ロンドンから電車で約1時間。イースト・サセックスのサウス・ダウンズ丘陵の東端に、ルイスという小さな町がある。「英国でもっとも可愛らしい町」のひとつとして、近年注目が集まっているこの地は、かつて政権をめぐる戦いやヘンリー8世の離婚騒動に巻き込まれ、やがてサセックス一のビール醸造の町として栄えたという、意外にも奥深い歴史をもつ。今回は、ロンドンからの日帰り旅行に最適なルイスを征くことにしたい。
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
征服王が与えた「戦功の報奨」
キーア・ストリート
アン・オブ・クリーヴズ・ハウス
同地の歴史は、古代ローマ帝国の支配下にあった時代に、ローマ軍により砦が築かれたのが始まりと考えられている。その後、サクソン人がヨーロッパ大陸からの襲撃に備え、近くを流れるウーズ川を見渡せる丘の上に城塞を建造。ルイス(Lewes)という町名はその頃につけられ、古英語の「Hlaew」(丘hillを表す単語の複数形)をその名の起源とする説が最も有力とされている。
ハーヴィーズのビール醸造所
1066年、ノルマンディ公ウィリアムがフランスのノルマンディから船団を率いて海峡を渡り、ヘイスティングズとライを結ぶ海岸に上陸する。ヘイスティングズの戦いでイングランドを征服し、ウィリアム1世(征服王)として即位すると、反抗したアングロ・サクソン系貴族から土地を没収。戦功を挙げた忠臣にその土地を下賜していった。そして、ウィリアム1世の娘婿ウィリアム・ド・ウォーレン(第1代サリー伯爵)に報奨として与えられたのがルイスである。1068年、ウィリアム・ド・ウォーレンは丘上の城塞跡にルイス城を建設。1081年頃までに道路を整備し、大修道院(現セント・パンクラス・プライオリー)などの建造を進めて、ルイスの町をつくり上げていった。英議会の誕生の地
ルイスが英国史上にその名を印象づけるのは、1264年のこと。失策を重ねる当時のイングランド王ヘンリー3世に対して、有力諸侯たちが反乱を起こし、ルイスがその決戦の地となったのである。ヘンリー3世は、王権の制限や市民の自由を規定し、現在もイングランドの法律の一部になっている「マグナ・カルタ(大憲章)」に署名した国王ジョン(失地王)の息子である。ジョンはフランスとの戦いに敗れ、イングランドがヨーロッパ大陸に保持していた領地の大部分を失うといった度重なる失政の末、諸侯の反乱にあってマグナ・カルタの署名に追い込まれた。ところが、ジョンはローマ教皇の協力を得て調印したマグナ・カルタを破棄。諸侯は再び決起し、フランスが介入してイングランド全土を巻き込む内乱に発展する(第1次バロン戦争)。そのような中、病死した父に替わって若干9歳で王位に就いたのが、ヘンリー3世であった。
だが、残念ながら「愚王」と呼ばれた父の血が強かったのだろう。幾度にもわたるフランス遠征の失敗や外国人(フランス人)側近の重用だけでなく、マグナ・カルタの遵守も拒絶するようになる。1258年、第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールを先頭に諸侯は反旗を翻し、王権を監視する国王評議会の設置などを定めた「オックスフォード条項」をヘンリー3世に認めさせた。しかし1261年、ヘンリー3世はローマ教皇の許可を得てオックスフォード条項を破棄してしまう。46年前の出来事をなぞるかのように進んでいく事態に、前王時代から支えた老臣は頭を抱えたのではないだろうか。
ところが今回は「救世主」がいた。22歳の皇太子エドワード(のちのエドワード1世)だ。エドワードは父と考えを異にし、王権改革への理解を示していたため、穏健派やシモン・ド・モンフォールの台頭に反発を抱く諸侯は王党派に傾いていった。
一方、シモン・ド・モンフォールはこの情勢に焦りを浮かべる。王党派が多数を占め、再び王権が強まることを懸念したモンフォールは、市民を味方につけて王党派諸侯の打倒に乗り出した(第2次バロン戦争)。そして1264年、ルイスの戦いでモンフォールは国王軍を破り、エドワードを人質としてルイス城に幽閉。翌年にロンドンで開催された議会(シモン・ド・モンフォールの議会)で、ヘンリー3世にマグナ・カルタとオックスフォード条項を正式に承認させた。現在の英議会の始まりである。つまり、ルイスは「英議会の誕生の地」といっても過言ではないだろう。
ちなみに、同年にエドワードはルイス城からの脱出に成功。モンフォールへの権力集中を警戒していた多くの諸侯がエドワード側に寝返った結果、シモン・ド・モンフォールは戦死している。
