●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■ 英国でもっとも有名な君主のひとりであり、イングランド繁栄の礎を築いたヘンリー8世。一方で、6度も婚姻を繰り返し、ローマ教皇と決別して英国国教会を設立。長く強権を保持し、激しい宗教対立と後継者争いを引き起こした人物でもある。そんな「偉大なる王」が死後どこで眠っているか、ご存じの方はどれほどいるだろうか? 今号では、その意外な埋葬場所と未完のままの「壮大な墓」についてお届けしたい。
隠された王の死
ヘンリー8世といえば、宮廷画家ハンス・ホルバインが繰り返し描いた肖像画の姿が広く知られている。大きく胸を張り、正面から見据えるように仁王立ちする堂々とした体躯は、まるで見る者を挑発しているかのようで、自分が「強者」であることに一片の疑いも抱いていない。自身の意に沿わない者を排除してきた彼が、「死後は静かに眠りたい…」などと思うだろうか。おそらく威厳あふれる葬儀を行い、壮麗な墓に埋葬され、後世まで己の存在を示し続けたいと考えたに違いない。
ヘンリー8世の父(ヘンリー7世)は、歴代君主が眠るウェストミンスター寺院に「ヘンリー7世礼拝堂」を建設し、そこに王妃とともに埋葬されている。ヘンリー8世の3人の子どもたち(エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世)はもちろん、その後も17世紀までの君主の多くが同所で眠っているが、ヘンリー8世の墓は見当たらない。彼はどこにいるのか?
もしウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂を訪れる機会があれば、祭壇へ続く聖歌隊席の通路の床をよく見てほしい。ヘンリー8世と3番目の王妃ジェーン・シーモアの名が刻まれた、シンプルな黒大理石の墓石を発見できるはずだ。しかし、これはヘンリーが思い描いていた墓ではない。指示したはずの「壮大な墓」が完成せず、470年以上経った今なお「仮の墓」で放置されているのを知ったら、どれほどの数の首が切り落とされることだろう。
ヘンリー8世は1547年1月28日、ロンドンのホワイトホール宮殿で息を引き取った。享年55。約10年前の落馬事故で負った足のけがが完治せずに悪化し、さらに極度の肥満による健康不良も重なっての死だった。後継ぎの息子エドワード6世は若干9歳。幼い王の誕生は、傀儡になりやすいとしてヘンリーが避けていた女性君主と同じくらいに危険なものであった。
息子へのスムーズな権力移行を目指し、ヘンリーは生前に自身の葬儀も含めて綿密な計画を立てている。すべての準備が整う前に王の死を悟られないよう、崩御の情報は側近以外には伏せられた。王の起床の合図であったトランペットの音は定刻通りに鳴り響き、食事も寝室に運ばれていった。
実現した不吉な予言
ヘンリーの逝去が発表されたのは、3日後のことだった。ホワイトホール宮殿の王室礼拝堂で2週間ほど追悼ミサが行われた後、2月14日の朝に葬列はウィンザー城へ向けて出発した。
葬列には1000騎以上の騎馬兵と数百人の近衛歩兵が帯同し、その長さは6・5キロにも及んだ。8頭の馬に引かれた巨大な屋根のない黄金の馬車の上に、棺と遺影代わりのヘンリーの等身大木製彫像(現存せず)が載せられ、その周囲をいくつもの紋章入りの旗が取り囲む。威厳に満ちた葬送を一目見ようと、沿道に群衆が押し寄せた。
ウィンザーまでの行程は2日間を予定しており、一行はロンドンとの中間地点にある旧サイオン修道院(現ノーサンバランド公爵家の邸宅
)で一夜を明かしている。同所はウェストミンスター寺院に匹敵する規模のカトリック系大修道院として、昔は権勢を誇ったものの、英国国教会を設立したヘンリーが財産を没収、解散命令を発したことから、王室所有となっていた。到着した王の棺は、木材とロウでつくられた豪奢な棺台の上に据えられ、数千本ものロウソクが夜通し灯されたが、そこで不可思議な事件が起きる。早朝に見回りをしていた衛兵が、いつの間にか棺台の上から棺が落下しているのを発見。損傷した棺からは、遺体から出たと思われる「腐敗液」が流れ出ており、それをどうやって入り込んだのか野犬が舐めていたのだ。衛兵の頭に浮かんだのは、ある修道士が残した予言だった。実はかつて、最初の王妃との婚姻無効を宣言したヘンリーを非難したカトリック系修道士が「神の審判が陛下に下り、その血は犬に舐められることになるだろう」という聖書の物語になぞらえた予言を口にし、国外追放されていたのである。死亡後に犬に血を舐められるのは、「神への冒涜に対する裁き」を意味していた。サイオン修道院は、5番目の王妃キャサリン・ハワードが処刑前に幽閉されていた場所でもあるため、人々は「王妃の呪い」だと口々に言い合った。
