■今年149回目を迎える全英オープン(ジ・オープン)は今月15日からケント県サンドイッチのロイヤル・セントジョージスGCで開催される。史上初めて4つのメジャータイトル全てを制し「キャリア・グランドスラム」を達成したプロゴルファーのジーン・サラゼン。1923年までに全米オープン1回、全米プロを2回制したものの全英オープンのタイトルは手中に収められずにいた。1928年、サラゼンはロイヤル・セントジョージスで開催される第63回全英オープンに出場するため、ベレンガリア号に乗船し、大西洋を航行していた。
●サバイバー●取材・執筆/手島 功
サラゼンは敬愛するライバル、ウォルター・ヘーゲンと共に喫煙室で一杯やりながら食後の会話を楽しんでいた。 「ヘーゲンさん。ヨーロッパ遠征は膨大な金がかかる。それでも全英オープンに勝つためなら何度でも挑むつもりです。何としても全英のタイトルが欲しい」 酔いも手伝ってか、サラゼンは饒舌に夢を語った。既に2度、全英を制していたヘーゲンはサラゼンの興奮をからかうように太い葉巻から立ち上る煙と戯れながら呟いた。 「君が全英に勝つことはないだろうよ」 ヘーゲンは驚くサラゼンの表情をいたずらっ子のように覗き込むと「ただし…」と続けた。「俺が雇ったようなキャディを使えば、話は別だ」。 ヘーゲンはウエイターが運んできた2杯目のウイスキーをひと口含むとこう言った。 「では、こうしよう。俺はもう全英を2回勝っている。もう1回勝ったところで以前ほど感動することはない。君に俺のキャディを貸してやろう。ロイヤル・セントジョージス、ディール(ロイヤル・シンクポーツ)、そしてプリンシスの3コース以外では決して担がない男だ。歳はいっているが腕は確かだ」 ヘーゲンは残りのウイスキーを一気に飲み干すとサラゼンの目をじっと見据えて言った。 「ただ、えらく選り好みの激しい男でな。特別なものを持っている人間のバッグしか担がない。例えばプリンス・オブ・ウエールズ(英王太子)とか、この俺様とかだ。今回もサンドイッチの海岸で俺の到着を待っているはずだ。キャディフィーは滅法高い。少なくとも30から40ポンドは覚悟した方がいい」 「全英に勝てるなら大した額ではありません。で、そのキャディはなんて名前なんです?」 「ダニエルズ。脚を引きずって歩くんで、スキップ・ダニエルズと呼ばれている。本名は知らん」 その後、ヘーゲンはダニエルズの性格を詳しく話し、1922年にロイヤル・セントジョージスで開催された全英オープン優勝が、ダニエルズの的確な判断と指示に負うところが多かったことなどを話した。サラゼンも特に外国ではキャディの良し悪しが勝敗の行方を大きく左右することを痛いほど知っていた。ロイヤル・セントジョージスのような屈指の難コースではなおさらだった。 クラブに到着すると早速サラゼンはダニエルズに会った。ヘーゲンが事前に話をつけてくれていた。ダニエルズは英国のキャディの中でも高齢の方で61歳だった。一度もアイロンをかけたことがないという、セルロイド製カラーをつけたヨレヨレの黒いスーツに身を包み、くたびれた帽子を深々と被って立っていた。口ひげには白髪が混じり、帽子のつばの奥でギョロリとした黒い瞳がサラゼンを値踏みするかのように鋭く光っていた。 第一次世界大戦に参戦した古兵で、戦時中はケントの海岸線を毎日のように歩いてパトロールしていたという。そのためコースの隅々まで状態を熟知していた。サラゼンはどこか超然としたこの瘦せっぽっちの老キャディに強烈に惹かれた。
運命の14番ホール
