

530年の眠りから覚めた
リチャード3世
シェークスピアの戯曲『リチャード3世』の中で、醜い姿をした狡猾で冷酷な人物としてえがかれているリチャード3世。近親者を次々と手にかけて王位を簒奪した「惨忍な暴君」というイメージが定着しているが、一方で軍事的才能に恵まれた「勇敢な王」だったとも言われている。2012年、そのリチャードの遺骨がイングランド中部レスターの駐車場で発見され、世界中に衝撃が走った。2年半の調査を終え、今年3月、レスター大聖堂に埋葬されたリチャード3世の戦いに明けくれた激動の生涯と、遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。
【参考文献】
Philippa Langley and Michael Jones『The King's Grave: The Search for Richard III』、Mathew Morris and Richard Buckley『Richard III: The King Under the Car Park』、森護 著『英国王室史話・上』中公文庫ほか
●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部
駐車場でよみがえった王
2012年9月5日、イングランド中部の都市レスター。連日の曇天から一転し、透き通るような青空と燦々と降り注ぐ陽射しのもと、立ち入り禁止となった市営駐車場の土壌を、数人の作業員や考古学者たちが細心の注意を払いながら黙々と掘り返していた。この駐車場は、13~16世紀にかけて「グレイフライヤーズ」という修道院が建っていたとみられている場所だ。
この修道院は『稀代の暴君』として知られるリチャード3世とのつながりを、古くから指摘されてきた。遺骨はそこに埋葬され、かの王はそのまま地中に眠っているとも、ヘンリー8世の時代に修道院が閉鎖・破壊された際に掘り起こされ、川に投げ捨てられたともいわれていたが、5世紀以上にわたり、真相をつきとめた者はいなかった。
リチャード3世ほど謎や疑惑に満ち、論議を呼ぶ国王は、英国史上いないのではないだろうか。それゆえに多くの人々が魅了され、彼の「素顔」を解き明かそうとしてきた。そして長年にわたる調査の結果、「修道院跡地でいまだに眠り続けているに違いない」と強く信じる、ある女性歴史家の働きかけによって、2009年、ついにリチャード3世の遺骨を探すための一大発掘プロジェクト「Looking for Richard(LFR)」が動き出したのだった。この日は、世紀の発掘作業がスタートしてから12日目。すでに修道院と思われる建物の土台や床に敷き詰められていたタイル、数体の遺骨などを発見していた。
作業をはじめて数時間ほど経ったころのこと。修道院内でもっとも神聖な場所であり、祭壇や聖歌隊席が並ぶ内陣跡を手作業で掘り進めていた作業員が、人骨らしきものを見つけた。現れたのは、戦闘で受けたと思われる傷だらけの頭がい骨。一瞬にして緊張が走る。修道院などに埋葬される場合、遺体は布に包まれるか、棺に納められるのが一般的であるにもかかわらず、布や棺があった形跡がない。そして何よりも埋葬地が内陣ということは、この遺骨がかなり高貴な身分の人物であることを示している。
「これはもしかして!?」
現場は騒然となった。現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼び寄せ、関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いていく。やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。リチャード3世の肉体的特徴と合致するものだった…。
いわくつきの王のものと思われる遺骨発見のニュースは瞬く間に広がり、世界を驚愕させた。ここまでの興奮をもって迎えられるイングランド王は、おそらく他に類をみないだろう。在位はわずか2年であったにもかかわらず、シェークスピアの戯曲によって、残忍冷酷、醜悪不遜、奸智陰険など、最大級の汚名を被せて語られてきたリチャード3世。戦場で命を散らせた最後の王でもある彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?
兄への忠誠
リチャード3世像。
リチャードが誕生した時世は、曾祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによってはじまった英仏百年戦争の終盤であった。イングランド軍の劣勢が続き、1453年についに敗退。イングランド国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていたことから「薔薇戦争」と呼ばれ、王位をめぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることとなる。父と次兄は戦死するが、長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位。リチャードには、弱冠8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。
19歳で王となったエドワード4世にとって、年齢の離れた弟は唯一ともいえる「気を許せる存在」だったのだろう。常にリチャードを気にかけ、軍事的な才覚の片鱗をみたのか、11歳になるころには軍事会議に参加させるようになる。リチャードは兄に忠誠を誓い、めきめきと頭角を現していった。
エドワード4世の王位は安泰なものではなかった。ランカスター派の残党に目を光らせなくてはならず、また政治の実権はウォリック伯が握っていた。その鬱憤を晴らすかのように多くの女性と浮名を流し、やがて遠征先で出会った、あろうことか敵対するランカスター派の年上の未亡人エリザベス・ウッドヴィルと秘密裏に結婚してしまう。
当然ながら、ウォリック伯はこれに激怒した。フランス王女との婚姻話を進めていた彼は面目を失い、さらにウッドヴィル家の者が次々と要職に就き、宮廷内の勢力図が塗り替えられようとしていたのである。1469年、ウォリック伯は娘とエドワード4世のもう一人の弟にあたるジョージを結婚させ、彼と手を組んで反乱軍として決起。エドワード4世を王位から追い落とし、ヘンリー6世を復位させた。
ただウォリック伯はこのとき、大きなミスをひとつ犯したといえよう。リチャードを己の陣営に引き込むことができなかったのだ。目覚しい能力で軍司令官として国王軍の一端を任されていた16歳のリチャードは、ウォリック伯の甘言を退け、長兄と反撃の準備を整える。そして1471年、エドワード4世は王位に返り咲き、ウォリック伯とヘンリー6世の息子であるエドワード皇太子は戦死。幽閉されたヘンリー6世も、ロンドン塔内で殺害された。ランカスター家の直系は、ここで途絶えたのである。

