ナチスの暗号を解読せよ! 諜報基地 ブレッチリー・パークを征く  【前編】

■ 第二次世界大戦時の英国で、全国各地の鬼才・逸材がバッキンガムシャーの小さな町ブレッチリーに集結した。その目的は…。 〈前編のあらすじ〉大戦の火蓋が切られたころ、ブレッチリーの「ステーションX」でも必死の戦いが始まった。そして、ドイツ軍が運用した暗号「エニグマ」解読チームに、天才数学者のアラン・チューリングが加わった。

●征くシリーズ●取材・執筆/本誌編集部

エニグマを解読せよ!

解読チームでは、ポーランドで採用されていた手法に倣い、ペンを片手に専用の用紙に向かって地道な作業が進められた。程なくして解読に成功し、大きな第一歩となったが、彼らを苦しめたのは、ドイツが暗号化と復号に必要な設定キーを毎日変更したこと。加えて、159000000000000000000(0が18個!)通りという天文学的な数の設定キーの組み合わせ。たとえ運よく暗号を解読できたとしても、次の日には同じ作業を繰り返さなければならず、人手を使ってしらみ潰しに探すには限界があったのだ。さらには、エニグマの度重なる改良やオペレーション・システムの変更を前に、手も足もでない日々を重ねた。解読者たちは、1日の作業を終え宿舎に戻っても、食事中も、暖炉の前に座っているときも、横になっているときでさえも、解読方法について取り憑かれたように思考をめぐらせた。

そんな状況の中、チューリングが頼りとしたのは、人間の頭脳ではなく機械だった。「機械の言語を理解できるのは、機械でしかない」。こう考えたチューリングは、ポーランドで使われていた解読機「ボンバ(Bomba)」の理論を発展させ、「ボム(Bombe)」を考案。ただ、期待された初期モデルでは思い通りの結果が得られず、改良の日々に追われた。

鬱々とした解読者の心情と反比例するかのように、戦場ではドイツ軍の攻撃が激化。これに合わせてエニグマ暗号による通信の数が劇的に増え始めていた。しかし、それは解読者らにとって悪いことばかりではなかった。暗号文を受け取る敵国のオペレーターが忙殺されたことで、彼らのミスやクセが出始めたのだ。このわずかなほころびは解読における重要なヒントとなった。

さらに1940年8月、チューリングの改良版ボムが誕生する。オリジナルよりもはるかに進歩したこの解読機により、事態は画期的に前進する。この年から翌年にかけて英国はドイツ潜水艦Uボートの捕獲により、暗号書や有益な情報を入手。特に難解とされた海軍の暗号文を、発信から数時間のうちに解くことができるようになった。

そのころ、ドイツは大西洋上で英国の生命線といえる補給線を断つ作戦を遂行していた。これに対抗するには、暗号解読のスピード・アップが必要となり、さらなるボムの製造が進められ、1943年には100台、終戦時には200台超が稼動し、2000人が操作に当たった。1944年6月に連合軍によって行われたノルマンディー上陸作戦以降、ステーションXでは1日最大1万8000ものメッセージが解読され、重要な軍事作戦をこの諜報基地がバックアップした。

戦いの間も、ドイツは暗号の強化を図り、新しい暗号機「ローレンツ(Lorenz)」を開発。暗号解読者たちもこれに応戦した。ローレンツの暗号を解く目的で1943~44年にかけてブレッチリー・パークで誕生したのが「コロッサス(Colossus)」と呼ばれる機械で、これが世界初のプログラム可能な電子コンピューターとされている。

役目を終えたブレッチリー

ブレッチリー・パークでは、1945年の最盛期で9000人、戦時中を通して1万2000人がそれぞれの任務にあたったとされる。ヨーロッパが終戦を迎えた1945年5月8日、部隊の解散を前に、スタッフに次の言葉が伝えられた。

「この先いつか、我々の技術がまた必要となる日が来るかもしれない。それゆえに、私たちがこれまで守ってきたセキュリティー・レベルが緩められることがあってはならない。友人や家族に自分の働きを伝えたいという思いを抱くのは自然なことだ。しかし、何にかえてもその誘惑に耐えなければならない」

戦後、一部のメンバーが残り、後身の政府通信本部がブレッチリー・パークに置かれたが、第二次世界大戦時の暗号解読部隊の存在も、貢献の名のもとに人々が払った犠牲も闇の中に消えていった。暗号解読に挑んだ結果、チューリングをはじめ、多くの数学者や技術者によってコンピューターの新時代が開かれていた英国。しかし、その功績ごと秘密のベールに包まれ、米国でのコンピューター開発から英国が遅れをとったことは運命のいたずらといえる。

