1946年、ポーランドからの「戦争孤児」を英国に運んだ、スウェーデン籍の船の甲板にて。一番右上端に写っているのがアーノルド少年(白い円で示してある)。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■ヒトラーが自決してから約1年後。
ポーランドからの「戦争孤児」120名をロンドンに運ぶ1隻の船がテムズ河に入った。英国政府が受け入れに合意した彼らには英国籍が約束されていたのだ。
その中に、アーノルドという14歳の少年の姿もあった。後にフルトン姓を名乗るこの少年は、やがて傘会社を興し、英国王室ご用達の栄に浴するまでになる。
今号と次号にわたり、このアーノルド・フルトン氏(Arnold Fulton 1931~2022)の生涯を振り返ってみることにしたい。

 ゲットーからの決死の脱出

フルフト一家が住んでいた建物(1990年代に撮影されたもの)。当時はバルコニーがあり、アーノルド少年はそこから、様々な場面を『目撃』した。

「さ、目をつむって」
プォーヴェシカ夫人は薬棚から包帯を取り出し、優しい微笑をアーノルドに向けた。そして、アーノルドの頭髪と目がすべて隠れるように慎重に包帯を巻き始めた。

1943年4月のある朝のこと。
11歳のアーノルド・フルフトは、ポーランド南西部の都市チェルストホヴァで、ナチスのゲシュタポ(国家秘密警察)の支部からすぐ目と鼻の先にあるフラットにいた。プォーヴェシカというポーランド人の夫人とは、その前夜に会ったばかりだった。
「あなたのこの可愛らしい、ふさふさとした濃い色の髪、そしてそのぱっちりとした大きな目―濃い褐色の哀愁を帯びた目。誰が見てもすぐにユダヤ人だと分かってしまうでしょう」
夫人は包帯を巻く手を休めずに続けた。
「でも、大丈夫。私にいい考えがあるから。もし誰かがこの包帯姿を見て『その子、どうしたんですか』と尋ねるようなことがあったら、こう答えましょう。落馬事故にあって頭と目にケガを負った、かわいそうな甥っ子を、おばの私がワルシャワの専門医のところに連れて行くところなのです、と。いいわね?」
「はい、分かりました」
暗闇の中でアーノルドはそう答え、この勇敢で親切なプォーヴェシカ夫人にすべてを任せるしかないと改めて自分に言い聞かせた。

ナチス・ドイツがアーノルドの生まれた国、ポーランドに突然侵攻してから3年半余りがたっていた。アーノルドが家族と住むゲットー(ユダヤ人居住区)は、居住範囲がますます狭められ、食べ物が乏しくなる一方、子供たちを中心に強制収容所へ送る「セレクション」が行われるようになっており、アーノルドの父親も大きな決断を下さざるを得なくなっていた。

アーノルドには6歳上の姉、ソーニャがいたが、そのソーニャは1週間前に同様の手はずで既にゲットーから脱出していた。
プォーヴェシカ夫人に包帯を巻かれている間、アーノルドは前夜のことを思い出していた。夕方6時ごろ、父ヤクブは彼に向かって静かに告げた。
「アルシュ、おまえの番だ。今晩、出かけなさい」
アーノルドは両親や近しい人々から「アルシュ」あるいは「アレック」と呼ばれていた。ヤクブが予め購入しておいたフラットがワルシャワにあり、このゲットーを密かに脱出して家族でそこに移り住むというのが、ヤクブが立てた大胆な計画だった。
「お父さんとお母さんもいっしょだよね?」
「私たちは後で追いかける。3人で動くのは余りに危険なのだよ」
「いやだ、行きたくない」
「3週間のしんぼうだ。そうすれば、またみんな勢ぞろいだ。いいね、愛しているよ」

