●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■ 今から350年以上前の1671年、ロンドン塔に保管されていた英君主の権力の象徴「クラウン・ジュエル(Crown Jewels)」が盗まれる事件が起きた。犯人が狙ったのは、戴冠式で使われる王冠・宝珠・王笏(おうしゃく)の3点(写真上)。クラウン・ジュエルが盗難の被害に遭ったのは、後にも先にもこの1回だけである。一体どんな手口で犯行が行われたのか?

二枚舌男、復讐を誓う

英国史上もっとも大胆とも言える犯行を企んだのは、アイルランド出身の自称「大佐」、トーマス・ブラッドなる男(写真上)だ。彼は1618年、アイルランド西部のクレアで裕福な地主の息子として誕生。祖父はアイルランド議会の国会議員を務めており、一家は敬虔なプロテスタント教徒だった。

真面目に生活を送れば明るく穏やかな未来が開けていたはずだが、ブラッドは平穏な日々よりも戦いや冒険、騙し合いといった「スリル」を楽しむ人物であった。チャールズ1世が即位し、プロテスタントとカトリックが激しい政争を繰り広げる中、アイルランドでカトリック教徒による反乱が起きると、嬉々として鎮圧に参戦。さらに1642年、王党派と議会派の軍事衝突(イングランド内戦)が始まれば、「チャールズ1世陛下のために戦う!」と宣言してイングランドへ渡り、王党派軍に加わった。

ところが、紛争が進むにつれて王党派の敗戦の色が濃くなってきたことを察知すると、すぐさま議会派へ転向。生来の二枚舌と欺瞞(ぎまん)の才能を発揮し、王党派の活動を「スパイ」して活躍、なんと陸軍の中尉にまで出世した。チャールズ1世の処刑後には、議会派のオリバー・クロムウェルから戦功の報酬として、アイルランドの土地と治安判事の地位を与えられている。

アイルランド総督を務めた、オーモンド公爵ジェームズ・バトラー。

自身の手でつかみ取った功績に満足していたブラッドだったが、その生活が一変したのは1660年のこと。共和制を築いたクロムウェルが死去し、王政復古によってチャールズ2世が即位したのだ。情勢が変わり、せっかく得た土地や財産を没収されたブラッドは激怒。アイルランドに潜伏する「クロムウェル派」を集め、蜂起することを決意した。そして1663年、国王の側近でアイルランド総督を務めるオーモンド公爵が暮らすダブリン城を襲撃。公爵を捕虜にして国王を交渉の場に引っ張りだそうと目論んだものの、誘拐に失敗し、オランダへの亡命を余儀なくされる。すべてを失くして、仲間も殺されたブラッドは、オーモンド公爵への復讐を誓った。

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「処刑」の失敗

ブラッドは、オランダでもその他人をあざむく才能を活かして海軍提督の懐に入り込み、オランダ軍の一員として英蘭戦争で暗躍した。やがてほとぼりが冷めた1670年、こっそりとイングランドに帰国。ロンドンで医師兼薬剤師として暮らしながら、当時ピカデリーに邸宅を構えていたオーモンド公爵の行動を監視し、恨みを晴らすチャンスをうかがった。

行動を起こしたのは12月6日、静かな夜だった。ブラッドは数人で、セント・ジェームズ・ストリートを走る1台の馬車を急襲、車内にいた公爵を引きずり下ろした。縄で縛りあげて馬に乗せ、「絞首刑」にしようと処刑場として有名だったタイバーンへ一目散に馬を走らせる。しかし、公爵は馬上で必死に抵抗。馬車に同乗していたフットマンにも馬で追跡され、さらに御者から通報を受けた警備隊も合流したことから、ブラッドは計画を断念せざるを得なかった。馬から転がり落ちて泥まみれになっている公爵を放置して、闇に紛れて逃げ去った。

この誘拐未遂事件は大きな話題となり、もともと指名手配されていたブラッドの名は、重要な容疑者リストの上位に置かれることになった。だが、それでも人目を避けて静かな生活を送ろうという考えは彼には微塵もない。そして5ヵ月後、クラウン・ジュエルの盗難事件が起きるのである。


国王自慢の宝物

クロムウェルにより失われ、多額の資金をかけて再現されたクラウン・ジュエルを身に着けたチャールズ2世。戴冠式は1661年にウェストミンスター寺院で執り行われた。

古くはアングロサクソン系の最後の王、エドワード懺悔王の時代から受け継がれてきた王室所有の宝石「クラウン・ジュエル」は、君主の戴冠式には欠かせない国宝である。ロンドン塔の宝物庫で保管されていたが、王政が打倒されたクロムウェルの政権時代に金や銀製品は溶かされ、王冠などに飾られた宝石は取り外されて海外へ売り払われてしまっていた。1660年に王政復古した際、チャールズ2世の戴冠式を執り行うにあたって困ったのが、「レガリア(即位の宝器)」の不在。売り払われた宝石は多くがオランダへ流れており、これらを取り返した上で、失われた品々の記録に基づいてクラウン・ジュエルが再現された。

チャールズ2世は、軍艦3隻分もの費用をかけて「自分のため」に新たにつくられたクラウン・ジュエルを大いに気に入り、戴冠式で着用した後、自慢するかのように有料で一般公開した。初めての歴史的逸品の公開に、多くの人々がロンドン塔へ詰めかけ、その見物客の中にはブラッドの姿もあった。

