献立に困ったらCook Buzz
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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

ロンドンで初めて公開処刑が行われたのは1196年のこと。その後1868年まで、およそ700年の間に ロンドンだけでも数千人が処刑された。
公開処刑は市民の間で一大娯楽となり、処刑日には大勢の人が押し掛け、グランドスタンド席のチケットは飛ぶように売れた。
罪人はマーブルアーチやスミスフィールドなどの処刑場に振り分けられて処刑された。
そんな中、訳あって非公開で処刑された人たちがいる。今号ではロンドン塔の中で首を刎ねられた3人のクイーンを追う。

血を求めた時代

ロンドン塔。イングランドを征服したウィリアム1世の命で建設された。かつては宮殿ならびに要塞として機能した。ところが13世紀終わり頃から高位の政治犯や反逆者を収監する監獄と化した。宮廷関係者や貴族など120人ほどがロンドン塔の外、タワーヒルで公開処刑された。その中にはヘンリー8世のカトリック離脱に猛反対した大法官で「ユートピア」の著者としても知られるトマス・モアもいる。公開処刑の日、市民は出来るだけ良い席を確保しようと早くから処刑場に詰めかけた。処刑場周辺では食べ物や飲み物がよく売れた。タワーヒルでの処刑の多くが斬首刑で、切り落とされた首はその後、串刺しにされてロンドンブリッジ南端に高く掲げられた。ロンドン市内に入ろうとする人々に「お上に逆らう者の末路」を示すためだ。

一方、ロンドン塔の中でひっそりとと処刑された人物が22人いる。その中にはチューダー期のクイーン3人が含まれる。ヘンリー8世2番目の妻アン・ブリンと、5番目の妻キャサリン・ハワードの王妃2人。そしてもう1人は在位わずか9日間、16歳の若さで散った女王ジェーン・グレイ。

彼女たち3人はいずれも国家や君主に対する反逆罪で首を刎ねられた。そして他の歴代女王や王妃たちがウエストミンスター寺院やウインザー城に葬られる中、3人はロンドン塔内にある小さな礼拝堂の地下で、その他大勢と共に眠っている。彼らの罪状は現代の司法制度では決して死刑に相当しない。チューダー期は不思議なほど日本の戦国時代と時が重なる。そしてどちらも多くの血が流れた。この時代に生きた女たちの人生もまた過酷だった。

ロンドンの観光地の中で最も凄惨な過去を持つロンドン塔だが、同時にイングランドの歴史が最も濃く凝縮されているのもまたロンドン塔。ぜひ一度は足を運び、不遇の3クイーンに思いを馳せてもらえたらと願う。

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ヘンリー8世、2番目の妻
アン・ブリン 処刑日 1536年5月19日

ヘンリー8世2番目の妻アン・ブリン。ブリン家は元々ノーフォークの自営農家だったが、アンの曽祖父がロンドン市長となりナイトの称号を獲得。父トマスが第2代ノーフォーク公の長女と結婚。大貴族と縁戚関係となった。

アンは父の命で13歳から7年間フランス宮廷入りし、王妃の侍女として仕えた。20歳の頃、イングランドに帰国。先に宮廷入りしていた姉のメアリーはヘンリー8世の愛人となっていた。アンも宮廷入りし、ヘンリー8世最初の妻、キャサリンの侍女として仕えた。

ヘンリーはフランス宮廷の香りを漂わせるアンに惹かれ愛人になるよう迫った。しかしアンはこれを拒絶。ヘンリーは男子を産まないまま高齢となった妻キャサリンとの離縁を決意。アンを新たな王妃にすると決めた。しかし離婚を認めないカトリックが立ちはだかる。プロポーズから7年、フランス王の後ろ盾を得たことでアンはようやくヘンリーを受け入れ、妊娠した。31歳の時だった。

しかし出産までに王妃にならなければ生まれて来る子は婚外子となり王位継承権が得られない。ヘンリーは妻キャサリンから王妃の称号を剥奪して宮廷から追放、アンと結婚した。出産には間には合ったものの生まれたのは女児。祝賀会は中止された。エリザベスと名付けられたこの女児が後にイングランド女王となる。

王妃となったアンは大勢の使用人を侍らせて権勢を誇り、莫大な費用をかけてハンプトンコートを改修させた。政治に口を挟む癇癪持ちの王妃は次第に宮廷内で敵を増やしていく。1535年10月、アン再び妊娠。翌年1月7日、前王妃キャサリンが死んだ。キャサリン葬儀の日、アンは男子を流産。ヘンリーの心が急速にアンから離れていく。

5月2日、アンはグリニッジ宮殿にいる所を突然逮捕され、ロンドン塔に収監された。裁判が行われ、複数の男との姦通や実弟との近親相姦、妖術使い、国王暗殺計画などの容疑で有罪となり他に逮捕された男たちと共に死刑判決が下された。その場で王妃のタイトルを剥奪され、エリザベスも婚外子とされた。