ちなみに、棺が落下した原因については、肥満だった王の棺はかなり巨大であったことから、バランスが崩れて台から落ちてしまった説のほか、遺体に施された防腐処理が完璧ではなく、腐敗時に放出されたガスの圧力で遺体が裂け、その反動で棺が落ちたという説が有力だ(実際に防腐処理を嫌ったエリザベス1世の遺体が小さな爆発を起こし、棺に亀裂が走った記録が残されている)。
なにはともあれ、そのあと無事にウィンザー城へ運ばれた棺は、10年前に亡くなった3番目の王妃でエドワード6世の母、ジェーン・シーモアの隣に安置された。それがセント・ジョージ礼拝堂内の石板が飾られている位置である。
奪い取った棺
死後は静かに休みたい王だったならば、これでストーリーは完結だろう。だが、物語はここで終わらない。なぜなら、この墓所は「正式な墓」が完成するまでの仮の住処だったからだ。
そもそもヘンリーは最初、従来の伝統に則ってウェストミンスター寺院に墓を建立する予定であった。最初の王妃と眠る墓の準備に着手していたが、再婚を決めた時点で計画は頓挫。やがて3番目の王妃ジェーン・シーモアが男児を出産したことで、墓の王妃名をジェーンへ変更し、工事の再開を命じた。ところが、度重なる変更や建築家との衝突・解雇、資金難などによって作業は遅々として進まず、業を煮やしたヘンリーは埋葬地をウェストミンスター寺院からウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂に変えたのである。同礼拝堂はエドワード4世の時代から大規模な改修工事が行われており、ちょうどヘンリーの治世中に完成したばかりだった。
彼が構想した墓は、自身が「偉大なるテューダー朝の真の君主」であることを誇示するものであった。横たわる夫妻の等身大の像を載せた大理石の棺を中心に、台座には4体の黄金の天使像を配置。100体を超える聖人や使徒、福音書記者、預言者らの像を据え、さらに赤と白のバラが入った籠を持つ小さな天使たちが、その花びらを撒きながら夫妻を祝福している。棺の前には高さ3メートルに及ぶ燭台が並び、その周りを大理石の列柱が取り囲む――墓というよりも「壮麗な祭壇」のイメージだ。そこで「この世が続く限り永久に、毎日ミサを執り行う」ことを遺言に書き残している。ヘンリーは反逆罪とした重臣の
が用意していた、彼の墓を活用。完成済みの黒大理石の棺や台座などを強奪し、自身の墓の建造を進めた。未完の墓と子どもたち
結局のところ、ヘンリーの存命中に墓は完成しなかった。でも、彼は悲観していなかったのではないだろうか。遺志を継ぐ直系男児がいた上に、王の遺言は行使されるべきものだからだ。ヘンリーが葬儀後に埋葬された場所は、一時的な安置所とみなされていた。
実際に、君主の存命中に墓が完成した例はそれほど多くない。ヘンリーの父の墓も、死後6年ほど経ってから完成している。だが、ヘンリー亡き後のテューダー朝は混迷を極めた。
作業は続けられたものの、幼きエドワード6世にはそれを推し進める力が足りず、進展は遅かった。そして、少年王がわずか6年で病死した後に王位を継いだメアリー1世は、父の墓に興味を示さなかった。それよりも非嫡出子と公表されて王宮を追われ、屈辱を味わったカトリック教徒のメアリーは、イングランドをカトリックへと戻す宗教改革に忙しかったのである。一方、母親の処刑時は3歳だったエリザベス1世は、それほどヘンリーに対する私怨を持っていなかっただろう。自身が正当なる王位継承者であることをアピールするために、演説ではしばしば父について言及もしていた。墓の建設も再開させたが、黄金時代を築いた彼女の治世はヨーロッパとの戦争が絶えず、資金難により数年で行き詰まってしまう。以後、作業が再開することはなかった。
長い年月の間に、仕上がっていた装飾は別の用途に転用されていった。聖人などのブロンズ像は溶かされて銃弾や砲弾へ姿を変え、黄金の天使像は貴族宅の門柱に飾られ、燭台はベルギーの都市ゲントにある聖バーフ大聖堂へ渡った(ちなみに、レプリカがウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂にある)。また、彼が気に入っていた黒大理石の棺は、国王ジョージ3世の指示でトラファルガー海戦で戦死した英雄ネルソン提督の墓に使われた。
やがてヘンリーの埋葬場所は忘れ去られ、床下の棺が発見されたのは1813年のこと。1837年に石板が設置されて、「正式な永眠の地」となったのであった。ヘンリーは、さぞ激高しているに違いない。
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週刊ジャーニー No.1354(2024年8月8日)掲載