明治の肖像 ニッポンを変えた英国人たち 中編

明治時代、驚異的なスピードで近代化を成し遂げた日本。
その実現に大きく貢献したのは日本の官民に雇われた外国人工キスパートたちだった。
今号と次号では、こうした「お雇い外国人」のうち、英国人を中心に取り上げ、素顔と業績に迫ってみたい。

●Survivor●取材・執筆/岩本 陽児氏/本誌編集部

医学

ウィリアム・ウィリス William Willis
1837~1894

  • ■鹿児島医学校長及び病院長。
  • ■1861年、イギリス公使館の医官として来日。
  • ■生麦事件に最初に馬で駆けつけた医師である。薩英戦争の時には、アーネスト・サトウとともに軍艦アーガス号に乗って参加。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩に頼まれ多くの負傷者を手当てした。西郷隆盛の弟である従道(じゅうどう / つぐみち)は彼の手術で九死に一生を得ている。
  • ■麻酔を使っての四肢切断手術や骨折に鉄の副木を使用するなど、西洋外科の新面目、発揮たるものだった。維新後は、ドイツに医学の範を取られたことが面白くなかったらしい。1869年、西郷隆盛の斡旋で鹿児島医学校を設立。そこでの月給900ドル。これは当時のメキシコドル建て給金としては破格の額で、最高級の扱いである。
  • ■アイルランド、フェルマナーの出身。ロンドンのミドルセックス病院で医者の修行を積んだ。
生麦事件で殺害されたリチャードソンの遺体(1862年)。ウィリアム・ウィリスが検死を行った。

建築

ジョサイア・コンドル Josiah Conder
1852~1920

© Otraff
  • ■工部省お雇い造家師兼工大学校教師。
  • ■1877年来日。
  • ■教育者として本格的洋風建築の学と術を日本人に引き渡すかたわら、鹿鳴館(ろくめいかん)=写真下=をはじめ、三井クラブ、皇居造営など、建築家として明治の国家を飾ることに尽力した。まさに、文明開化のデコレーター。月給350~400円。
  • ■来日前から日本文化への造詣が深く、「河鍋暁英」の画名で日本画も描いた。実は設計した鹿鳴館(1940年に解体)も「このような豪華絢爛な殿堂の猿まねは日本人には適さぬ」と反対だったようである。和洋折衷の境地をめざし、一時期は「コンドル・ジャポネーズ」を確立しようとも試みている。くめ夫人との間に1女はるをもうけた。
  • ■ロンドン出身。
© Rijksmuseum

トーマス・ウォートルス Thomas Waters
1842~1898

  • ■工部省建築師。
  • ■幕末の元治から慶応年間にかけて来日。
  • ■月給650円 (1874 年のエ部省沿革報告より)。銀座煉瓦街の仕掛け人。街路樹とガス燈のある通りはパリに、西洋風煉瓦家屋の街並みはロンドンにならって設計した。それまでの日本の木造建築は「火事とけんかは江戸の華」とうたわれたほどの大問題。煉瓦を使っての街造りは実用面でも文明開化の最先端のプロジェクトだった。彼がいなければ、日本にあの「銀座」はなかったのかもしれない。
  • ■他に現存する彼の設計した建築物として大阪の造幣寮がある。
  • ■アイルランド中部オファリー県の生まれ。
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自然科学

ジョン・ミルン John Milne
1850~1913

  • ■工部大学校の金石地質及び鉱山学教師。
  • ■1876 年、25 歳で来日。
  • ■「朝食に地震、昼食に地震、夕食に地震、睡眠時に地震、これでは誰だって地震に興味を持たないわけにはゆかないではないか」。こうもらし、地震を天災とあきらめていた当時の日本人の通念を改革。地震学会を設立し、世界の対地震構造学の祖となる。月給350~400円。
  • ■1880年頃、ミルン地震計=写真=を完成。濃尾地震での煉瓦建て建築物の崩壊を目にし、外来技術に深い反省を促す論文を発表。また、踏査旅行中に函館のあさり坂貝塚を発見している。耐震建築を草案した彼は、今日の日本が特に恩恵を受けている人物といえる。
  • ■イングランド、リバプール出身。
© Momotarou2012

ロバート・アトキンソン Robert Atkinson
1850~1929

  • ■東京開成学校の化学教師。
  • ■1874年来日。
  • ■分析化学・応用化学を教える。月給300円。1872年東京で初めてガス燈が京橋~新橋間に点じられ、一躍、そのエキゾチックさが人々を魅了した。そこで、アトキンソンはガス製造所の見学を実施。当時は気楽に官営工場の見学などができた時代ではないので、生徒たちにとっては大変実りのある体験だったと思われる。
  • ■彼のもう一つの功績は、研究者として日本の酒の醸造法を詳しく研究したこと。『ネイチャー』誌に日本における酒造の概要を発表。その中で日本酒の「火入れ」は、パスツールがぶどう酒を低温殺菌したのより300年早いことに言及し、西洋の学者を驚嘆させた。また、おしろいや藍染めなどの研究も行っている。
  • ■イングランド、ニューキャッスル出身。
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電信