5月17日、5人の男たちがタワーヒルに連行され首を刎ねられた。2日後の5月19日午前9時、アンはロンドン塔内ホワイトタワー北側に組まれた処刑台に昇った。わが子エリザベスに累が及ばぬよう潔く死を受け入れた。フランス育ちのアンのため斧ではなく、カレーから招聘した執行人の剣によって首を刎ねられ、遺体は敷地内の礼拝堂に埋葬された。享年35。最近の研究では、アンは政敵だったヘンリーの右腕トマス・クロムウエルに先手を打たれ、謀略に嵌められた末に殺されたという冤罪説が有力になっている。

本誌が制作した動画「英国ぶら歩き」シリーズの「私の時代が来る」もご覧ください。


ヘンリー8世、5番目の妻
キャサリン・ハワード 処刑日 1542年2月13日

ヘンリー8世5番目の妻キャサリン・ハワード。アン・ブリンの従妹にあたる。父は第2代ノーフォーク公3男。祖父の死後、父はほぼ何も相続できず生活は困窮を極めた。キャサリンは5歳の時、口減らしのためサセックスの祖母宅へ送られ、その後テムズ河畔にあったノーフォークハウスへ移動を命じられる。そこでは貧しい貴族の子たちが大勢で共同生活を営んでいた。キャサリンは読み書きができる程度で、あとは奔放に育った。

17歳の時、キャサリンはヘンリー8世4番目の王妃アン・オブ・クリーヴズの侍女として宮廷に召し出された。ドイツから連れて来られた新妻にヘンリーは失望、下半身が反応しなかった。そんな中、ヘンリーは瑞々しいキャサリンの肉体に溺れた。出会いからわずか半年後、ヘンリーはアンとの婚姻を無効とし、32歳年下のキャサリンを妻とした。欲しいものは何でも与えられた。キャサリンに求められるのはスペアとなる王子を産むこと。17歳のキャサリンにとっては簡単なことのように思えた。しかし、転落のきっかけは彼女自身の黒い過去が運んで来た。

ある日、ヘンリーの元に告発文が届けられた。ノーフォークハウス時代、キャサリンには夫婦同然のデラムという男がいた。しかもキャサリンはその男を私設秘書として今も近くに置いているという内容だった。激昂したヘンリーはキャサリンを軟禁。デラムはロンドン塔に連行され、激しい拷問を受けた。「今もキャサリンと関係が続いているのではないか」と締めあげられたデラムは耐えきれず別の男の名をあげた。トマス・カルペパー。ヘンリー付きの27歳の使用人だった。カルペパーは人目を忍んで度々キャサリンの寝室に忍び込んでいた。妻や従者による前代未聞の裏切り劇。キャサリンをはじめ、デラム、カルペパー、逢瀬を手引きした侍女の4人に死刑判決が下った。

デラムとカルペパーの2人はタイバーン刑場で処刑され、首はロンドンブリッジに晒された。キャサリンと侍女はロンドン塔に移送された。処刑前夜、キャサリンは断頭台を貸して欲しいと願い出た。元王妃として恥ずかしくない最期を遂げるため、断頭台の上に首を置く練習を何度も繰り返した。

処刑のモニュメントと3人のクイーンが埋葬されたセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂。

1542年2月13日月曜午前7時。キャサリンは6年前に従妹アン・ブリンが処刑されたのと同じホワイトタワー北側に組まれた処刑台へと連行された。最期のスピーチを終えたキャサリンは明るくなり始めた空を仰ぎ「王妃としてより、カルペパーの妻として死にたかった」と呟き、断頭台に首を置いた。大人たちの都合に翻弄され、王妃としての自覚を持つ前に断頭台の露と消えた。19歳だった。

本誌が制作した動画「英国ぶら歩き」シリーズの「暴かれる過去」もご覧ください。

9日間の女王
ジェーン・グレイ 処刑日 1554年2月12日

1553年2月、ヘンリー8世の長男、15歳のエドワード6世が突然、病の床に伏した。エドワードが死ねばヘンリー8世の長女メアリーが王位を継承する。強烈なカトリック信者のメアリーが君主となればプロテスタント政策を押し進めてきたノーサンバランド公は破滅する。そこで一計を案じ、急遽6男ギルフォードをヘンリー7世のひ孫、ジェーン・グレイと結婚させた。そして死の床にあるプロテスタントのエドワード6世を説得し「ジェーンを次期国王とする」と遺書を書き換えさせた。

7月6日、次期国王にジェーンを指名してエドワードは逝った。ノーサンバランド公はメアリーの拘束を目論み、追手を放ったが危機を察したメアリーは間一髪の差でロンドンを脱出した。ノーサンバランド公は国王死去のニュースを国民に3日間秘匿。その間、ジェーンを自宅に呼びジェーンが新君主であることを告げた。ジェーンは激しく抵抗したが翌7月10日、ロンドン塔行きのバージ(平底船)に乗せられた。2度と戻ることのない片道切符の船旅だった。ロンドン塔では夫ギルフォードが国王気取りでジェーンを出迎えた。2人を祝福する国民は皆無だった。

