世継ぎの男児誕生を切望し、5度も婚姻を繰り返していたイングランド王ヘンリー8世が、「最後の妻」として選んだ女性、キャサリン・パー。王の死後、やっと自分の人生を取り戻した彼女は、すべてを捨てて恋する相手に嫁いだものの、その先に待ち受けていたのは裏切りだった――。
今回は、賢妃・良妻と称えられたキャサリンの波乱の生涯と、彼女が眠るスードリー城(Sudeley Castle)を紹介したい。

●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部

スードリー城の敷地内に建つセント・メアリー教会の内部。廃墟化していた教会は19世紀初めに再建され、新しく制作された棺にキャサリンも再埋葬された(写真上)/教会内にあるキャサリンが眠る墓(同下)。
JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi
KaitekiTV

眠りから覚めた王妃

時をさかのぼること、230年ほど前の1782年。
18世紀に入りポンペイなどで古代遺跡が発見されて以降、「廃墟ブーム」の波がヨーロッパ中に広がり、英国でも廃墟めぐりを楽しむ人々が急増していた。そうした中で、コッツウォルズ地方の「人気スポット」のひとつだったのがスードリー城である。17世紀の清教徒革命時、ロンドンから亡命してきたチャールズ1世が一時滞在していた所以で議会派勢力に破壊され、以降100年以上も放置されていた城は、すっかり荒廃し静けさに包まれていた。しかし、同所を訪れた女性旅行客が起こした「ある行動」によって、ひとりの貴婦人が永久の眠りから覚めることになる。その女性の名前はキャサリン・パー。強大な権力を振るい、英国繁栄の礎を築いたヘンリー8世の6番目の妃である。

左から、ヘンリー8世、6番目の王妃キャサリン・パー、キャサリンの最後の夫トーマス・シーモア。

その日、スードリー城に到着した女性旅行客の一団は、荒れ果てた城をひとまわりした後、ガーデン跡にある教会に足を向けた。天井は崩れ落ち、見る影もなくなっていたが、かつて祭壇や聖歌隊席が並んでいたであろう内陣付近へ近づいていった彼女たちは、瓦礫の隙間から見える「白い大理石の一部」が妙に気にかかった。
「何だか崩れた墓石みたい…」
考古学熱が高まっていた時代、そうした真似事をしてみたくなったのだろう。城を案内していた地元の農民に、「この石の近くを掘るように」と指示。すると掘り進めてすぐに、土中から棺が姿を現した。そこに刻まれた文章は「ここにヘンリー8世の妻、キャサリン王妃が眠る(Here lyeth Quene Kateryn, Wife to King Henry VIII)」。一気に緊張と興奮が高まる中、鉛で封じられた棺に穴を開け、ふたをそっと持ち上げる。せめて少しの骨でも残っていれば…。息をのんで見守る彼女たちの目に映ったのは、蝋引きされた布で厳重に身体を包まれて眠るキャサリンの姿だった。驚くべきことに2世紀以上を経ても朽ちることなく、少し前まで息をしていたかのように、「白くみずみずしい肌」をしていた。

JEMCA
Kyo Service
J Moriyama
ジャパンサービス
らいすワインショップ
Atelier Theory
奈美デンタルクリニック
Sakura Dental

不幸だった二度の結婚

キャサリン・パーは1512年、湖水地方にある町ケンダルの城主の娘として誕生。17歳で新興男爵家の嫡男と結婚したが、身体が弱かった夫の病死により4年で婚家を去った。
 若くして未亡人になったキャサリンは翌年、裕福な男爵と再婚する。男爵は20歳上で、2人の子どもがいた。ところが結婚して間もなく、領地内でカトリック教徒による反乱が勃発。ヘンリー8世がアン・ブリン(のちの2番目の妃)と再婚するため、離婚を禁じていたカトリック教会から離脱して英国国教会を創設したことに、領民は不満を募らせていたのだ。彼らはキャサリンと子どもたちを人質にして幽閉し、男爵も反乱に加わるよう脅迫。選択肢はなかったとはいえ、男爵が反乱軍に参加したことは当然ながらヘンリー8世の不興を買い、以降宮廷から遠ざけられた。
一家が再び宮廷への出入りを許されたのは6年後。キャサリンは王妃の侍女を務める妹に会うため、頻繁に王宮を訪れるようになる。49歳の夫は体調を崩し、ベッドから起き上がることもままならず、キャサリンが看護している状態だった。静けさと死のにおいが漂いはじめた屋敷を離れ、つかの間のリフレッシュができる場所が王宮だったのだろう。そしてそこで出会ったのが、ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアの兄、トーマス・シーモアである。