ゲットーのまわりにはりめぐらされた柵に、小さな穴が開けられた。その穴から這い出て、30ヤード(約27メートル)先にある角まで走る―それがアーノルドの『任務』だった。柵のそばには、ウクライナ人兵士が銃を持って監視に立っているが、「袖の下」が渡されていた。アーノルドが脇を走り抜ける際、ウクライナ人兵士はちらりと視線を投げ、ウインクしたのみだった。

無事に角までたどりついたアーノルドを出迎えてくれたのがプォーヴェシカ夫人だったのだ。
世界恐慌のあと、苦しい経済状態の中で、怒りのはけ口をユダヤ人に向ける人が多数派だったとされているポーランドにあっても、同夫人のように、ユダヤ人を救うために文字通り命懸けで危ない橋を渡ったポーランド人も少なくなかった。それにしても、身を粉にして働きビジネスを成功させた結果、得たものが妬みやうらみだったというのではユダヤ人にとって不条理としか言いようがないが、アーノルド一家を襲ったのも、この不条理な定めだった。

JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi
KaitekiTV

英国ファンの父と美しいもの好きの母

腕の良い背広作りの職人として知られた、父ヤクブ(Jakub Frucht)=写真右=と、社交的だった母、スィルトゥラ(Cyrtula)=同左。

アーノルド・フルフトの父、ヤクブは1900年にポーランドで生まれた。3歳下の母、スィルトゥラとは23年に結婚。母親は美しいものをこよなく愛す社交的な女性で、家には豪奢なペルシャじゅうたんが敷かれ、輝くばかりに手入れされたグラスと毛皮のコートは、彼女の大切な宝物だった。

2年後には長女のソーニャが誕生、そして31年7月17日、待望の男児としてアーノルドが産声をあげた。4人家族の幸せな生活が始まった。

ヤクブは腕の良い仕立て屋だった。100メートル先からでも彼が仕立てた背広は分かるといわれたほどで、店は大いに繁盛した。倉庫には様々な生地が積まれ、中でも「Made in England」と記された生地は最高級品だった。大切な生地をムシから守るための樟脳(モスボール)の匂いをかぐのが、アーノルド少年は好きだったという。

父ヤクブは、訪れたことのないイングランドに強い憧れを抱いていた。ハイド・パークのスピーカーズ・コーナーでは女性でさえ言論の自由が認められると熱をこめて語り、いつかアーノルドをケンブリッジ大学で学ばせたいというのが口癖だった。だが、アーノルドが期せずしてひとり英国へ渡り、立身出世を果たすことになろうとは、この時ヤクブはもちろん、アーノルド自身も知るよしもなかった。

幸福な8年はまたたく間に過ぎ、すべてを変えるできごとが、起こってしまう。39年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したというニュースは世界に衝撃を与えた。フルフト家の日常も一変。ポーランド中央部から西部にかけて、この秋だけで5千人のユダヤ人が虐殺された。しかし、それは単なる序章でしかなかった。ガス室へ送られたユダヤ人の数は、チェルストホヴァという都市ひとつのみを見ても4万人に上ったといわれている。

生き残ったユダヤ人に対しての締め付けは、日を追うごとに厳しくなっていく。41年にはゲットー(ユダヤ人居住区)が定められた。フルフト家は既にその区域内にあったため、引っ越さずに済んだものの、一家はやがてある選択を迫られる。ゲットーに残り、ゲシュタポ(ナチス・ドイツの国家秘密警察)に連行される日をおびえながら待つか、いちかばちかでゲットーから脱出するか。

43年春、ヤクブは後者を選んだ。そして、プォーヴェシカ夫人をはじめとする協力者のおかげで、まず子供たちがゲットーからの脱出に成功した。

↓画像をクリックすると拡大します↓

マップ
1942年、第3帝国時代のドイツ(大ドイツ国)の領土(Martin Gilbert: The Holocaust. Jewish Tragedy., London 1986より) *赤い点線は1942年末のドイツ軍前線、収容所は主な強制収容所のあった場所。★印は、アーノルドの故郷、チェルストホヴァ

