
■ 第262話 ■石丸安世という男
▶デンマークの「大北電信会社」が敷設した海底ケーブルによりウラジオストク~長崎~上海の3都市が繋がった。ヨーロッパや清の最新情報がリアルタイムで長崎に届く条件が整った。しかし長崎から東京まではまだ電線が敷かれていない。せっかく届いたホットな情報も日本国内では船や飛脚依存。熱々の情報も東京に着くころにはすっかり冷めちゃった。海外の情報が日本に瞬時に届くと言うことはその逆もまた然り。日本は丸裸にされ、骨の髄までしゃぶられる危険があるということ。
▶明治6年(1873年)、一人の日本人が長崎~東京間を電線で繋いだ。仕事が早過ぎる。買い被る訳じゃないけど日本の技術力は真に恐ろしい。かつて種子島に鉄砲が伝来した時、島主・種子島時尭(ときたか)は火縄銃二丁を200両で購入した。今の価値に直すのは難しいけど数億円らしい。すっかり気を良くしたポルトガル商人たち。数年後、「カモがネギ背負って鍋に入って待っている」とばかりに船に火縄銃いっぱい積んでリターン。ところが日本には既に大量の火縄銃が出回っていて全然売れず、肩を落として帰って行った。種子島時尭が買った火縄銃はすぐに刀鍛冶職人らによって研究され、短期間のうちにコピーされた。あとは日本のお家芸「改良・改善」が進められ、いつしか欧米の火縄銃を凌ぐほどの性能を誇るようになった。時は戦国の世。生産量も凄まじく、一時は世界総数の半分にあたる30万~50万丁の国産火縄銃があったとする資料もあるから日本ってホントにスゴイと自画自賛。筆者知る限り歴史上、それができた国は日本以外に見あたらない。

▶長崎から東京までの電線を敷いたのは石丸安世(やすよ)という佐賀藩士。秋葉原にあった石丸電気とは関係がない。藩随一の英語の使い手だった。英語力を買われて通訳として長崎に派遣された。異人と堂々と渡り合う姿は攘夷派の目に疎ましく映ったらしい。スパイ容疑で奉行所に告発されたこともある。1865年、石丸はもう一人の佐賀藩士と共にイギリスに密航した。スコットランドのアバディーンに逗留し、現ストラスクライド大学に通って数学や造船、通信などを学んだ。帰国後、工部省の初代電信頭に抜擢され、長崎から東京までの電線架設を任された。電線の敷設には碍子(がいし)という絶縁体が必須。工部省は碍子をイギリスから輸入したが高価な上に粗悪品が多かった。石丸は旧佐賀藩、有田の深川栄左衛門という陶芸家に磁器碍子の製造を依頼。深川は短期間で欧米の製品を超える碍子の国産化に成功した。そして明治6年(1873年)、長崎と東京が電線で繋がった。技術立国日本の快事だが、一番喜んだのは欧米や上海にいた商人たちだったかも。
▶石丸らがイギリスで逗留したアバディーンというスコットランドの街。グラバーの出身地だ。彼らの密航を手配したのはもちろんグラバーだ。グラバーの後ろにはお馴染みの商社ジャーディン・マセソンがいた。そしてさらにその奥には誰よりも早く情報を欲しがるユダヤ王ロスチャイルドがいた。もちろん石丸が彼らの思惑を知る由もない。石丸はただ、新生日本の発展のために尽くした。そして鉄道の井上勝、郵便の前島密、電話の石井忠亮と並ぶ「逓信(ていしん)四天王」と呼ばれるようになった。なんとな~く幕末明治の裏側が見えてきた春の夜、じっと手を見ながら次号に続くぜ。チャンネルはそのままだ。
週刊ジャーニー No.1384(2025年3月13日)掲載
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