引き裂かれた初恋

シーモア家は騎士階級であったものの、アン・ブリンの侍女だった娘が3番目の王妃となり、さらに唯一の男児を出産したことで栄達のチャンスを掴んだ一族だ。兄弟たちは次々と要職に就き、トーマスもそのひとりだった。政略結婚を繰り返し、苦労を重ねてきたキャサリンにとって、それは「初恋」だったのかもしれない。トーマスに出会ってすぐに恋に落ち、王宮で視線や言葉を交わすたびに想いは募っていった。程なくして、キャサリンの夫が死去。遺産を継ぎ「裕福」な未亡人となった彼女は、トーマスから結婚を申し込まれ、3度目の婚姻を結ぶつもりでいた。
しかし、そこへ割って入ったのがヘンリー8世である。国王からの求婚を、男爵未亡人のキャサリンが断れるはずもない。夫の死から4ヵ月後の1543年7月、ハンプトンコート宮殿でヘンリー8世と挙式。キャサリンは6番目の王妃となり、恋人だったトーマスは王の命令でブリュッセルに左遷された。このときキャサリンは31歳、トーマスは34歳、そしてヘンリー8世は52歳を迎えていた。
 この結婚生活も長くは続かなかった。ヘンリー8世は当時、130キロを超える肥満体であった上、馬上槍試合で膝に負った古傷の後遺症で苦しみ、健康は悪化する一方だった。気分が変わりやすい暴君となっていたが、2人の夫の世話をして看取ってきたキャサリンは「慣れて」いたのだろう。3年半後にヘンリー8世が亡くなるまで、自ら手厚く看病した。

富や地位よりも愛

スードリー城に展示されている、キャサリンがしたためたトーマス宛のラブレター。結婚するまでの数ヵ月間、2人は「2週間に1度」と決めて、手紙を交換していた。

1547年2月、ヘンリー8世の死去の報を受け取ったトーマスはロンドンへ戻り、キャサリンにプロポーズ。彼女は即諾する。
キャサリンに絶大な信頼を寄せていたヘンリー8世は、自身の死後も彼女を「王妃」として遇することを遺言していた。そのまま静かに暮らせば、破格の金額の年金が支払われ、王族としての地位も名誉も権力も維持できるが、再婚すれば全権利を手放すことになる。でも彼女は迷いなく「愛」を選んだ。トーマスの甥にあたるエドワード6世の戴冠式を見届けた後、キャサリンはチェルシーにある私邸へ移り住み、5月末に周囲の反対を押し切って秘密裏に結婚。初恋が実り、4度目にして「愛ある結婚」を叶えたこのときが、彼女の人生における絶頂期だったと言えよう。翌年の早春には妊娠も発覚し、35歳で初めて実子を持つ喜びに浸りながら、幸せな時間が続くことを疑っていなかった。
キャサリンは王妃時代、庶子の身分に落とされたメアリー(のちのメアリー1世)とエリザベス(のちのエリザベス1世)を王女に戻すようヘンリー8世に嘆願し、王位継承者として王宮に呼び寄せるなど、子どもたちの教育にも心を砕いていた。そのため、トーマスと結婚して「スードリー男爵夫人」となった後も、14歳のエリザベスとヘンリー8世の妹を祖母に持つ11歳のジェーン・グレイ(のちの「9日間の女王」)を引き取って教育していた。だが、これが裏目に出るとは想像していなかったに違いない。

ステンドグラスで飾られた私室の窓から、ガーデンに建つ教会を眺めるキャサリンの蝋人形。

野心家のトーマスにとって、エリザベスは自分の地位をさらに高めてくれる「獲物」だったのだ。やがて妊娠中の妻の目を盗んでエリザベスの寝室に忍び込む姿が目撃されるようになり、噂は邸宅内に広がっていく。最初は一笑に付していたキャサリンも不安を覚え、ついに乗り込んだ寝室で目にしたのは、2人が抱きしめ合っている光景だった。
 実は、トーマスはキャサリンへのプロポーズの前に、エリザベスやメアリー、ヘンリー8世の4番目の妃で「王の妹」の称号を与えられていたアン・オブ・クレーブスにも密かに求婚している。手当たり次第に「王族の夫」の座を狙う男に、キャサリンは見事にひっかかってしまったのである。

二度目の裏切り

キャサリンの怒りはすさまじく、エリザベスはチェルシーの邸宅から追い出された。そして、重度のつわりや倦怠感が続いていたキャサリンは、トーマスが所有するコッツウォルズ地方のスードリー城で出産することを決め、120人以上の侍女や召使い、衛兵とともに転居した。
夫の裏切りを一度は水に流す決意をし、心機一転してスタートさせた田舎での新生活は、明るく希望に満ちた日々が戻ってきたかのようだった。生まれてくる子どものために部屋を改装したり、子どもの胎動が激しく腹部を勢いよく蹴り上げることから、「きっと男児に違いない」と夫婦で笑い合ったりと、我が子と会える日を待ちわびた。
スードリー城へ来てから3ヵ月近くが過ぎた8月30日、キャサリンは女児を出産。ところが、沸き立つ城内とは対照的に、誕生したのが跡継ぎとなる男児ではなかったことに失望したトーマスは城を去り、二度と戻らなかった。なんと彼が向かった先は、エリザベスが暮らす屋敷。「役に立たなかった」キャサリンを捨て、再びエリザベスに言い寄ったのである。出産で衰弱したキャサリンは間もなく体調を崩し、6日後の1548年9月5日、産褥熱により死去。スードリー城の敷地内にあるセント・メアリー教会に埋葬された。最期の数日間は、病床で高熱にうなされながら夫とエリザベスを罵り続けていたという。