信じがたい知らせ

アーノルド・フルフトは、「Ulica Berka Joselewicza」8番地のフラット7号で誕生した(写真は1990年代に撮影されたもの)。

アーノルド少年が、姉ソーニャの潜伏するワルシャワ市内のフラットにたどり着いてから約1ヵ月が経過した。誰かが玄関のドアをノックするたびに緊張が走る。アーノルドの両親かもしれないが、密告を受けてユダヤ人を探しに来たゲシュタポかもしれない。

この日もドアをたたく者があった。そっと開けてみると、ドアの外にたっていたのは、チェルストホヴァでフルフト家と家族ぐるみのつきあいをしていたユダヤ人の男性だった。彼がどうやってゲットーを抜け出したのかは分からない。彼は言った。
「ソーニャ、君に話がある。君だけに、だ」
別の部屋に入った2人は扉を閉め切った。その会話が終わってからも、ソーニャはしばらく部屋から出てこなかった。ようやく部屋から出てきたソーニャは、目が赤かった。
「何かあったの?」
「おなかが痛いだけよ、アルシュ」
「彼は何て言ってたの?」
「何でもないわ。心配しないで」
それ以上の答えを得られないまま、数日が過ぎた。しかし、ソーニャはしょっちゅう泣いているらしかった。
「ねぇ、どうしたの?」
そう聞いても「痛むの」としか答えてくれなかった。
「お医者さんに行った方がいいよ」
「お医者さんには治せないと思うわ」

17歳のソーニャはアーノルドにどう伝えていいものか、思いあぐねていた。彼らの両親がもうこの世にいないことを。しかし、いつまでも隠しとおせるはずがない。数日後、アーノルドはこの信じがたい事実を告げられた。といっても、ゲットーから脱出しようとして見つかり、銃殺されたという最低限の情報でしかなかった。

両親の身に実際何が起こったのか、アーノルドは後年、懸命に突き止めようとした。調べたこと、あるいは人づたえに聞いたことなどを総合すると、こういう話だったようだ。
ワイロを渡したはずの監視のウクライナ兵が裏切ったのか、あるいは単に、運悪く他の誰かに見つかってしまったのかは不明だが、両親は、ゲットーを脱出しようとして捕まった。着衣をすべて取り上げられた後、自分たちで穴を掘るよう命じられた。恥辱と恐怖に耐えながら墓穴を掘る2人の姿が思い浮かんだ。
そして銃声。2つの亡骸はその墓穴へと倒れこみ、やがて土がかけられた。

両親は死ぬ間際まで、アーノルドとソーニャの行く末を心配していたに違いない。子供たちの身を案じる気持ちは、自分たちが直面している死への恐れ以上に強かったのではないかと、アーノルドは自分が親になってから思うようになったという。

11歳と17歳で孤児となったアーノルドとソーニャ。しかし泣いているわけにはいかなかった。生き延びなければならない。両親にもらった命を守りきらなければ―。

ゲシュタポの影

ユレクがアーノルドのために入手してくれた、ポーランド人「Adam Filipczak」としての偽身分証明書。

2人の唯一の頼りは、ユレク・イグラだった。母方のいとこであるヤクブという男性の妻、アニャの末弟で、25歳のユレクは、金髪碧眼で長身。ヒトラーが理想としたアーリア人種としての身体的特徴をすべて備えていたうえに、ドイツ語も堪能、そして何より頭の回転が早く、しかも思慮深く勇敢だった。ユレクは偽造の身分証明書をまず用意してくれた。ソーニャには「Zofia Wieslawska」、アーノルドには「Adam Filipczak」というポーランド名がそれぞれ与えられた。

アーノルドとソーニャに加え、ワルシャワのフラットには、アニャ夫妻、ユレクの兄弟であるステファンと妻ヤンカ、同じくユレクの兄弟のヘニェックと妻ミラ、そして彼らの息子でアーノルドと同い年のルチェックがいた。9人の大所帯だ。