ルイス城のバービカン・タワー(右写真)は、ウィリアム・ド・ウォーレン一家が暮らした。入城するには、受付で手渡される鍵を入口ゲートにかざそう。
王妃への離婚慰謝料
左からヘンリー8世、アン・オブ・クリーヴズ、アマリア・オブ・クリーヴズ。すべてハンス・ホルバインによる作品。彼が描いた別のアンの肖像画もこの容貌と酷似しているため、美化していないと推測できる。
ヘンリー8世に女児しかもたらさなかった最初の妃(スペイン王女キャサリン・オブ・アラゴン)や2番目の妃(前妃キャサリンの侍女アン・ブリン)と異なり、3番目の妃ジェーン・シーモアは待望の男児を出産するものの、まもなく産褥死してしまった。王は新たな妻を迎えるにあたり、イングランドの守りを強化できる同盟者を求め、ヨーロッパ大陸から花嫁を選ぶことにする。そこで白羽の矢が立ったのが、神聖ローマ帝国の端にあるユーリヒ=クレーフェ=ベルク公国の公女アン・オブ・クリーヴズとアマリア・オブ・クリーヴズ姉妹であった。ヘンリー8世は宮廷画家のハンス・ホルバインを公国へ送り、2人の肖像画を描かせた。持ち帰った肖像画を見たヘンリーは姉を気に入り、アンとの婚約が成立。このときアンは24歳、ヘンリー8世は48歳であった。
1540年、アンがイングランドに到着したことを耳にした王は変装して彼女を訪ねるが、実際のアンを見て「失望」してしまう。しかし、輿入れしてきたばかりの公女を追い返すわけにもいかず、ヘンリー8世は渋々挙式し、すぐに離婚を宣告する。アンが実は以前に別の男性と婚約していたこと、まだ床入りを済ませていないことを理由に婚姻は無効となり、わずか半年で「白い結婚」生活は幕を閉じた。
この失望の原因については、ホルバインがアンを美しく描きすぎたというのが通説となっているが、ホルバインはその後も宮廷を追われることなく画家として活動していることから、近年は「肖像画は正確だった」と考えられている。
アン・オブ・クリーヴズ・ハウスの中庭。
ただ、彼女はかなり大柄だったうえに、宮廷育ちとはいってもドイツの田舎公家出身、ヘンリー好みのフランス流の洗練された女性とは言い難かったようだ。学識にあふれ、音楽やダンスを好んだ王に対し、アンはドイツ語しか話せず、音楽やダンスなどの教育も受けていなかった。クリーヴズ公家では女性は「良妻賢母」となるよう、料理や刺繍の腕を磨くことに力を入れていたのである。2人はまったくウマが合わなかったといえよう。また、床入りが行われなかったことについては、アンの体臭が一因と伝えられている。新婚初夜の翌朝、ヘンリーは侍医に「(彼女の)身体が臭くて眠れなかった」と告げたという。
ルイス城の南塔からは町並みを一望できるだけでなく、波打つ緑の稜線と白亜の断崖のコントラストが美しいサウス・ダウンズ丘陵も見える。
真偽のほどは知る由もないが、小国とはいえ無下に扱うことはできなかったのか、離婚条件は気前のよいものであった。多額の年金とリッチモンド・パレスやヒーヴァー城をはじめとする、いくつかの館を与えるとともに、「王の妹(the King's Beloved Sister)」の称号を授けて王族としての生活を保障した。意外なことに、離婚後もヘンリーとアンは交流を持っていたようである。王の3人の子供たち(のちのエドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世)とも親しくし、彼らの戴冠式には親族として出席している。ルイスには、このときにアンに贈られた物件のひとつ「アン・オブ・クリーヴズ・ハウス」があり、今もその姿をうかがうことができる。ずいぶんと質素な木造邸宅で、なぜ下賜されたのか理解に苦しむが、アンとの婚姻を勧めた側近のトマス・クロムウェルが所有する家だったことを考えると、怒り心頭のヘンリー8世に奪取され、彼女の手に渡ったのかもしれない。アン自身はこの家に住むことはなく、計算高くも貸家にして収入を得ていたという。
ルイス名物! 危険なボンファイヤー・ナイト
© Solipsist
ルイスは、「ガイ・フォークス・ナイト(ボンファイヤー・ナイト)」で大規模なパレードを行う「花火の町」としても知られている。ガイ・フォークスとは、 17世紀初め、国会議事堂爆破・ジェームズ1世暗殺計画に関わった人物。計画を実行する目前に犯人らは取り押さえられ、国会は難を逃れた。これを祝う行事が「ガイ・フォークス・ナイト」である。1605年11月5日、ジェームズ1世が九死に一生を得たことを祝して火薬に火が点されて以来、この日には花火をあげる習慣が定着。毎年、英国各地で花火大会などが催されている。
© Victuallers
