
■ 第270話 ■鹿鳴館、創ったのは若造だった
▶鹿鳴館。国賓や外国の外交官らを接待するための迎賓館だ。外務大臣だった井上馨が建てさせた。鹿鳴館は井上の妻が「詩経」から名付けた。1883年に完成したが、井上が失脚したことで迎賓館の役目も終了。その後は華族会館として使われたが1941年に取り壊された。現帝国ホテル南側にあった。鹿鳴館建設には不平等条約を改正させる下心があった。数年前まで攘夷を叫んでいた日本。それが一転、西欧化に汗する姿は外国の目には滑稽に映ったらしい。フランス人風刺画家は正装した日本人男女の姿を映す鏡にサル2匹を描いた。猿真似ってことだ。しかしこの時のヨーロッパ各国、イギリス製機械製品を汗だくでコピー。成金たちは競って貴族の生活を猿真似していたがそれは言わないであげよう。
▶鹿鳴館を設計したのはジョサイア・コンドルというイギリス人だ。明治政府が招いた。さぞかし立派な実績を持つ古参の設計家かと思えば若造だった。コンドルは1852年、ロンドンに生まれた。24歳の時にイギリスで最も権威ある建築界の新人賞「ソーン賞」を受賞した。子どもの頃、セント・パンクラス駅横のホテルやゴシックの傑作、ウエストミンスターの国会議事堂が建てられる様子を見た。一方でこの頃のイギリスではジャポニズムが流行し、コンドルも影響を受けた。権威ある新人賞を受け、イギリスの建築界で活躍するのかと思ったらコンドルは日本行きの船に乗っていた。明治政府はコンドルと工部大学校(現東大工学部)造家学講師及び工部省営繕局顧問として5年の契約を結んだ。立派な新人賞獲ったけどまだ何の実績もない若造がいきなり今で言う東大工学部の教授に就任した。明治10年(1877年)、25歳の時だった。

▶イギリスの名のある建築家は既に大手事務所に所属しているか、独立して自分の設計事務所を構え大英帝国で絶賛ボロ稼ぎ中。その甘美な環境を投げうって開国したての極東の島国に来たがる人はそういないってことだ。コンドルの採用条件。月給350円。当時の高級官僚並みの給与だそうだ。小学校の校長でも月10円前後だった。さらに住宅手当が月60円。支度金150円。旅費(片道)650円とあるから25歳のまだ何の実績もない若造にはとんでもない厚遇ぶりでなんか、腹立つ。
▶設計家として何の実績もないコンドルがいきなり鹿鳴館設計という日本にとっての一大事を任された。料理専門学校を卒業したての小僧がいきなり銀座高給寿司店の親方を任されるようなもんだ。鹿鳴館建設には2年半かかりコンドルが31歳の時に完成した。1883年のことだ。鹿鳴館のベースはフランス風ルネッサンス様式で、そこにインド・イスラムっぽい装飾が施された。コンドルの頭の中ではゴシックとルネッサンス、ヒンズーとイスラム、ジャポニズムが五目チラシ状態になっていたのかもしれない。評価が分かれる鹿鳴館だが、栄華は長く続かなかった。コンドル自身はその後もニコライ堂や岩崎邸の数々を設計。日本人女性と結婚し、67歳で死ぬまで日本で暮らした。晩年の作品の評価は悪くない。つまりコンドルとは日本で失敗を繰り返しながら腕を磨き、成長していった人らしい。無理に西洋化を急いだ明治政府が莫大な税金をつぎ込んで招いたお雇い外国人たち。アタリもいたけどハズレも多かったんだろねってな辺りで次号に続く。チャンネルはそのままだ。
週刊ジャーニー No.1392(2025年5月8日)掲載
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