
■ 第261話 ■繋がったウラジオ・長崎・上海
▶幕末期の上海には英米などの列強国だけでなくユダヤの商人が大勢いた。長崎にいたトーマス・グラバーの雇い主もまたユダヤ系のジャーディン・マセソン商会。グラバーが横浜と上海の中間地点である長崎に送られたのはこういう事情があったようだ。坂本竜馬らが亀山社中を長崎に置いたり、岩崎弥太郎が頻繁に長崎に出入りしていたことも決して偶然ではないだろう。伊藤博文や井上薫の長州ファイブや薩摩藩士19名の英国密航の手配をしたのもジャーディン・マセソン商会だった。英語を学ぶ者の多くが長崎を目指した。長崎はまさに倒幕派のホットスポットだった。
▶少し時代が前後するけど本欄はグダグダがモットーだから許そうね。長崎と横浜の距離は1,213キロ。新幹線なら7時間半、車なら14時間、高速バスだと21時間くらいかかるらしい。電話や電子メールなら秒で繋がるが、幕末、情報伝達に使われたのは主として飛脚。長崎から横浜までは7日から9日ほどかかったらしい。一方、長崎と上海。その距離わずか810キロ。横浜より近いけど、飛脚は海を走れない。なので船。長崎が開港するとすぐに英国の「P&O」社が長崎・上海間に定期船を就航させた。「P&O」はフェリー会社として今も存在する。始まりは「ペニンシュラ&オリエンタル・スチーム・ナビゲーション」という海運会社。アヘン戦争時にインドから清にせっせとアヘンを運んで大儲けした。ジャーディン・マセソン社とはライバル関係にあった。欧米列強とユダヤ資本家にとって上海、長崎、横浜は超重要な情報のハブだったが、いかんせん情報の伝達にやたら時間がかかる。蒸気船でも2日近くかかった。情報はスピードが命。欧米では既に盛んだった電気通信の敷設。日本や中国にも電信技術を持ち込んでライバルを出し抜きたいと各国虎視眈々。

▶明治維新なり「富国強兵」「殖産興業」が叫ばれ始めた日本。欧米の銀行から金借りて欧米の最新技術や機械をガンガン買う。ダブルで美味しいカモ誕生。明治5年(1872年)、日本初の海底ケーブルが長崎に陸揚げされ、運用が始まった。接続先は2ヵ所。1つは上海。そしてもう1つはウラジオストクだ。ケーブルを敷設したのは「グレート・ノーザン・テレグラフ」というデンマークの企業。日本名「大北電信会社」。イギリス、デンマーク、ロシアなどが主導した3つの電信会社が合併してできた会社で頭文字をとった「GN」という企業は今も存在する。補聴器やヘッドフォンなどを作っているらしい。
▶海底ケーブル。上海は分かるがウラジオストクはなぜ? イギリスはインドへの通信を重要視。そのため南側での電信網拡張を得意とした。一方ロシアはイギリスに遠慮して北側で電信網を拡張。「大北電信」はロシアから受注してヨーロッパからウラジオストクまで電線を敷いた。しかし清国内に電線を敷く許可が下りない。そこでウラジオから海底ケーブルを長崎に接続。そして長崎と上海も海底ケーブルで繋いだ。こうしてヨーロッパが長崎経由で上海と繋がった。ほとんどの日本人と清国人が知らない所で日本と清の情報が秒でヨーロッパに伝わり始めた。あとは長崎・東京間に電線を繋げば日本政府の動向は上海とヨーロッパに筒抜けでウッシッシ。そして翌明治6年(1873年)、謎の日本人が現われてそれを実現させちゃうよってな辺りで次号に続く。チャンネルはそのままだ。
週刊ジャーニー No.1383(2025年3月6日)掲載
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