ルイス・ボンファイヤーの特徴は、仮装して松明を持った人々が町中を派手に練り歩くパレード。ガイ・フォークス・ナイトとしてだけではなく、16世紀にメアリー1世によってルイスで処刑された、17名のプロテスタント信者の冥福を祈るという、宗教的な意味もある。爆竹や大砲、火花や噴煙などを、まさに「撒き散らしながら」行進するので、あまりの騒音に耳栓を持参する人も少なくなく、火が飛んで通り沿いの家のカーテンが燃えることもあるとか!? パレード終了後は、5ヵ所の指定場所で巨大なかがり火をたき、花火を打ち上げる。ルイス・ボンファイヤーは毎年11月5日頃。ただし、毎年けが人が出るほどの「危険な」行事。お子様連れでの参加は避けたほうが無難。
サセックス最古のビール醸造所
アンの離婚以降、穏やかな時間が流れていたルイスが、ビールの醸造所やパブなどが集う活気に満ちた町になるのは18世紀のこと。1753年、海水の医療効果を説いた著書が大きな話題を呼んでいたルイス出身の医師が、当時は小さな漁村だったブライトンに居を移し、海に面した診療所を開業した。これをきっかけに、健康法のひとつとして海水浴が流行。ブライトンは保養地として人気を集めはじめる。噂を聞いた浪費家の摂政皇太子(プリンス・リージェント、のちのジョージ4世)も訪れてすっかり気に入り、莫大な経費を投じて離宮を建設。ブライトンは高級リゾート地へと様変わりしていった。
ハイストリート沿いに立ち並ぶ、可愛らしい家々。
ブライトンの繁栄は、近郊の町ルイスにも好影響をもたらした。ウーズ川を利用した海運業が盛んになり、またブライトンへ向かう人々がルイスに立ち寄るため、観光客が急増したのだ。それに目をつけた男がいた――ロンドンでワインの輸入業を営むジョン・ハーヴィーである。ジョンは一家でルイスに転居し、1790年にワイン輸入会社「Harvey」を創業。赤ポートワインやシェリー、ボルドーワインのほか、ブランデーなども扱って店は大繁盛した。この先見の明は、息子にも受け継がれていたようだ。息子のジョン(父と同名)はウーズ川沿いに小さなビールの醸造所を造り(現在の醸造所の向かい)、副業としてエール・ビールの販売に取り組むと、瞬く間に主力のワインを押さえて人気商品となった。1838年、醸造量を増やすために対岸の土地を購入し、新たな醸造所を建造。これが現在ルイスにある醸造所である。1850年代には、「Harvey & Son」と社名を変更して3人の息子とともに会社をさらに発展させ、サセックス全域に17のビール醸造所を建設するまでになった。
このまま上昇気流に乗り続けるかと思いきや、1862年に死去したジョンの後を追うように息子2人も天へ旅立つと、会社は一気に傾きを見せる。ここで、1人残された末息子のウィリアムは踏ん張った。マーロウのビール醸造所から腕利きの醸造者を引き抜き、義弟(妹の夫)に経営を任せたのである。会社は無事に持ち直し、第一次・第二次世界大戦を乗り越え、現在も日々ビールを醸造し続けている。
家族経営のブランドながらも、創業225年というサセックスでもっとも長い歴史を誇る「Harvey & Son」社の醸造所の見学ツアーは大人気で、2年先まで予約で埋まっているという。「ルイスといえば地ビール」といわれるまでにハーヴィーズ・ビールが確固たる名声を確立するに至ったのは、彼らが先を見通す力と迅速な行動力を持ち合わせていたからといえよう。こうした歴史に思いをはせながら、同社のビールで乾杯としゃれこむのも一興だ。
日帰りプチ旅行に最適
さて、ここまで町の歩みについて簡単に紹介してきたが、実際のところ、観光スポットは先述したルイス城やアン・オブ・クリーヴズ・ハウスのほかに、数ヵ所ある程度(下の地図参照)。むしろ、わずかにその姿を留めた城とそこから続く石畳の小路や急な坂道、遥か先に横たわる白亜の断崖が目にまぶしいサウス・ダウンズの丘陵といった、中世の風情と自然の絶景が織り成す町並みそのものが見どころといえるだろう。また、町の中心をまっすぐに走るハイストリートや南にのびるマーケット・ストリート沿いに立ち並んだ、数々のアンティーク・モールやショップ、ハンドメイドの可愛い雑貨屋などをのんびりと歩いてめぐるのもよさそう。ロンドンよりも比較的安価なものが多く、とっておきの一品と出会えるかもしれない。
さらに、ルイスでしか飲めない地ビールを堪能したい人は、ウーズ川にかかる橋を渡ってクリフ・ハイストリートを進み、ビール醸造所の向かいに建つハーヴィーズの直営ガストロ・パブ「John Harvey Tavern」へ。一番人気の「Sussex Best Bitter」をはじめ、さまざまなハーヴィーズ・ビールや、同社が扱うワイン、スピリッツを楽しめる。気に入った銘柄があれば、醸造所の隣にあるショップでお土産として購入することも可能だ。