2部屋と小さなキッチン、バスルームと、物置や洗濯物を干す場所として使えるロフトがあるだけの小ぢんまりとしたフラットに、6人の大人と3人の子供が生活すること自体、物理的に容易ではなかったばかりか、近所には女性の1人暮らしというふれこみになっていた。物音を極力立てずに過ごし、外に出ることもかなわず、ゲシュタポの影にびくびくしながら過ごす毎日。アーノルドに許された喜びは、読書だけだった。

アウシュヴィッツ収容所の入り口。「労働は自由をもたらす」との皮肉なモットーが掲げられている。

まもなく、隠れているユダヤ人たちに、ナチスがある伝達を行った。指定の日に、ワルシャワのあるホテルへ出頭すれば、ドイツの「労働者収容所」に送る、というものである。「労働者収容所」は他の強制収容所とは異なると強調されており、そこへ先に送られたユダヤ人からのハガキも紹介された。そのハガキには、環境は悪くなく、毎日の労働もそれほど厳しくないという旨のことが記されていた。

見つかることを恐れながらの、息のつまるような生活が今後どれくらい続くか分からない。また、今回のナチスの通達を無視した後で逮捕されれば、さらに過酷な状況に置かれると予想された。精神的に追い詰められていたヘニェックにとって、今回の通達はあまりに「魅惑的」すぎた。ユレクは行ってはいけない、と説得に努め、最後は行かないでくれと頼み込んだが、ヘニェック一家は出て行った。

彼らのその後が伝えられたのは、それから1年もたってからのことだった。3人とも、ガス室に即座に送られたという。

残った6人にも、ナチスの手が迫っていた。階下の住人が、「1人住まいの割りに、トイレを使う回数が多すぎる」と、ゲシュタポに通報したのだ。ある日、ドイツ兵数名がフラットに乗り込んできた。ジープが停まる音を聞いた6人は、彼らが戸口から押し入る前にロフトに隠れ、息をひそめた。家具をひっくり返して、床下スペースへの秘密の入り口などがないか探した後、兵士らはまた嵐のように去っていった。アーノルドたちは運良く助かった。

脅迫者との対決

しかし、もうそのフラットにい続けることはできない。
ユレクは6人の隠れ家を手配するのに奔走した。危険を察知しては移動することを繰り返さざるを得なかったが、6人まとめてでは目立ちすぎるため、アーノルドは1人きりで潜伏しなければならないこともあった。

アンカという、これもまた勇気あるポーランド人女性の部屋の床下で数日隠れたこともある。アンカはポーランド解放をめざすポーリッシュ祖国軍のメンバーで、表向きは売春をなりわいとし、ドイツ軍将校を客としてとりながら情報を得る一方、ユダヤ人から英空軍兵まで、様々な人々をかくまい、逃亡を手伝った。彼女は戦時中にゲシュタポに逮捕され処刑されたが、戦後、イスラエル政府によりその功績が認められ、『Righteous Among the Nations』(諸国民の中の正義の人)という称号を与えられている。アーノルドの人生は、こうした幾人もの「命の恩人」たちなくしては成り立たなかった。

だが、一番の恩人は、文句なくユレクであろう。どこへ行くにしても、アーノルドはこのユレクの頭脳と行動力に感服するばかりだった。ある時も、こんなことがあった。
ユレクがアーノルドを連れて、路面電車で次の潜伏先へと向かう途中、あるポーランド人男性が話しかけてきた。
「その少年はユダヤ人に見えるが」
「その通り。私もそう思い、ゲシュタポ本部に連行するところだ」
そういうなり、ユレクはドイツ語でポーランド人男性に間髪いれずにたたみかけた。男性は、ユレク自身がゲシュタポの将校だと思いこんだらしく、急に態度を改め、
「いえ、それなら良いのです」
とつぶやき、次の停留所でそそくさと下車したのだった。