ロンドン塔の2人の王子
殺害されたのか?

1674年、ロンドン塔改修の際に、子供の遺骨とみられる頭蓋骨や骨片が入った木箱が発見された。エドワード5世兄弟ではないかとされ、ウェストミンスター寺院に安置された。1933年に専門家によってその遺骨が鑑定され、保存状態がよくなかったものの、10歳と12歳くらいの少年の骨であることは判明している。
裏切りには裏切りを
年齢の離れた従兄弟であるウォリック伯(右)。
ウォリック伯は別名「キングメーカー」とも呼ばれた。
1483年、ヨークシャーのミドラム城で妻子と過ごしていたリチャードのもとに、エドワード4世の急死の報が届く。まさに寝耳に水の出来事であった。リチャードはエドワード4世が復位した翌年に、ウォリック伯の娘アン(リチャードの兄であるジョージの妻の妹。ジョージは刑死、妻は病死している)と結婚し、息子を授かっていた。終始忠実であったリチャードの信用は厚く、ウォリック伯が残した広大なイングランド北部の領地を相続。強大な権力を手にしたものの、スコットランドとの国境線をしっかりと護り、領地を公平に治め、領民の評判もよかったとされている。
40歳という若さでの王の死は肺炎が直接の死因だったが、実は長年にわたる不摂生な生活でかなりの肥満体になっており、派手な女性関係によって多数の病も患っていたという。王位は12歳になるエドワード4世の長男(エドワード5世)が継ぐことになったが、それに際し、同王は遺言を残していた。その内容とは、「エドワードが戴冠するまでの国王代理、ならびに成人するまでの後見人(護国卿)としてリチャードを指名する」というもの。エドワード4世の弟に対する深い信頼がうかがえよう。ところが、これを不服としたのが実権を握っていた王妃の親族ウッドヴィル家である。一族から後見人をたてたうえで、王の死がリチャードに伝わる前に葬儀を終わらせ、エドワード5世の戴冠式を行おうとしたのだ。
しかしながら、その計画はリチャードの知るところとなった。
「これまで尽くしてきた私を裏切るのか!」
激しい怒りで手を震わせながら手紙を握りしめたリチャードは、ひとつの決断を下す。王を支える右腕になろうと研鑽を積み、奪われた王位を取り戻そうと戦った日々――兄の遺志を無にすることは気がとがめるが、これ以上ウッドヴィル一族に好き勝手させるわけにはいかない。
「私が王になる」
リチャードの行動は早かった。まずは王妃を油断させるために、エドワード5世に忠誠を誓う旨を記した文書を送った。兄王の追悼ミサをヨークで行い、喪に服すふりをしながらじっと機を待つ。やがてエドワード5世が滞在中のウェールズからロンドンへ向かったことを知ると、リチャードもヨークを発った。ノーサンプトンでの合流に成功したリチャードは、同行していたエドワード5世の側近たちを捕縛した後、エドワードの護衛として堂々とロンドンに進み、そのまま彼をロンドン塔に幽閉した。身の危険を感じた王妃は、子どもたちを連れて中立を保っているウェストミンスター寺院に逃げ込むが、王位継承権を持つ10歳の次男もロンドン塔へ送られてしまう。これが2人の息子との永遠の別れになった。
議会承認のもと、リチャードはエドワード4世が重婚していたことを明かし(事実関係は解明されていない)、エリザベス・ウッドヴィルとの婚姻無効を宣言、子どもはエドワード4世の庶子であるとして王位継承権の剥奪と自身の即位を表明した。リチャード3世の誕生である。
不安定な王位と相次ぐ死
右手に持つのはランカスター家の赤薔薇。
その機を逃さず、リチャード打倒に立ち上がった人物がいた。傍系ながらランカスター家の血を引くヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)である。ヘンリーの母はエドワード3世の血筋の出身であったが、庶子の家系であったため、王位継承権を認められていなかった。それゆえに、エドワード4世が復位したときにも粛清の対象にならず、ヘンリーはフランスで亡命生活を送っていたのである。