リチャード・ブラントン Richard Brunton
1841~1901

  • ■灯明台築造方首長。
  • ■1868年来日。
  • ■英国の電信は初期鉄道のみに利用されており、鉄道や灯台建設の専門家としてその道を知るブラントンがまず招聘された。月給600円。
  • ■1869年、灯明台役所と横浜裁判所間に日本の官用電信の始まりであるプレゲー電信機を設置。本業の灯台建築では、任期7年の間に和歌山県串本町の「樫野埼灯台」ほか24基を完成。鉄道技術家としては、政府に、最初は短距離での敷設が賢明であることを進言した。また、横浜の吉田橋を鉄橋として架け替え新名所にしたり、外国人居留地と公園の埋め立てを行ったりもしている。これがわが国の公園施設の始まりである。
  • ■政府は彼のジェネラリストとしての多方面に渡る功績を称え、帰国の際、金2000円を贈った。
  • ■スコットランド、アバディーンシャー出身。
ブラントンの日本での最後の仕事となった角島(つのしま)灯台(下関市)。© HistorianJ

ジョルジ・ギルベルト George Gilbert
生没年不詳

  • ■電信監督長。
  • ■1869年、現役電信技師としてスコットランドの鉄道会社で働いていたところを前出のブラントンに請われ来日。
  • ■以後、6年4ヵ月に渡り創業期の電信建設に尽力した。月給 250 円。1869 年、東京築地~横浜間の電信局で公衆電報の取り扱いを開始させる。部下として働いた大貫栄十郎の述懐によれば、当時の電信柱は国産の杉の木を使い、電線はギルベルトが外国から輸入していた。契約終了後は、その息子のA・E・ギルベルトが業務を引き継ぎ、親子2代で電信敷設のプロジェクトに従事した。

ウィリアム・ストーン Wiliam Stone
1837~1917

  • ■工部省書記官のち逓信省指導顧問。
  • ■1872年来日。
  • ■前出の技術者2人の敷いたレールを整備し、日本の電信技術の信頼性を世界に広めた官僚である。主に、海外電信会社との交渉、国際電信の規約協定締結などにあたる。ことに日清・日露戦争を通じての功績は大きく、政府から勲1等を叙され、旭日大綬章を賜った。没後、外人墓地でなく逓信省次官の所有地に埋葬されたのも異例のこと。俸給の余りは寄付にまわすといった人格者でもあった。
  • ■アイルランド、スライゴー出身。
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交通

エドモンド・モレル Edmund Morel
1840~1871

  • ■初代鉄道兼電信建築師長。
  • ■1870年来日。
  • ■初の鉄道建設にあたり、新橋~横浜間、大阪~神戸間の測量にとりかかる。管理機構の面でも伊藤博文にエ部省が必要なことや、エキスパー卜養成機関の創立を進言。また、日本は木材が豊富なのでレールの枕木は鉄でなく木を使うのがよいなどといった適切な報告もしている。無念にもわが国初の鉄道の完成を見ずに、弱冠30歳で逝去。その墓は横浜外人墓地にあり、墓石は乗車券の形に彫られている。
  • ■ロンドン、ノッティングヒルの出身。
浮世絵に描かれた、新橋~横浜間の鉄道。

ジョン・ダイアック John Diack
1828~1900

  • ■鉄道建築副役。
  • ■1870年来日。
  • ■モレルを補佐し、我が国初の鉄道、新橋~横浜間の起点を示すゼロ哩(マイル)の第1杭を打つ。完成をみずに逝去したモレルよりも、実際の業務の遂行量は多いと思われる。後に、石屋川トンネルの開削、京都~大阪間の建設に尽力。 1875 年の時点で月給420円。
  • ■横浜外人墓地の墓石には「為せば成る(Try will be done)」の言葉が刻まれている。
  • ■スコットランド、アバディーンシャー出身。

造船

チャールズ・ウエスト Charles West
1847~1908

  • ■帝大工科大学造船学主任教授。
  • ■長崎造船所や横須賀造船所で実地の訓練を行う。当時、国内の造船所は修理と小型民間船の製造が主だった。主力艦(軍艦)の製造はもっぱら英アームストロング社とビッカース社に発注された(年平均5000トン)。この労も彼が取っていたと思われる。
  • ■「大名」と命名した自分のヨットで帆走を楽しんだ。なお、軍事は当初、陸軍はフランス大使ロシェの影響でフランスが請け負い、後ドイツに学ぶこととなる。海軍はもともと陸軍の従属機関であったが、1872年以降、鹿児島出身者が中心となり英国主導になった。英海軍の機関士や水夫などが多数来日している。
  • ■アイルランド、ダブリン出身。
横須賀造船所(1903年撮影)。「日本陸海軍写真帖」より抜粋。© 高島信義

■編集部注■本記事では、スコットランド・アイルランドを含む英国圏出身者で、活躍の顕著な「お雇い外国人」の方々のみを取りあげた。なお、英語名のカタカナ表記は、当時の日本での読み方をそのまま残した形で掲載している。

執筆者
和光大学 現代人間学部 人間科学科教授(研究分野は社会教育学・環境史・日欧文化交流史)/地域史研究家 岩本陽児氏

参考文献
お雇い外国人全17巻(鹿島研究所出版会

週刊ジャーニー No.1437(2026年3月26日)掲載