排除が急速に進んでいた。暮らしづらさを感じた2人は翌年に京都へ戻ったものの、日本でも「金に目がくらんだ女」とマスコミに書き立てられ、好奇の目にさらされた。
南禅寺の近くにあるモルガン家の別荘で2年ほど静かに過ごした後、夫妻はフランスへ渡ることを決意。モルガン家の影響力がそれほど顕著ではなかったパリの社交界で、やっと平穏を取り戻せたのだった。
悠々自適の遺産生活
ジョージの父親が亡くなって巨額の遺産を継承すると、夫妻はそのままパリで晩年までのんびり暮らすつもりでいたが、その見通しに影が差す。1915年7月9日、ジョージが突然の心臓麻痺で世を去ったのである。彼はまだ44歳の若さ、お雪に至っては34歳も迎えておらず、結婚生活はわずか11年半で幕を閉じた。
そして孤独と悲しみに浸る間もなく彼女を待ち受けていたのは、夫の遺産相続をめぐるモルガン家との抗争だ。しかし、この泥沼裁判を見事に勝ち抜き、推定60万ドル(当時)もの遺産を手にしたのだから、強運の持ち主と言っていいのではないだろうか。受け継いだ遺産は、現在の金額に換算すると、数十億~100億円と言われている。
お雪は日本へ帰国せず、フランスで生活を続けた。やがてフランス陸軍士官で言語学者でもあった年下の男性と恋に落ち、マルセイユで一緒に暮らしたが、再婚はしなかった。再婚すると、モルガン家に遺産を没収される可能性があったからだとされているが、真実はわからない。ところが不思議なことに、この恋人も15年ほどで心臓麻痺で死去したため、お雪はニースに居を移した。
忘れた日本語
1938年に入ると、第二次世界大戦の勃発を前にヨーロッパにも不穏な空気が漂い始め、56歳になっていたお雪は日本への本帰国を決断する。同年4月24日に長崎港に到着した際には、なんと記者会見も行われている。ただ、すでに日本語が書けないどころか、ほとんど話すこともできなくなっていた。
戦局が緊迫すると、モルガン家と縁があり、30年以上を海外で過ごしていたお雪は、特高警察の監視対象となった。軍政下で莫大な遺産も差し押さえられてしまうなど、日本人でありながらも日本社会に溶け込めず、京都で静かに隠棲する日々を送った。ちなみに、遺産は終戦後に米国政府に掛け合い、無事に相続権を回復している。
1963年5月18日、急性肺炎により81歳で息を引き取ったお雪。71歳のときにキリスト教に改宗し、「テレジア」と名をあらためた彼女は、使いきれなかった夫の遺産のほとんどを京都にあるカトリック衣笠教会に寄付したという。
お金には困らなかっただろうが、彼女の人生が幸せなものだったのかは、本人しかわからない。3回忌を迎えた1965年には、お雪をイメージした新種の白バラ「ユキサン」がフランスから贈られている。毎年命日の頃になると、加藤家の菩提寺で彼女の墓がある東福寺・塔頭の同聚院では、このユキサンが凛と花を開かせる。
J.P.モルガン
タイタニック号の乗船を直前でキャンセルしていた!

モルガン財閥の創始者で「金融王」と呼ばれた銀行家のJ.P.モルガン(写真)は、海運企業「国際海運商事(IMM)」の会長でもあり、タイタニック号を造船したホワイトスター・ライン社は、その傘下にあった。
当時最大級の豪華客船として世界中の注目を集めていたタイタニック号の処女航海には、当然ながらJ.P.モルガンも乗船する予定で、彼専用に設計されたスイートルームとプロムナード・デッキも用意されていた。
ところが、出航直前に突然のキャンセル。その理由は明かされておらず、体調を崩してフランスの温泉保養地での療養を優先したという説が最も有力視されているが、ライバル社の社長を抹殺するために故意に船を沈めたという陰謀論も根強い。実際に、ニューヨークの不動産投資で財を築いたアスター家の者が命を落としている。
ちなみに、J.P.モルガンはタイタニック号が沈没した翌年の1913年、旅行先のローマのホテルで就寝中に死去した。
お雪の結婚の10年ほど前、東京で見初められ、ウィーンの伯爵家に嫁いだ「クーデンホーフ光子」の物語はこちらから ↓
週刊ジャーニー No.1441(2026年4月23日)掲載


















セール情報をいち早くGET!今週のお買得★食料品『TKトレーディング』