さらに負は連鎖していく。1484年、生まれながらに病弱であった息子のエドワードが10歳で早逝。息子の後を追うかのように、妻アンも結核で死去してしまった。立ち込める暗雲を吹き飛ばすべく、リチャードは決意する。「ヨーク家とランカスター家の因縁の戦いに、決着をつけなくては」。家族の死が相次ぐ中、イングランドへの上陸を目論んで幾度も攻撃をしかけてくるヘンリーに、リチャードは苛立ちを隠せなくなっていたに違いない。
1485年6月、リチャードはノッティンガムに滞在し、軍装備の拡充・製造に取りかかる。これまでヘンリーの上陸を阻んできたが、あえて降着を許し、戦場で壊滅(かいめつ)しようと考えたのである。
鬼神の壮絶な最期
はボスワース・バトルフィールド・ヘリテージセンターや、
リチャードが最後に使ったという井戸がある。
ヘンリーがウェールズに降り立ったことが伝えられると、リチャードは北部から援軍を呼び寄せ、南部からの援軍はレスターで合流するよう指示する。20日の夕方、リチャード軍はレスターに集結。翌21日の朝、ヘンリーがアザーストーンに到達したとの報を受け、決戦の地へと進軍を開始する。
22日朝、ついに両軍はレスターから西へ20キロほど離れたボスワース平原で向き合った。掲げられた無数の軍旗が大きくたなびき、甲冑の触れ合う音と馬のいななき以外、物音はしない。恐ろしいほどの緊張感が辺りを包んでいた。
バン!バーン!
リチャードの軍から敵陣に放たれた銃声を合図に、戦いの火ぶたは切って落とされた。
リチャードは勝利を確信していた。戦闘準備は万全であったし、兵力も圧倒的に有利(リチャード軍約1万人、ヘンリー軍約5千人)であるうえ、歴戦を戦い抜いてきた経験と自信があったからだ。一方、ヘンリーには軍事経験がなかった。軍の全権を握っていたのはオックスフォード伯で、彼さえ仕留めれば戦いはすぐに終結するように思われた。
リチャードは中央に本軍、右翼にノーフォーク公軍、左翼にノーサンバランド伯軍という布陣を敷いていた。オックスフォード伯はまず右翼に狙いを定め、ノーフォーク公を討ち取る。リチャードはすぐさま左翼に指令を飛ばすが、ノーサンバランド伯は軍隊をその場にとどめたまま動かない。
「裏切りだ!」
リチャードは叫んだ。この背信によって本軍は中央に取り残され、オックスフォード伯軍に囲まれてしまう。絶体絶命の危機に陥ったリチャードの目に、前方からスタンリー卿の援軍(約6千人)が到着するのが映った。

ところが希望を抱いたのもつかの間、なんとスタンリー卿も行進をやめて止まってしまう。
「裏切りだ! おまえもか!」
リチャードは怒りで目の前が真っ赤になった。打開策はないかと周囲に目を走らせると、主戦場から離れた場所で少人数の騎士たちに守られてたたずむヘンリーの姿を捉える。「奴を討つしか方法はない」。リチャードは側近に合図を出すと、愛馬の脇腹を力いっぱい蹴り上げて一気に駆け出した。
「ついてこれる者は来い!」
背は曲がり、左手は萎え、左足を引きずっている。
広大な領地を手に入れるため、
アン(のちの妻)を口説き落とそうとしている。
遺体は丸裸にされた後、両手首を縛られた状態で馬にのせられてレスターに運ばれ、衆目にさらされた。ヘンリーがロンドンへ凱旋すると、葬儀はもちろんのこと、身体を清められることさえもなく、グレイフライヤーズ修道院の内陣に簡易的に掘られた穴に放り込まれる。こうして約30年におよぶ薔薇戦争は幕を閉じた。
リチャード3世
最後の宿泊地「Blue Boar Inn」

