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■ 第51話 ■大川内山の悲しいお話

▼1616年、有田で日本初の磁器が焼かれた頃、オランダの東インド会社は明の景徳鎮で焼かれた磁器をせっせとヨーロッパに運んでは巨利を貪っていた。意外に思えるが17世紀のヨーロッパもまだ、磁器を焼くことができていなかった。オランダ人は景徳鎮の窯元に依頼し、大皿小皿からスープ皿、コーヒーや紅茶カップなど王侯貴族のテーブル上を彩るありとあらゆる磁器を焼かせていた。フランスの王侯貴族たちもアムステルダムに持ち込まれる景徳鎮製の磁器を盛んに買い付けていた。

▼1644年、明が滅んで清が興った。王朝の交代で大陸は大混乱に陥った。景徳鎮も巻き込まれ、磁器製造が一時的に停止した。困ったオランダ人はもう一ヵ所、磁器を焼ける場所を思い出した。佐賀の有田だ。有田は初めて磁器が焼かれてまだ30年ほどしか経っていなかったが、既に酒井田柿右衛門が景徳鎮の磁器に倣って赤色系の上絵を焼き付ける手法を編み出し大成長を遂げていた。だって鉄砲伝来の翌年には既にコピー製品を作り上げていたモノづくりの天才国家ニッポンだもの。

▼それまで景徳鎮が焼いていた磁器を有田の陶工たちに試作させたところ極めて良好な結果が得られた。だから、日本のモノづくりは凄いんだっちゅーの。実際に焼いたのは朝鮮人陶工かもしれないけどね。テヘペロ。以降オランダ人は有田や伊万里の窯元に磁器を焼かせてこれまたせっせとヨーロッパに運んだ。日本風の色絵や柿右衛門の赤絵はヨーロッパで大流行し、各国の富裕な貴族が競って手に入れようとした。伊万里港がオランダ人の拠点、出島に近かったことも幸いした。磁器を詰めた木箱には積出港「IMARI」の刻印が押された。そのためヨーロッパでは最大の生産地だった有田よりも「イマリ」の名が浸透した。イギリスでもウインザー城やマナーハウス(領主の大邸宅)等で公開されている伊万里も多いから見たことある人も多いだろう。有田、伊万里、波佐見の窯元は多忙を極めた。秀吉のやった朝鮮出兵で連れて来られた朝鮮人陶工たちが鍋島藩に大繁栄期をもたらした。

大川内山の無縁陶工の墓
大川内山の無縁陶工の墓で ございます。

▼鍋島藩は傑出した陶工たちが外部に流出することを恐れた。そのため険しい山の中に藩直営の御用窯を作り、そこに彼らを押し込んで外部との接触を遮断した。それが大川内山(おおかわうちやま)だ。筆者は数年前、この大川内山を訪ねた。JR伊万里駅からタクシーで15分ほどのところにある山間部の小さな集落で入り口には関所の跡が残っている。関所で人の出入りを厳重に取り締まっていた。鍋島藩がいかに陶工の流出に神経質になっていたかの証拠だ。ヨーロッパや国内向けの製品は伊万里や有田の窯で焼き、大川内山では朝廷や幕府、諸大名への献上品といった高級品のみを作らせた。この御用窯で焼かれたものは「鍋島焼き」と呼ばれて珍重された。

▼陶工たちは集落から外に出ることはほとんど許されず、山の中で生まれ、死んでいった人も多かった。墓地には無縁陶工の大きな墓があり、日本人と共に朝鮮人の名も無き陶工たちが多数祀られている。腕が良かったがためにプロジェクトチームに抜擢され、山中の小さな空間に閉じ込められて過酷な人生を強いられた人たちだ。墓の前で自然と頭を垂れた。大川内山では今でも30前後の窯元が素敵な作品を焼き続けている。近くに行った際にはぜひ立ち寄って欲しい。ところで有田や伊万里の製品が、ある日突然ヨーロッパでほとんど売れなくなる時が来る。なぜだ? その辺りはまた次号で。チャンネルはそのままだぜ~い。

週刊ジャーニー No.1171(2021年1月14日)掲載

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