ハムステッドの緑に映える白亜の館 ケンウッド・ハウスを征く

■ ロンドン中心部から少し離れるだけで「これほど緑深き場所があったのか…」と訪れる人を驚かせる、ハムステッド・ヒース。歩き慣れていなければ道に迷ってしまう、まさに「森」とも言える同所の一角に佇む白亜の館が「ケンウッド・ハウス」だ。今回は、この緑と青空に映える旧伯爵邸を訪れてみたい。

●征くシリーズ●取材・執筆/本誌編集部

ケンウッド・ハウスの起源は、それほど古くはない。18世紀半ば、英国でもっとも影響力の大きい判事の一人で、奴隷制を禁止するきっかけをつくったことでも知られる初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレーが、ケンウッド・ハウスの『前身』、およびその周辺の土地を購入したのが始まりだ。
当時のロンドンのファッショナブルな高級住宅地といえば、南西部のリッチモンドやトゥイッケナム。これに対し、北部のハムステッド周辺は、学者や法律関係者が好んで住むエリアであった。ケンウッド・ハウス(Kenwood House)はもともと「Cane Wood House」と呼ばれ、公文書印刷所長一家が暮らすレンガづくりの簡素な建物だった。マンスフィールド伯は、この屋敷の改築を新古典主義の人気建築家ロバート・アダムに依頼。15年の月日を費やして、現在見ることができる白亜の邸宅の基礎を完成させた。
さてケンウッド・ハウスの歴史を語るには、避けることができない人物がいる。奴隷制の解体に寄与したマンスフィールド伯に影響を与えたであろう女性――その名をダイド・エリザベス・ベルという。今年3月に米国で放送されたハリー王子夫妻の特別インタビュー番組で、メガン妃が「長男のアーチーを妊娠中、この子の肌の色がどれくらい濃くなるかが話題となり、とてもショックを受けた」と語ったが、今よりも多くの人々が階級制度の重みにあえぎながら過ごしていた時代に、ダイドは非常に特殊な立場で生きた女性だった。
ダイドは1761年、英領ハバナで生まれた。父親は男爵家の次男で、七年戦争のため英海軍の軍艦「HMSトレント」号の艦長として西インド諸島に派遣されていた。そしてダイドの母親はというと、英戦艦と交戦したスペインの奴隷船から略奪された、アフリカ人奴隷だったのである。彼は英国に帰任すると、5歳になる娘を母方の伯父マンスフィールド伯が暮らすケンウッド・ハウスに送った。子どものなかった伯爵夫妻は、母親を亡くした姪孫エリザベス(ダイドにとっては1歳上の又従姉)をちょうど引き取ったばかりだったが、伯爵はダイドをエリザベスの遊び相手に、成長したあかつきには彼女の私的な付き人(メイドというよりはコンパニオンに近い存在)となるよう教育することに決めた。
ダイドとエリザベスは本当の姉妹のように仲良く育ち、ほぼ同等の教育も与えられたものの、貴族の血を引くとはいえ、ダイドの母はまぎれもなく奴隷。「奴隷の子どもは奴隷」との考え方が通常であった当時、それも英国外で使役される奴隷の娘ということで、貴族社会では異質な存在だった。そのため、来客時には夕食などでの同席は許されないなど、他者の目を意識した扱いを受けざるをえないこともあったが、家族からの愛情に恵まれ、閉鎖的で厳格な社会においては破格的な好待遇であったと言える。また聡明だったダイドは、エリザベスが嫁いだ後は裁判に関して伯爵の相談役(通常は男性秘書の役割)を引き受けるようになり、ケンウッド・ハウス付属牧場の監督も任されるなど、家禽や家畜の管理にも携わっている。
マンスフィールド伯は自身の高等法院首席判事という立場を存分に使い、ダイドの法的・社会的地位や扱いに対する批判をかわしながら彼女を守った。そして「サマセット事件」や「ゾング号事件」といった奴隷逃亡や奴隷売買事件を扱うことになった際には、そもそもの奴隷という存在に疑問を投げかけ、英国での奴隷制廃止へ向けて一石を投じている。
伯爵は1793年にケンウッド・ハウスで息を引き取ったが、自身亡き後のダイドの立場を心配し、遺産として即金500ポンドに加え、毎年100ポンドを贈るとした上で「彼女は自由である」と奴隷身分からの完全解放を遺書に書き残した。これが後押しとなり、彼女はフランス出身の牧師一家の息子で、家令を務める男性と結婚し、30年近く暮らした屋敷を去っている。
真っ白な外観からは想像できない、秘められた歴史を持つケンウッド・ハウス。ぜひハムステッド・ヒースを散策がてら、足を延ばしてみては?

ケンウッド・ハウスで描かれた、ダイドとエリザベスの肖像画。2人の仲の良さがうかがえる。
広大な敷地のハムステッド・ヒース。ロンドンであることを忘れてしまうような自然風景が広がる。

The Breakfast Room/朝食室

朝食用の部屋であるため、壁は明るい色に仕上げられている。写真奥の壁の左端に飾られているのは、ネルソン提督の愛人として名高いエマ・ハミルトン夫人の肖像画。

The Music Room/音楽室

第2代マンスフィールド伯爵(エリザベスの父)の時代、食後の「The Drawing Room(談話室)」として使われた部屋。訪問客とおしゃべりに興じながら、紅茶を飲んだり、音楽を奏でたりした。

The Dining Room/晩餐室

一家のダイニング・ルームとして使われた、重厚感あふれる部屋。ここにはレンブラント、ターナー、コンスタブルなどの著名画家の作品が飾られている。とくにフェルメール「ギターを弾く女」は必見。

The Library/図書室

© ENGLISH HERITAGE / PATRICIA PAYNE

「The Great Room」とも呼ばれ、建築家ロバート・アダムの魅力が存分に活かされた、ケンウッド・ハウス内で最も見ごたえがある部屋。「図書室」と名づけられているが、来客用サロンとして活用されることを念頭にデザインされている。

映画でみるダイドの生涯

ダイドの苦悩と喜びを映像で見たい人は、映画「Belle(ベル〜ある伯爵令嬢の恋〜)」(2013年)がおすすめ。ダイド役を英女優ググ・ムバサ=ロー、マンスフィールド伯爵をトム・ウィルキンソンが演じている。ただ、ロケ地がケンウッド・ハウスではないのが残念。また、ダイドの恋人が若き法律家になっているなど、映画用にドラマチックな演出が加えられている。

Travel Information ※2021年7月26日現在

Kenwood House
Hampstead Lane, London NW3 7JR
Tel: 020 7514 1958
https://www.english-heritage.org.uk/visit/places/kenwood/
開館時間:水~日曜11:00~15:00
入場無料(事前予約要)
行き方:地下鉄アーチウェイ駅/ゴルダーズ・グリーン駅からバス210番。ハムステッド駅からバス603番。ハムステッド駅/ハムステッド・ヒース駅から徒歩30分。

週刊ジャーニー No.1199(2021年7月29日)掲載