全英オープンが始まるまでの10日間、サラゼンは練習に打ち込み、イングランドのリンクスコースに馴染もうと努めた。ダニエルズは本能的に自分が仕える人間の力を最大限に引き出すコツを身に着けているかのようだった。 「今のショットは素晴らしい。ヘーゲンさんでもあれほどのボールを打っているところを見たことがありません」などと誉めそやしてはサラゼンをその気にさせた。練習場ではサラゼンがボールを打つと脚を引き摺って拾いに走り、再び走ってサラゼンの元へとボールを運んだ。また、クラブを運ぶだけでなく、ショットが悪い時にはスイングの改善点を的確に指摘した。 大会が始まる頃には2人の間には確固たる信頼関係が醸成されていた。 「今のあなたならヘーゲンさんにも負けないでしょう。ヘーゲンさんにさえ勝てばきっと優勝できます」。 トーナメントが始まった。ダニエルズに絶対的な信頼を寄せるようになっていたサラゼンは、彼が差し出すクラブを素直に受け入れ、絶妙なショットを放ち続けた。第1ラウンドを72で収め、2日目も初日同様の危なげないプレーをしていた。しかし14番のパー5ホールでサラゼンは初めてダニエルズのクラブ選択に異を唱えた。サラゼンは1打目を右に押し出し、ボールはラフに止まった。このホールはグリーン手前70ヤード辺りに深いクリーク(小川)が横切っており、俗にスエズ運河と呼ばれていた。サラゼンはボールの状態を確かめた末、スプーン(3番ウッド)でクリーンヒットすればスエズ運河を超すことができると判断した。しかしダニエルズは黙って首を横に振り、マッシー(5番アイアン)を人差し指でトントンと叩いた。しかしサラゼンは頑なだった。 「ダン。ここでバーディが取れれば単独トップだ。明日の新聞の見出しに僕の名前が載るのを見たくはないかい?」 ダニエルズは努めて冷静に答えた。 「もちろん見たいですとも。でも、今日はいけません。マッシーで確実にフェアウエーに戻すべきです。我慢してください」 しかしバーディのイメージが出来上がっていたサラゼンが耳を貸すことはなかった。 「悪いが僕は僕のやり方でやらせてもらうよ」 そう言うとバッグからスプーンをスルリと引き抜き、サラゼンは力任せにボールを引っ叩いた。ところがクラブヘッドが厚いラフに遮られてボールはわずか20ヤードほど飛んで再びラフに捕まった。頭に血が上ったサラゼンは3打目もまたスプーンで打ち、なんとかフェアウエーに出したもののその後も冷静さを欠き、結局このホールを2オーバーの7とした。ダニエルズの瞳には明らかな失望の色が浮かんでいた。 「大丈夫。すぐに取り戻しますよ」 ダニエルズは鼓舞したつもりだったがサラゼンの耳には「だからあんたはいつもヘーゲンに勝てないのだ」と言っているようにしか聞こえなかった。 結局、この年の全英オープンを制し、クラレットジャグ(優勝トロフィー)を手にしたのはダニエルズを譲ってくれたウォルター・ヘーゲンだった。サラゼンとは2打差だった。大会2日目、スエズ運河で感情的になり、ダニエルズの制止を無視して叩いた余計な2打が悔やまれた。 大会終了後、サラゼンはダニエルズにスエズ運河でのことを率直に詫びた。ダニエルズはこぼれ落ちそうになる涙を必死で堪えていた。そして別れ際、絞り出すように言った。 「サラゼンさん。もう一度やり直しましょう。私が死ぬ前に、どんなことがあってもあなたに全英オープンを勝たせたいのです」 2人は固い握手を交わし、再会を誓って別れた。
再びサンドイッチへ
4年が過ぎ、全英オープンが再びサンドイッチに帰ってきた。今回の会場はロイヤル・セントジョージスの隣にあるプリンシスGCだった。しかしサラゼンはこの時、英国への遠征に消極的だった。1929年のミュアフィールド、31年のカーヌスティとあれから2度、全英オープンに挑んだがいずれも勝てなかった。 当時、プロゴルファーのステータスは今より遥かに低く、賞金も安かったため海外遠征はリスクの高い投資となった。例え優勝できたとしても遠征費用の方が遥かに高くついた。サラゼンは財政的にも行き詰まっていた。そんなサラゼンの背中を押したのは妻のメアリーだった。 「あなたがどれだけ全英オープンに勝ちたくて、それに向けて誰よりも努力してきたことを私はよく知っているつもりです。あなたはイングランドに行くべきです」 サラゼンは答えた。 「しかし行くとなれば往復の船賃や滞在費、そしてキャディフィーなど遠征費用だけでも軽く2千ドルはかかるんだよ。優勝したって賞金はわずか100ポンドだ。こんな時期にそんな大金を注ぎ込むことに積極的になれないよ」 メアリーは少し悲しそうな表情を浮かべたかと思うと次の瞬間、母親が子どもを諭すような口調できっぱりと言った。 「お金のことなら私も随分考えました。それでも全英オープンはいい投資になるはずです。さあジーン。船とホテルはもう予約してあります。あなたがすべきことはパスポートを取ることだけ。一週間後、あなたはブレーメン号に乗ってイングランドに向かうのよ」