アーノルドの人生における最大の恩人のひとり、ユレク・イグラ(Jurek Igra)と、アーノルドの姉ソーニャ。1943年、ワルシャワで撮影。

ユレクといれば大丈夫―大きな信頼を寄せたのはアーノルドだけではなかった。ソーニャは、アーノルド以上にユレクを頼りにし、やがて2人のあいだに愛が芽生えるようになっていた。両親が亡くなったあと、泣きたくなった時にうずめることのできる胸をみつけたソーニャを、アーノルドはうらやましく思わずにいられなかった。父や母のように、もう誰も僕を抱きしめてはくれない、アーノルドは独りで泣くしかなかった。

ワルシャワでの潜伏生活中、最大の危機はこのユレクがいない時にやってきた。

その隠れ家では、アーノルドは久しぶりにソーニャと暮らせていた。ところがある日、誰かがドアをたたく音がし、不用意にもアーノルドはドアを開けてしまう。そこには、みすぼらしい上着を羽織ったポーランド人の男と、若いドイツ人将校が立っていた。
男は言った。
「選択肢は2つ。私たちとゲシュタポ本部に行くか、あるいは金を渡せば、そのユダヤ人の少年がここにいることだけは黙っていてやろう」
男が口にした金額が大きいことは、12歳のアーノルドにも分かった。しかも、たとえその金が用意できたとしても、ソーニャは連れて行くという。
「ドイツ兵の間では、おまえのような娘は常に大歓迎されるのさ」
アーノルドもソーニャも泣き出した。ソーニャは見逃してくれるよう、ポーランド語で切々と訴えたが、20代半ばと思えたそのナチスの将校は、ポーランド語をまったく解さないようだった。
その将校の様子を見て、アーノルドはとっさにひざまずいた。そして、涙を流しながら将校の軍靴に何度も口づけしたのだった。
アーノルド自身、なぜそのような行動をとったのか分からないという。しかし、将校の心に変化が起こったことだけは確かだった。彼はポーランド人の男に向かってドイツ語で鋭い言葉を投げつけたかと思うと、男を連れて立ち去ったのである。数時間後、知らせを受けたユレクに連れられて、アーノルドたちはその隠れ家を後にした。

炎に包まれるワルシャワ

死と隣り合わせの潜伏生活が続く中、1944年7月17日を迎えた。この時の隠れ家には、ユレクの兄ステファンと妻ヤンカ、姉アニャとその夫ヤクブもおり、13歳になったアーノルドをささやかながら祝ってくれた。

その6週間後の8月1日、ワルシャワで大規模な戦闘が発生した。後にいう「ワルシャワ蜂起」だ。劣勢に立ちつつあったナチスから占領地を横取りすべく、ソビエト軍がポーランドに侵攻してきたことがひきがねとなった。

ワルシャワ市内は混乱を極め、ナチス・ドイツ軍はポーランド軍、民間人の見境なく、手当たり次第に虐殺。また、ヒトラーがワルシャワを焼き尽くすよう命令を下したため、建物に次々と火がかけられた。

アーノルドたちは、当初は隠れ家内にいたほうがまだ安全だと成り行きを見守っていたものの、火の手がまわり始めたため、殺戮の嵐が吹き荒れるワルシャワ市内へと出るしかなくなった。離れ離れにならないように努めたが、アーノルドたちはステファンやヤクブとはぐれてしまう。ようやくヤクブの姿を見つけ、彼のところに向かおうとした時、1人のポーランド人がヤクブを指差して叫んだ。
「ユダヤ人に見えるぞ」
そこへ、ドイツ兵が現れ、ヤクブの上着のえりをつかみ、通りの角まで連れて行ったかと思うと、1発の銃声が響いた。
アーノルドたちはその場に立ち尽くした。ヤクブの妻アニャが悲鳴をあげそうになったのを見るや、ステファンの妻ヤンカは、自分の手でアニャの口をふさいだ。ヤクブと関係があると知れれば、自分たちも殺される―知らぬふりをして立ち去るしか生き残る道はなかった。