自領ノーフォークに逃げ込んだメアリーは有力貴族や領主らに支持を依頼する手紙を書いた。「女王メアリーより」と添えた。ノーサンバランド公はメアリー追討軍を派遣した。イングランドは国王の椅子を巡り内戦の危機に直面した。女王ジェーン誕生4日目、宮廷で起きていることがノーサンバランド公の陰謀と気づいた人々が続々とメアリーのもとに集まり始めた。翌日、メアリーたちを海上封鎖していた軍艦6隻のうち5隻が接岸。メアリー支持に寝返った。さらに各地で大貴族たちがメアリーを支持して挙兵。形勢は一気に逆転した。9日目となる7月19日、ロンドン塔にいたジェーンとギルフォードが逮捕された。メアリーは国民に向けて即位を宣言、メアリー1世が誕生した。

『レディ・ジェーン・グレイの処刑』
フランス人画家のポール・ドラローシュが処刑から3世紀近く経ってから想像で描き上げた1枚。臨場感溢れるが16世紀イングランドの真実は描かれていないと言われる。

裁判でノーサンバランド公はカトリックに改宗して命乞いをしたが耳を傾ける者はおらず、大勢の観衆が見守る中、タワーヒルで断首された。ジェーンとギルフォードにも死刑判決が下されたがメアリーは執行を先送りした。メアリーがカトリック大国スペインのフェリペ王太子と婚約したことで一部プロテスタントが暴発。反乱軍はすぐに捕らえられ100人ほどが処刑された。ところが首謀者の中にジェーンの父親がいることが発覚。ジェーンを生かしておけば再びプロテスタントの象徴として反乱に担ぎ出される恐れがあった。メアリーは2人の処刑を決意した。

ロンドン塔のホワイトホールに展示されている、タワーヒルで最後に使用された断頭台。1747年4月9日に大逆罪で処刑された第11代ロヴァット男爵サイモン・フレーザー卿の処刑に実際に使われた。

1554年2月12日午前10時、タワーヒルに連行されたギルフォードは父親同様、大勢の市民が見詰める中で首を刎ねられた。享年18。1時間後、ロンドン塔内で死ぬことを赦されたジェーンはタワーグリーンと呼ばれる芝の上に組まれた処刑台に昇った。最期のスピーチを立派にやり遂げ、首を刎ねられた。遺体はアン・ブリンとキャサリン・ハワードが眠る礼拝堂に埋葬された。16歳だった。陰謀によって君主の座についたジェーンは長らく女王と認められず「レディ・ジェーン・グレイ」と称されて来た。しかし近年、例え9日間でもジェーンをイングランド初の女王と認めるべきとする研究者が増えている。本稿でもジェーンを女王として扱った。

本誌が制作した動画「英国ぶら歩き」シリーズの「ジェーン・グレイの悲劇」もご覧ください。

英国の処刑事情

ロンドンの処刑場

■ロンドンの主な処刑場にはタワーヒルやロンドン塔のほか、タイバーン、スミスフィールド、ニューゲート監獄があった。

【タイバーン】
マーブルアーチの三差路はかつてタイバーン(Tyburn)と呼ばれ、ロンドン北西部エリアでの見せしめ処刑を行う場所としての役を担った。1571年にはタイバーンツリーと呼ばれる三角形の絞首台が作られ、一度に大量の死刑囚を吊るすことが可能となった=右の銅版画はウィリアム・ホガース作(1747年)。

【スミスフィールド】
現在は精肉市場として知られるスミスフィールド。宗教改革時は主に異端とされた人がここで処刑された。メアリー1世がプロテスタントの男女、子どもを火あぶりで処刑した場所としても知られる。

【ニューゲート監獄】
見せしめとして監獄の外で公開処刑が行われた。1783年以降は同時に12人が吊るされる落下型絞首台が設置された。1868年までに少なくとも1,130人の男女がここで処刑された。

処刑の種類

■罪の重さによって様々な処刑方法が用意されていた。カトリックがプロテスタントを処刑する際には火刑が多かった。他に一般的な方法として絞首刑、斬首、まれに窯茹でがあった。

■最も重いのは「引き回し、溺れ、四つ裂き(Drawing, Hanging, and Quartering)」の刑。死なない程度に罪人を馬に引かせ、死なない程度に首を吊り、その後、性器を切り取り、内臓を抉り、斧で身体を4つに切り分け、身体の破片を各地で晒した。同じ罪状でも高位の者は一瞬で死ねるようにとの温情から断頭刑が選ばれることが一般的で、また、非公開で処刑されるケースも多かった。

週刊ジャーニー No.1340(2024年5月2日)掲載