
■ 第268話 ■日本の鉄道、夜は明けたけど
▶1872年(明治5年)、日本初の鉄道が新橋~横浜間に開通した。幕府が消滅して5年。金のない日本が鉄道を作れた不思議。明治初期の日本、海外に売れるものは茶と生糸くらい。金もねぇ、技術もねぇ、鉄道欲しけりゃ買うしかねぇ懐事情。オリエンタルバンクという英銀から金を借りた。日本政府は鉄道債をロンドンで売った。間に入ったのは例の英系商社ジャーディン・マセソン。鉄道債をまとめ買いしてくれる人がいた。例のロスチャイルド。イギリス人から金借りてイギリス製品を買い続ける。無限借金ループの始まり。
▶徳川末期、アメリカは幕府に鉄道を売り込んだ。ところがイギリスは明治政府に接近。英国密航で鉄道を学んだ長州ファイブの一人、井上勝の働きもあって契約はイギリスがゲット。イギリスは鉄道敷設から機関車、鉄道債売り込み、技師育成、メンテまでのパッケージで売り込んだ。一方米仏は完成後の鉄道運営もやらせろと主張し、明治政府に嫌われた。建設責任者としてエドモンド・モレルという29歳の英国人技師が送られてきた。イギリスが鉄製の枕木を売ろうとしたところ、モレルは「日本には木が潤沢にあるじゃん」と主張。国産の木製枕木が採用された。母国を損させたけどモレルは外貨節約や日本の産業育成に貢献したとして「日本鉄道の恩人」と賛えられている。一方でモレルは実務経験乏しく、作業も杜撰で数年後に随分とやり直しが必要だったという説もある。真相は分からない。

▶鉄道建設にあたり大隈重信は巨大な判断ミスを犯した。日本の地形は山がちで曲線が多くなる。そのためスピードが重視されなかった。さらに費用が安く上がるという点からイギリスは日本にレールとレールの幅(ゲージ)が1,067mmという狭軌を薦めた。これは南アや豪州など英植民地で使われていたサイズ。日本を植民地レベルで見ていた証拠だとする説もある。確かに狭軌だと機関車も客車も橋もトンネルも小さくて済むためコスパは良かった。しかし車輪と車輪の間が狭いためカーブでの遠心力に弱く、スピードが大幅に制限される。イギリスも含めて欧米や中国では1,435mmの標準軌が採用されていた。ゲージは広いほうが安定しスピードが出せる上、カーブで脱線しにくい。車内も広くゆったりするなど標準軌の方が良いことが多かった。大隈の頭にも将来日本に高速・大量輸送時代が来る未来予想図が浮かんでいたのかもしれない。しかし大隈はイギリス側の説得と圧力に屈した。その後、何度か標準軌への変更が話し合われたが、その都度色々な理由をつけて棚上げされた。「改軌論争」と言うらしい。弾丸列車、東海道新幹線の開発が決まったことで遂に標準軌の道が開かれた。大隈は晩年「狭軌を採択したのは一生一代の不覚だった」と悔やんだ。遅いっちゅーの。
▶国鉄の拡張が狭軌で推し進められたため、多くの私鉄もこれに倣った。JR山手線や在来線が狭軌なら小田急線や西武線も狭軌だ。2005年4月25日。狭軌の弱点が露呈した。JR福知山線脱線事故。この路線も狭軌だった。半径304m、制限速度70kmの右カーブに時速116 kmで進入した列車の前5両がカーブを曲がり切れずに脱線しマンションに激突。107人が亡くなり562名が負傷する大事故に繋がった。奇しくも本号の発行日翌日が事故日と重なった。亡くなった方々のご冥福を祈りつつ次号に続く。チャンネルはそのままだ。
週刊ジャーニー No.1390(2025年4月24日)掲載
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