リチャードは自身のベッドを運びこんだが、これが発端で、のちに事件が起きる。17世紀後半、大家の妻がリチャードのベッドがある部屋を掃除したときのこと。ベッドを動かすと、床下に隠し扉を発見! 開けてみると、リチャードの隠し財産と思われる中世の金貨があったという。これは大家夫妻と女中の「3人の秘密」としたが、旅の青年と恋に落ちた女中は秘密を暴露。2人で強奪を企み、大家の留守中にその妻を殺し、金貨を奪って逃走した。しかしすぐに逮捕され、青年は市内で処刑、女中は市外で火刑となった。
これはあくまで噂であり、事件の真相はわからずじまいだったが、数年後、急に金持ちになった大家がレスター市長に就任。金貨は本当に存在したと伝えられている。
創作された「極悪人」
ブルドーザーでまずここから掘り返された。
© Carl Vivian, University of Leicester
リチャードが見直されはじめたのは、18世紀以降のこと。彼の名誉回復を目指す「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史家や歴史愛好家たちが登場。そのうちの一人が、リチャードの遺骨発掘プロジェクトを立ち上げた女性、フィリッパ・ラングリーである。

こうして話は冒頭に戻るのであるが、この大発見には「運命」としか言いようがない、興味深いエピソードがある。ラングリー氏が駐車場をはじめて訪れたときのことだ。ふと地面にペンキで書かれた「R」の文字が目に飛び込んできた。その瞬間、まるで天啓を得たかのように「リチャード3世はこの下に眠っている!」と確信したという。彼女の強い申し出で、最初に「R」のあった付近から掘り起こされ、見事に遺骨を探し当てたのである。ちなみに、この「R」は「Reserved Parking(専用駐車区間)」を意味するものと思われるが、それにしては書かれた位置がおかしく、かつて専用駐車区間を設けていた記録もないという。
レスター大学を出発、ボスワースを経由して、
大聖堂へと向かった。
また彼の頭がい骨に残された戦傷は、逃げることを拒み、「栄光か死か」の二者択一の突撃をかけた壮絶な最期をうかがわせるものだった。頭部には少なくとも8ヵ所の大きな損傷がみられ、長剣で数回にわたり切りつけられた後、左頬から突き刺された長槍が頭がい骨を貫通、後頭部に矛槍が直撃し、これが致命傷になったという。さらに、地に伏したリチャードの頭頂部に短剣が突き立てられ、甲冑を剥ぎ取られた後に背と腰を長剣などで刺されている。怨恨深かったように思われるが、中世の戦場ではこうした虐殺は珍しくなかったようである。
遺骨をめぐる争い
即位期間があまりに短く、国王としてのリチャードを評価することは難しい。内心ではどのように感じていたか知る由もないが、エドワード4世の治世を支える要であり、両者は強い絆で結ばれていたことは否定できないだろう。息子が親政を行える年齢までエドワード4世が生き延びていれば、リチャードは忠臣として甥を支え、ヨーク朝が続いていたかもしれない。
今年3月22日、市内を進んだ葬列には数万人もの観衆が押し寄せ、リチャードが納められた棺に向かって白薔薇が捧げられた。多くの人々に見守られながら大聖堂に運ばれ、26日、ようやく永久の安らかな眠りにつく。その真新しい石棺には、生前にリチャードが使っていた銘が古ラテン語で刻まれている。「Loyaulte Me Lie(ロワイヨテ・ム・リ)」、その意味は「忠誠がわれを縛る」。己の忠心と周囲の裏切りに翻弄された生涯であった。
リチャード3世が眠る地
レスター
❶ レスター大聖堂 Leicester Cathedral

❷ リチャード3世 ビジター・センター King Richard III Visitor Centre


【住所】
4A St. Martins, Leicester LE1 5DB
Tel: 0300 300 0900
www.kriii.com
大人£7.95、子供£4.75
❸ リチャード3世像 Statue of King Richard III

❹ ギルドホール The Guildhall

❺ 旧タウンホール跡 The Blue Boar Inn

❻ ボウ・ブリッジ Bow Bridge


❼ セント・メアリー・デ・カストロ St Mary de Castro

❽ ジェラート・ヴィレッジ Gelato Village