心変わり
イングランドに到着し、サボイホテルに投宿したサラゼンは、そこで熱狂的なゴルフファンと言う男と知り合い、翌日、スラウにあるストーク・ポージスGC(現ストーク・パーク)に誘われた。ストーク・ポージスでは27歳の若いキャディがサラゼンのバッグを担いだ。サラゼンはこの日、大層調子が良く、67でラウンドを終えた。それを見たキャディが驚き、全英オープンではぜひ自分にキャディをやらせて欲しいと激しく売り込んだ。 しかしサラゼンは「悪いがダニエルズというキャディと4年前に約束をしている。僕のことを待っているはずだ」とやんわりと断った。 それでも若いキャディは諦めず、「ダニエルズさんのことは私も知っています。でも彼はもう65歳くらいですよ。悪く言うつもりはないが、彼はあなたのバッグを担ぐにはあまりにも歳を取り過ぎています。視力も低下したらしいし、最近は病気がちだとも聞いています。もしもダニエルズさんを雇ったらあなたはきっと優勝のチャンスを棒に振ることになりますよ」と食い下がった。 サラゼンは迷った。 確かに視力も低下し、病を患ったという65歳のダニエルズにサラゼンのバッグを担ぎ続けるのは難しいかもしれない。若いキャディとの相性にも好感触を持っていた。優しい妻が貯金をやり繰りして送り出してくれた全英オープン。なんとしても勝ちたかった。サラゼンはしばらく考えた末、青年に向かって言った。 「分かった。会場で待っていなさい」 サラゼンは全英オープン本番直前、心変わりした。その代償は後にとてつもなく大きなものとなってサラゼン自身に返って来る。 ――後編に続く
ジーン・サラゼン(Gene Sarazen 1902~99)
●イタリアからアメリカに移住した家庭で育つ。本名はエウゲニオ・サラセニ(Eugenio Saraceni)。実家が貧しかったため10歳からキャディの仕事を始めたことがゴルフとの出会いだった。19歳の時にプロに転向。全米オープン2度、全米プロ3度、全英オープン1度、そしてマスターズ1度、計7回、メジャータイトルを制し、メジャー4大会を全て制した初めてのキャリア・グランドスラマーとなった。
●1935年にマスターズに優勝した際は最終日の15番ホール、残り235ヤードを4番ウッドで打った2打目が直接カップインし、アルバトロス(当時はダブルイーグルと呼ばれた)を達成。トップに並び、プレーオフの末に劇的な逆転優勝を遂げた。バンカーショットが苦手で、克服するために飛行機のフラップの形状にヒントを得、9番アイアンに鉛を貼り付けてサンドウエッジを考案した。
●日本とも縁が深く、1975年にはサラゼンが設計した「ジュンクラシック・カントリークラブ」が栃木県那須郡に設立され、1977年から「ジーン・サラゼン・ジュンクラシック」がスタート。主催者として毎年同コースを訪れた。
ウォルター・ヘーゲン (Walter Hagen 1892-1969)
●プロゴルフ界の父と呼ばれ、スポーツ界のステータス向上に尽力した。スポーツ選手として初めて生涯獲得賞金が100万ドルを超えた。メジャー制覇はジャック・ニクラウスの18回、タイガー・ウッズの15回に次ぐ11回。ただし、マスターズ選手権が始まった頃には全盛期を過ぎており、グランドスラムは達成していない。
●急成長したアメリカのプロに勝てなくなった英国の選手に「そろそろ窮屈なジャケットを脱いでプレーした方がいい」とアドバイスしたという逸話は有名。写真は1921年に全米プロを制した際のもの。
参考資料 ジーン・サラゼン著「Thirty years of Championship Golf」
週刊ジャーニー No.1195(2021年7月1日)掲載