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◆◆◆《第929回》◆◆◆
キャッシュレスの時代

冒頭からおかしなことを言うようだが、私は昔、頻繁にお金を拾った。昔と書くとあいまいになるが、少なくとも二十年ほど前までは、住宅地や駅の周辺によくお金が落ちていた。十ペニーや二十ペニーなどの硬貨が中心だったが、たまに五ポンド札が落ちていることもあった。
住宅地に落ちていたお金は多分、牛乳配達の業者と関係がある。その頃はまだ多くの家庭がミルクマンと呼ばれる牛乳配達業者を利用していた。配達業者は牛乳を配るだけでなく、集金も行なう。朝が早い仕事だし、駆け足で多くの家を回らなければならないから、受け取った硬貨を時々落としたりする。当時は現金での支払いが主流だったのだ。
バスの停留所や電車の駅の構内にもよくお金が落ちていた。バスに乗る時も現金で乗車賃を払う人が多かったし、駅の自動販売機で電車や地下鉄の切符を買う時も現金が必要だった。財布を取り出した時に、ついうっかり硬貨や(時には紙幣を)落とす人が出て来る。駐車場の券売機も現金を投入するタイプが多かった。むろんすでにクレジットカードは普及していたが、現金が優位性を保持しており、私たちはいつも財布にある程度の紙幣と貨幣を入れておいた。それが常識だったのである。
ところがITが発達するにつれ、デジタルによる決済、つまり電子決済が主流になって来た。それを後押ししたのが新型コロナの大流行だった。現金を手渡しすると感染の恐れがあるというので、クレジットカードやデビットカードを端末の機器に翳して支払いをすることが一般的になった。
最近では「現金での支払いはお断り」とはっきり言う店も少なくない。これは銀行が経費節減のため、支店をどんどん閉鎖したこととも関係がある。毎日、現金収入のある小売店は、かつては売り上げを銀行に持ち込んでいたが、最近は銀行の支店そのものが減った。そうなると安全確保の面からも、現金よりも電子決済の方がよいということになる。なまじ多額の現金を店内に置いておくと泥棒から狙われる恐れがある。
そこで「もう何ヵ月も現金を使ったことがないし、触ったこともない」という人が増えている。まさに電子決済によるキャッシュレス時代の到来である。

しかし、よく考えてみるとこれはおかしい。紙幣と貨幣は中央銀行が認めた天下御免の通貨である。商品を売る業者がその通貨による支払いを拒否するということは、すなわちその国の通貨を否定するということだ。安全管理などの理由があるにせよ、国民が何かを買おうとして、現金が通用しないというのは本末転倒ではなかろうか。
欧州で最も電子決済が進んでいる国はスウェーデンである。GDPに対する現金の流通残高は一%程度で、ほとんどの国民が現金を使わずに生活をしている。スウェーデンは国策として積極的に電子決済を促進して来た。理由はいくつかあるが、その一つは二〇〇〇年代半ばに、銀行や小売店や交通機関で強盗事件が頻発したことである。労働組合は組合員を危険から守るために、電子決済を増やすよう政府に働きかけた。ストックホルムの公共交通機関は現金での支払いを受け付けない最初の企業になった。これはバスの運転手の安全を考慮してのことだった。
そのスウェーデンから今月、興味深いニュースが飛び込んで来た。食料品店と薬局に対して現金決済を受け入れることを義務付ける法律が施行されたというのである。これは今までの方針に逆行する動きではないか。一体何が起きたのだろう。
その理由はロシアの脅威である。ロシアがウクライナへ侵攻したことを受け、スウェーデンは二〇二四年三月、NATOに加盟した。
ロシアはNATOを敵視しており、近接するスウェーデンも警戒しなければならない。今後、ロシアからサイバー攻撃を受け、電力の供給やインターネットの接続が妨害された時に備え、食料品店や薬局に現金決済の受け入れを義務付けたのである。つまりキャッシュレス社会を促進して来たスウェーデンは、一度立ち止まり、現金を一つの盾として国家の強靭性を高めようとしているのだ。
いま世界の趨勢は日英両国も含め、まぎれもなくキャッシュレスの方向に進んでいる。しかし電子決済のシステムにひとたび穴があけば、国民はパニックに陥る。戦争のリスクも天変地異のリスクも否定出来ない時代である。そうしたリスクに対する備えは万全か。十分に検証することが求められている。

週刊ジャーニー No.1459(2026年8月27日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。
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