終戦から30年を迎えようとしていたころ、1冊の本が出版された。『The Ultra Secret』と題されたその本は、エニグマ解読に立ち向かった暗号解読チームの内側を描いたものだった。これ以降、戦時下の秘密が徐々に明らかにされ、1991年にはかつてこの地で働いた人々の要望を受けてブレッチリー・パーク・トラストが誕生した。1994年には、この諜報基地が博物館として一般オープン。同時に、ステーションXでの任務に従事した人を探し、オーラル・ヒストリー(口述歴史)を記録する活動も始まった。

ドイツ海軍の暗号解読が行われたHut 8では、変人として知られていたチューリングの研究室が再現されている。また紛失・盗難を防ぐため、自分のマグカップをチェーンでラジエーターにくくりつけていた様子なども紹介されている。
解読に使われた機械「ボム」のレプリカ。

新50ポンド紙幣の顔、悲劇の天才数学者アラン・チューリング

© The Governor and Company of the Bank of England

ブレッチリー・パークではおよそ110人の暗号解読者が活躍したとされるが、中でも最も有名な人物が天才数学者、アラン・チューリング(Alan Turing, 1912~54)だ。

ロンドンに生まれたチューリングは、子供のころから数学と科学に関心を抱き、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジを卒業した後、特別研究員として同大学カレッジに在籍した。在籍中の1936年に発表した計算模型「チューリング・マシン」の概念は、現在のコンピューターの基本的な構造を決定づけたに等しい理論と言われている。

第二次世界大戦中は、ブレッチリー・パークで暗号機「エニグマ」の解読に挑み、連合軍の勝利にあたって多大な功績を残すが、チューリングの悲劇は戦後に訪れる。

戦時中の功績は秘され、大学や研究所などでコンピューター・ソフトウェアの開発に従事したものの、1952年、当時は禁じられた「同性愛」の罪で逮捕され、ホルモン療法を受ける。彼の孤独と苦悩は想像を絶するものだっただろう。その2年後、41歳の若さで青酸中毒による非業の死を遂げたのだった。

開戦から70年となった2009年、ゴードン・ブラウン首相(当時)がチューリングに対する公式の謝罪声明文を発表し、名誉が回復した。また、2021年に発行予定の新50ポンド紙幣に、彼の肖像画が採用される=写真。

無名の暗号解読者たち

ブレッチリー・パークが担った役割を振り返る上で、アラン・チューリングの活躍は欠かせない。しかし、ブレッチリー・パーク・トラストの元理事で、『The Emperor's Codes』などの著作を持つマイケル・スミス氏は、「名もなき多くの人が、24時間体制で懸命に働いていたことも忘れてはならない」と強調する。そのすべての人々が自分の行いを他言してはならない状況に置かれ、「国にとってどれほど重要な役割を自分が担っていたかを肉親に伝えることなく、戦後、死んでいった人も少なくない」のだ。

博物館では、暗号解読に関連する展示が数多く見られるが、そのほか、チューリングの生涯と偉業に関するギャラリー、ここで働いた個人の暮らしを紹介するエキシビション・スペースもある。敷地内には池が設けられ、氷が張った冬場には人々がアイススケートに興じ、芝のテニス・コートを利用して汗を流す人たちもいたという。そういった時間は、秘密を共有する者らにとって、張り詰めた空気の中の癒しとなったことは想像にかたくない。戦時中の面影をとどめているブレッチリー・パークで、暗号の世界に触れるとともに、当時に思いをはせてみてはいかがだろうか。

悲劇の天才数学者 アラン・チューリングの物語を動画で見よう!

Travel Information ※2020年8月31日現在

Bletchley Park
Sherwood Drive, Bletchley, Milton Keynes, MK3 6EB
https://bletchleypark.org.uk/


【アクセス】
電車 ロンドン・ユーストン駅から電車で約40分。徒歩5分。
車 M1を北上し、ジャンクション 13で降りる。ロンドン中心部からは所要約1時間20分(Sat-NavにはSherwood Drive MK3 6DSを入力)。

【オープン時間】
3月〜10月 午前9時30分〜午後5時
11月〜2月 午前9時30分〜午後4時

【入場料】
大人 21ポンド 学生、60歳以上 18.50ポンド
子供(12〜17歳) 12.50ポンド 要予約

週刊ジャーニー No.1153(2020年9月3日)掲載