日ごとに日が長くなり、本格的な春の訪れを実感するとはいえ、まだまだ肌寒い日も多いことだろう。晴れ間がのぞいた週末の朝に、ふと思い立って出かけようとしても、海辺のブライトンは風が冷たいし、オックスフォードやケンブリッジ、ストラトフォード・アポン・エイヴォンは日帰りでは観光しきれない。そんなときにおすすめしたいのが、この小さくも魅力がたくさんつまったルイスの町。5月のバンクホリデーや週末に、ぶらりと足をのばしてみてはいかがだろうか。
アンティーク
① Lewes Flea Market
ルイス最大のアンティーク・モール。食器、絵画、家具などのほか、動物の剥製や昆虫の標本なども。② The Needlemakers
第一次世界大戦中、医療用の注射針を製造する工場だったことから「ニードルメーカーズ」と名付けられた、レンガ造りのショッピング・モール。アンティーク・ショップのほか、ハンドメイドのアクセサリー、ヴィンテージ服、手芸品を扱う店などが集まっている。カフェも併設されている。③ The Fifteenth Century Bookshop
「15世紀の本屋」と呼ばれて観光スポットのひとつとなっている、児童書を中心とした古本屋。ここから下にのびる石畳の坂道「キーア・ストリート」は、正面にサウス・ダウンズ丘陵が広がることから人気の住宅地で、摂政皇太子も別宅を構えていた。日曜は休業の場合あり。④ Church Hill Antiques Centre
かつて教会だった建物を使ったアンティーク・モール。銀器から絵画、書籍のほか、ジャンク(がらくた)と呼べそうな玩具や民芸品のようなものまで豊富にそろう。日曜休業。観光スポット
①Lewes Castle
塔からの眺望は必見。城の向かいにあるショップの地下はバービカンハウス・ミュージアムとなっており、ルイスの歴史がわかるジオラマ式ミニシアターもある。アン・オブ・クリーヴズ・ハウスとの共通チケットあり。▲ルイス駅から徒歩約15分
②Southover Grange Gardens
「万有引力の法則」を発見した科学者アイザック・ニュートンの祖先にあたるウィリアム・ニュートン一家が、1572 年から約300年にわたって暮らした邸宅の跡地。現在の建物は廃墟となった修道院の石でつくられており、登記所となっている。カフェも併設(春・夏のみ)。③Anne of Cleves House
床は大きく歪み、歩くとギシギシと音が鳴り響くなど、中世の家屋の雰囲気を味わえる。12月中旬から1月末は休館。小さなカフェも併設。▲ルイス駅から徒歩約15分
④The Priory of St. Pancras
ウィリアム・ド・ウォーレン夫妻が、1081年頃までに町中に建造した修道院のひとつ。現在は廃墟となっている。地ビール
① Harveys Brewery & Shop
戦没者記念碑を越えると、ハイストリートは「クリフ・ハイストリート」と名を変える。ウーズ川にかかる橋の左手に、ビール醸造所とショップがある。醸造所の見学ツアーは6~10月までの午後6時30分~午後8時45分(8月は除く)、要予約。▲ルイス駅から徒歩約20分
② John Harvey Tavern
ハーヴィーズの創業者の名を掲げる、同社直営のパブ。町内にはパブがいくつもあるが、ここが一番おすすめ。食事のサービスはランチが午後2時30分まで、ディナーは午後6時から。レストラン
★Bill's
食事をするなら、クリフ・ハイストリート周辺がいいだろう。オーガニックにこだわったカフェ・レストラン「Bill's」は、オーナーが替わってチェーン化してしまったが、かつてはサセックスのベスト・レストランに輝いたこともある人気店。★★The Real Eating Company
ミシュランガイドのルイス編にも掲載されたカフェ・レストラン。ウーズ川を眺められるテラス席あり。午後3時からは、アフタヌーン・ティーも楽しめる(10.75ポンド、シャンパン付の場合は14.50ポンド)。写真は「Harvey's Pie, Mash and Gravy」(13.95ポンド)。Travel Information
※2015年4月14日現在
ルイスまでのアクセス
【電車】ロンドン・ヴィクトリア駅から直通、ルイス駅下車。所要約1時間。
【自動車】
ロンドン中心部からはブライトン方面へ南下。M23からA23を走り、A27へと左折して東へ。所要約1時間半。
※駐車場は場所によって値段にかなり差があるので注意。中心部の道は狭く、坂も急なので、ルイス駅の駐車場がおすすめ(月曜~土曜:6.10ポンド、日曜・祝日:2ポンド)。
週刊ジャーニー No.877(2015年4月16日)掲載