クラウン・ジュエルは当時、ロンドン塔の北東に建つマーティン・タワーの地下室で保管され、金属製の格子で守られていた。管理人一家はタワーの上階に住み、訪問客から「見物料」をもらって地下室を案内しており、こっそり「チップ」を渡せば、鉄格子越しに宝物を触ることもできたという。管理人は77歳の老人、上階にいる家族は妻と娘だけ、警備員もいない…。あまりに杜撰な警備体制に犯行を思いついてしまったのか、それとも犯行の下見に行って「これは上手くいくぞ」と確信を得たのか。どちらにしろ、ブラッドは笑いが抑えられなかったに違いない。

ロンドン塔の見取り図
現在のマーティン・タワー。

お見合いをエサに

マーティン・タワーの地下室でクラウン・ジュエルを見物する客の様子。

彼はまず、管理人一家と親しくなろうと考えた。聖職者用のマントを羽織り、長いひげをつけた「牧師」に扮してクラウン・ジュエルを見物。深く感銘を受けた振りをして管理人を喜ばせ、次は妻を連れてくると約束した。数日後、妻(実は雇った女優)を伴って再訪するも、ジュエルの見学後に妻が激しい腹痛に襲われ、倒れてしまう。上階の住居を休憩場所として提供してくれた管理人夫妻に感謝したブラッドが、お礼の品を持参したことを機に、一家とすっかり打ち解けて仲良くなった。

やがて未婚の娘の行く末を心配する管理人に、結婚適齢期を迎えた裕福な甥がいることを話したブラッドは、「顔合わせの場を設けましょうか?」と提案。管理人一家は喜び、早速お見合いの日取りが決まる。当然ながら、ブラッドにそんな甥は存在しない。

1671年5月9日の午前7時、ブラッド一行がマーティン・タワーに到着。彼の「甥」と立ち合い人の男2人も一緒であった。顔合わせが上階で行われている間、甥以外の3人はクラウン・ジュエルを見たいと希望し、地下へ向かう。そして先導していた管理人が地下室へ足を踏み入れた瞬間、後ろからマントをかぶせて木槌で頭を殴ったのである。縄で身体を縛り、口に猿ぐつわをはめてから、念のために短剣で腹部も刺した。

倒れた管理人を気にしながら、盗んだクラウン・ジュエルを手に逃走しようとするブラッドら3人。

彼が意識を失っているのを確認したブラッドは鉄格子を取り外し、隠すにはかさばる王冠を木槌で打って平らにし、袋へ放り込む。別の男は宝珠をズボンのポケットに無理矢理押し込み、もう1人の男は長すぎる王笏を半分に折ろうとしたが上手くいかず、そのままマントの下に隠した。しかし、急いでいたために猿ぐつわが緩んでいたのか、目覚めた管理人に「反逆だ! 殺人だ! 王冠が盗まれた!」と渾身の叫び声を上げられてしまう。その声を耳にした上階の娘は、即座に警鐘を鳴らして助けを求めた。

4人は逃走を図るが、なんとも間の悪いことに、ちょうど帰宅した管理人の息子に遭遇。実は、一家にはフランドルに駐屯中の陸軍兵士の息子がおり、たまたま休暇をもらった彼は友人の兵士仲間と連れ立って実家に戻って来たところだったのである。現役兵士と警報を聞いて駆けつけた警備員らに追われたブラッドは、奮闘の甲斐なく逮捕されたのだった。

無罪どころか褒賞の謎

厳しい尋問が行われたが、ブラッドは犯行理由について一切口を割らず、頑なに「国王以外には答えない」と繰り返すばかり。狙われたのは国宝であるために、いい加減な取り調べで調査を終えるわけにもいかず、ついにチャールズ2世との対面が叶うことになる。自身の土地と財産を奪われ、オーモンド公爵を誘拐して人質交渉をしようと企んでから8年。ブラッドは53歳にして、野望を果たしたのだった。

王とブラッドの間で、どのようなやりとりがあったのかはわからない。しかし、クラウン・ジュエルを盗もうとした者が軽い罪で許されるはずはなく、処刑が妥当だと考えられていた。ところが数日後、ブラッドはなんと無罪放免で釈放され、さらには没収されたアイルランドの土地と財産も返却されたのである。これに腹を立てたのが、以前殺害されそうになったオーモンド公爵だ。公爵は国王に再考を促し、自身の殺害未遂について裁判を行いたいと訴えたが、許可されなかった。

ブラッドは一躍「時の人」となり、「ブラッド大佐」と名乗って、宮廷に姿を現すようになる。堂々と王宮を闊歩するブラッドを見て、宮廷人は「彼は王のスパイに違いない」と結論づけた。

なぜブラッドがクラウン・ジュエルを盗み、どうやってその罪を逃れたのかは明らかになっていない。王がこの大胆な悪党を気に入ったという説もあるし、元共和制派の彼を処刑することで再び反乱の芽が出ることを恐れたのかもしれない。また、第三次英蘭戦争が迫っていたことから、かつてのオランダでの「活躍」の腕を買ってスパイにしたとの説もある。

ブラッドは1679年、後援者のバッキンガム公爵から侮辱罪で訴訟を起こされ、有罪判決を受ける。多額の賠償金を請求されたものの、翌年にあっけなく病死。賠償金を手にできなかった公爵は、「ブラッドなら死を偽装して支払いを避けようとしても不思議ではない」と、墓を掘り起こして遺体を確認させている。

現在クラウン・ジュエルは、ロンドン塔内の最奥に建つウォータールー兵舎を改築した「ジュエルハウス」に保管・展示されている。館内は100台以上の隠しCCTVカメラで厳重に監視され、24時間体制で警備員が巡回、防弾・防爆ガラスで保護された宝物は、動く歩道越しにしか見ることができない。二度と盗難事件が発生することはないだろう。

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週刊ジャーニー No.1360(2024年9月19日)掲載