キャサリンが眠るセント・メアリー教会。

風化する遺体

さて、裏切り者の末路はというと、当てにしていたエリザベスに再婚を拒否されたトーマスは、次なる手として、若い国王の後見人を務める兄を排除し、自身が政治の実権を握ることを画策。亡き妻から継いだ豊富な遺産をもとに「金の力」で周囲を動かし、引き取っていたジェーン・グレイと国王の結婚を計画、さらに兄の地方遠征中に反乱を起こそうとするものの、失敗に終わった。トーマスは翌年、大逆罪で処刑されている。
メアリーと名付けられた遺児の娘の記録も2歳で途絶えており、早逝したとみられている。以後、スードリー城は王室所有となったが、あまり訪れる人はなく、17世紀の清教徒革命で破壊されてからは再建されることもなかった。人々の記憶から薄れていき、18世紀の「廃墟ブーム」で訪れた女性旅行客の一団がキャサリンの墓を発見するまで、彼女がここに眠っていることすらも忘れ去られてしまった。

写真奥の建物の右側が、テューダー朝時代のオリジナル部分。キャサリンが実際に使っていた部屋は2室だけ残っており、一般公開されている。

朽ちた静かな教会で、奇跡的に急逝当時のままの姿で時間が止まっていたキャサリンだったが、墓を暴いたことに満足した女性旅行客たちがきちんと棺のふたを閉めなかったり、噂を耳にした人々や研究者によって幾度も開閉されたりしているうちに、徐々に身体は腐敗していった。19世紀に入って教会の建て直しで棺が開けられたときには、わずかな粉骨が残っているのみだった。
現在も緑色のドレスをまとったキャサリンが、誰かを探しながらガーデンをさまよう姿が目撃されるスードリー城。彼女が探しているのは、遺した娘なのか? それとも唯一愛した男なのか? キャサリンの想いは今なお、風化せずに城に留まり続けている。

ドレス、髪の毛、歯まで… 暴かれたキャサリンの棺

発見当時ににスケッチされた、棺の中のキャサリン。蝋引きされた布に包まれ、「ミイラ」のような姿で埋葬されていた。

 1782年にキャサリンの墓が発掘されて以来、彼女の遺体は多くの人々の目に晒された。ある者は研究のため、別の者は興味本位で棺の中をのぞき、スケッチしたり、手を触れたり、布やドレスを剥ぎ取ったりしている。死後とはいえ、このような屈辱的な扱いを受けるとは思いもしなかっただろう。スードリー城内では、こうして棺から「採取」されたキャサリンにまつわる品々を見ることができる。

幾重にも巻かれた布を剥がすと、ドレスをまとったキャサリンが出現。スケッチから、胸元と腰部分に施されていた布の一部を採取したことがわかる。(写真左)
中央にキャサリンの髪が収められたオーナメント(写真右上)
同じく髪が入ったキーホルダーとキャサリンの歯(同下)。
動画へGo! 愛した男が悪過ぎた “ヘンリー8世6番目の妻キャサリン・パーの悲しき最期” スードリー城

6分でわかる!
編集部制作のショートフィルム

Travel Information 2019年5月14日現在
Sudeley Castle & Gardens
Winchcombe, Gloucestershire GL54 5LP
sudeleycastle.co.uk

アクセス
自動車:ロンドンからA40で北上し、M40へ。ジャンクション8で降りて再びA40に入り、チェルトナム/バーフォード方面へ走る。チェルトナムから北東へ8マイルほどで到着。所要およそ3時間弱。

入場料
自動車:ロンドンからA40で北上し、M40へ。ジャンクション8で降りて再びA40に入り、チェルトナム/バーフォード方面へ走る。チェルトナムから北東へ8マイルほどで到着。所要およそ3時間弱。
公共交通機関:ロンドン・パディントン駅から電車/ロンドン・ヴィクトリア駅からコーチに乗車し、チェルトナムで下車。ローカルバス(W1、 W2 、 606)に乗り、ウィンチクームの「War Memorial」で下車。スードリー城まで徒歩15分。所要およそ3時間30分。

オープン時間
2019年3月4日~12月22日/10:00~17:00
毎日オープン(ただし11月4日~は16:00閉館)

入場料
大人:£16.75、子ども:£7.75

週刊ジャーニー No.1086(2019年5月16日)掲載