
■ 第44話 ■長崎って、どこですか?
▼私が長崎県平戸市を訪れたのは2013年の秋のことだ。平戸は陸路ではなかなか不便なところにあった。ここに初めてポルトガル船がやって来たのは1550年のこと。以降平戸で南蛮貿易が始まった。同年8月にはイエズス会のザビエルが到着し布教活動を始めた。やがてスペイン人もやってきた。その後、オランダやイギリス人もやって来た。家康が死んでお払い箱となったイギリス人、ウイリアム・アダムス(三浦按針)は平戸で死んだ。なんかスゲーな、平戸。あれ? 長崎はどうした? 長崎県と言えばちゃんぽんでお馴染みの長崎市。江戸期には出島が作られ、長崎は日本有数の貿易港となった。幕末にはグラバーや坂本龍馬も闊歩した。そんじゃ平戸はどこ行った?
▼ポルトガルやスペインの商船はなぜ長崎ではなく平戸を目指したのか。答えは極めて単純だった。このころまだ長崎はなかった。一方、平戸には古くから明の商人や海賊などが住んでいて藩主松浦氏も南蛮貿易に積極的だった。貿易を通してより利益が上がるならとイエズス会の布教活動にも比較的寛容だったとされる。ところが。1561年、平戸港そばでポルトガル商人と町人の間で絹の取引を巡って口論となった。言葉が通じないことからやがて暴力沙汰に発展。たまたま通りかかった平戸藩士らが仲裁に入ったがポルトガル人はこれを町人への助太刀と勘違い。船から武器を携えて現場に戻ってきた。驚いた武士たちも抜刀してチャンバラとなった。ポルトガル側は船長以下14名の死傷者を出し、ほうほうの体で平戸を脱出した。強いぞ、サムライ! この騒動は七郎宮の前にあった露店で始まったため「宮ノ前事件」と呼ばれている。日本人側に処罰者が出なかったことに腹を立てたポルトガル商人らは平戸との断交を決断。イエズス会神父に新港を探すよう依頼した。神父は日本初のキリシタン大名、大村純忠と接触。横瀬浦を新たな貿易港として提供し貿易が再開された。横瀬浦は今の西海(さいかい)市にある入江だ。しかし大村家内の世継ぎ問題から横瀬浦は夜襲を受けて焼き払われてしまった。そのため新港として当時、な~んもなかった寒村に白羽の矢が立った。早速開発が始まり1571年にポルトガル船第一号が入港した。これが長崎の始まりだ。意外と歴史、浅いんだね。

▼前述の通り、ポルトガル商人や宣教師らが去ると平戸にはオランダ人やイギリス人がやってきた。1609年にはオランダが、その4年後にはイギリスが平戸に商館を開いた。オランダとの貿易戦争に敗れたイングランドは早々に日本から撤退。オランダも鎖国にともない1641年に平戸商館を閉じ長崎の出島に移転。平戸は海外交易の主役の座を長崎に奪われた。平戸は人口3万人弱の町だ。しかし戦国時代から江戸初期まで南蛮貿易の一大拠点として大繁栄した。三方を山に囲まれた小さな町だが、かつてはザビエルをはじめとするイエズス会宣教師やポルトガル、スペイン商人、そして英蘭東インド会社社員らがこの町を闊歩した。現在はオランダ商館が復元され、その裏手の山にはウイリアム・アダムスの墓碑やザビエル上陸記念碑などが置かれている。
▼長崎にポルトガル商船第一号が入港し、南蛮貿易が復活してから16年後の1587年7月、秀吉は突然「バテレン追放令」を発布する。実はこの時、長崎港がある一帯はイエズス会の領地となっていた。どゆこと⁉ 一体何があった? もったいつけて次号に続いちゃう。チャンネルはそのままだぜ!
週刊ジャーニー No.1164(2020年11月19日)掲載
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