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■ 第82話 ■吉田健三さんって、誰?

▼新しい1万円札の顔は渋沢栄一。農民から武士になり、明治になると実業界に身を転じて様々な企業を立ち上げた偉人だ。渋沢が誕生した9年後の1849年、越前福井に吉田健三という男児が誕生した。福井藩士の子だった。幼少期の資料が少な過ぎて意味わかんないんだけど、健三はわずか15歳の時に脱藩し大坂で医学を学んだ。その後、どういう心境の変化か長崎に向かって今度は英語を学んだ。健三が長崎に着いたころには既にグラバー商会が創業3年目を迎えていた。長崎到着の前年、グラバーやジャーディン・マセソン商会の仲介で伊藤博文や井上馨ら長州ファイブがイギリスに向かった。その2年後、薩摩藩から19人の藩士がロンドンを目指した。健三はそういう激動の時代に長崎で学んでいた。

▼1866年、健三は英軍艦に乗りイギリスに密航。2年間をイギリスで過ごした。サクッと書いたけど健三くん、スゴくない? 単身渡英した時、健三はわずか17歳だ。15歳で脱藩するだけでもとんでもないことなのに、17歳で単身イギリスに密航ってどういう神経? 私なんか11歳で青函連絡船に乗って初めて津軽海峡を越えた時にはチビリそうなくらい緊張したもんだ。なんせ当時の私にとって内地(本州)はほぼ異国だった。降り立った青森は英語並みに言葉が分かりづらく、やっぱり異国だった。私にしてみたら津軽海峡超えはプチ冒険だったが、横にはちゃんと母がいてくれた。健三少年の無鉄砲さに呆れると同時にその豪胆さに舌を巻き、敬意を抱かざるを得ない。

竹内綱
竹内綱ですが、何か?

▼健三が2年間の滞英中、何をしていたのかはさっぱり分からない。渡航費用や滞在費をどう工面したのかも分からないが、裏に誰かパトロンがいたと考えるべきだろう。健三が帰国したのは明治初年のこと。不思議なことが起こる。健三はジャーディン・マセソン商会の横浜支店長に就任した。英ロスチャイルド家の代理店となっていたジャーディン・マセソン商会の支店長に、わずか19歳の小僧を抜擢するってスゴ過ぎないか? ジャーディン・マセソン商会の初代支店長ウィリアム・ケズィックは健三に何を見出したのか分からないが、人物を見極める目は正しかったのかもしれない。なぜなら健三は日本政府を相手取り、武器や軍艦、そして生糸の取引に成功し、凄まじい利益を同社にもたらすことになる。自らのビジネスを起業するため、わずか3年で支店長職を辞するが、ジャーディン・マセソン商会はこの時、慰労金として1万円を健三に支払ったとされる。今でいうと6千万円位というからかなりの額だ。その慰労金を元手に様々な事業を起こして莫大な財を築いた健三だったが1888年、病により突然死んだ。40歳だった。殺されたのかもしれない。健三にもっと時間が与えられていれば渋沢栄一クラスの大物実業家になっていたかもしれない。

▼自由民権運動が盛んだった時期、健三は東京日日新聞(毎日新聞の前身)の経営参画をきっかけに板垣退助らと親交を深めた。板垣の腹心に竹内綱(たけのうちつな)という旧土佐藩士がいて、健三とは親友の間柄となった。子ができない健三に竹内は「次に生まれる子が男の子だったら君に譲ろう」と約束した。果たして生まれたのは男の子だった。愛人に産ませた子という説もある。男の子は茂と名付けられた。約束通り竹内茂は健三の養子となった。吉田茂の誕生だ。「イギリスのメシはなぜかくも残念?」を綴るはずの当欄が、なんかヤバい雰囲気になってきたぞ。震えながら次号に続く。チャンネルはそのままだぜ。

週刊ジャーニー No.1202(2021年8月19日)掲載

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