アニャとヤンカとともにアーノルドは逃げた。幸い小さなキリスト教の教会があり、そこで3人は夜を明かした。
濃い色の髪と瞳は典型的ユダヤ人の外見とされていたが、明るい色の髪を持つアニャとヤンカなら、そのままポーランド系キリスト教徒としてそこに隠れていることもできただろう。しかし、濃い色の髪と哀愁を帯びた瞳のアーノルドを連れていては、それは無理なことだった。教会である限り、一般人も出入りする。そのうち、誰かがゲシュタポにアーノルドのことを密告して万事休す、という事態になることは目に見えていた。

3人が途方に暮れていたころ、アーノルドたちがこの教会にいることは、あのプォーヴェシカ夫人に伝わるところとなった。夫人の手引きで、3人はアーノルドの生まれ故郷、チェルストホヴァに向かうことになった。
アニャとヤンカは、夫人の助言に従い、アーノルドの頭髪と目を包帯で覆った。アーノルドは再び暗闇の世界へと沈まざるを得なかったが、嫌がっている時間はなかった。

キリスト教修道院での日々

修道院でスープが配られるのを待つアーノルド(写真内の矢印)。

チェルストホヴァに着いたアニャとヤンカは、プォーヴェシカ夫人に言われた通り、アーノルドの手を引きある場所へと向かった。包帯を解かれたアーノルドの目の前にあったのは、カトリック教のセント・ヤナ・ボスコ修道院だった。修道院の中なら、外部の一般人の目にふれることは、そうそうない。賢明なプォーヴェシカ夫人のアイディアだった。

2人の女性は、アーノルドに偽造の身分証明書を取り出させてから、対応に出た修道士にこう説明した。
「このかわいそうな少年は、ワルシャワのがれきの中でさまよっていたのです。両親もなくしたそうですわ。さ、アダム、身分証明書をお見せなさい」
「あなた方は、良きキリスト教徒としての義務を立派に果たされましたね。もう安心です、アダムのことはお任せください」
アニャとヤンカは『アダム』に向かって微笑んだ。
「アダム、体に気をつけるのですよ。幸運を祈ってますからね」
そうして2人のおばは、あくまでも親切な他人として、アーノルドを修道院に残して去っていった。

修道院にはアーノルド以外にも、事情があってそこに暮らす少年たちがいた。大部屋の寝室には30ほども寝台が並んでいたという。すべては質素だが清潔に保たれていた。
朝6時半の起床から始まる規則正しい生活に退屈する子供もいたが、今までの明日をも知れぬ毎日に疲れきっていたアーノルドにとっては、久々に味わう平穏であり、翌日に起こることが約束された暮らしの有難さを切実に感じずにはいられなかった。

しかし、カトリック教のイロハも知らない状態で、修道院で生きるのは危険すぎる。
アーノルドはあることを決意した。
カトリック教に「ざんげ」という行為があり、そのざんげの内容に関して、司祭たちは完全な守秘義務があることを聞き及んでいたアーノルドは、20代の親切なゴリク司祭を相手に選び、意を決して口を開いた。
「司祭様、私の罪をお許しください」
「どんな罪なのか、話しなさい」
「僕の両親は…ドイツ人に殺されました」
「かわいそうに、多くの起こってはならないことが起こってしまった。それで?」
「僕は…チェルストホヴァに生まれました」
「それのどこが罪なのです?」
「僕は…」
アーノルドは正直にいうしかないと腹をくくった。
「僕は…ユダヤ人なのです」
恐ろしいほどの沈黙が流れた。ざんげ専用の小さなボックスの中では、司祭の顔は見えないようになっている。アーノルドは、自分の右手で左手を強く握り締めた。

《後編》につづく

週刊ジャーニー No.1358(2024年9月5日)掲載