献立に困ったらCook Buzz
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●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■「残忍な暴君」リチャード3世に暗殺されたと伝えられる、兄王エドワード4世の2人の幼い遺児たち。幽閉されたロンドン塔で王子たちの姿を見かけなくなってから約200年後、彼らと思われる2体の遺骨が同所で発見された。少年たちの身に一体何が起きたのか?

階段下から遺骨発見

ロンドン塔の中央にそびえるのが、ホワイト・タワー。

ロンドン市内とテムズ河の両方を監視できる要塞として、11世紀に建造されたロンドン塔。その中心に建ち、かつては国王一家が暮らす王宮としても使用されていた「ホワイト・タワー」の入口は現在、南側に設置された木製の外階段をのぼった先にある。しかし、2人の少年たちが幽閉されていた1483年当時、この南側には石造りの「前棟」があり、その前棟内に設えられた階段をのぼってホワイト・タワーに入っていた。この建物が姿を消したのは、今から350年前の1674年のこと。時の国王チャールズ2世が、清教徒革命により半壊状態だった前棟の取り壊しを命じたからである。

王子たちと思われる遺骨が発見された、ホワイト・タワー内の礼拝堂へと続く螺旋階段。現在は埋め立てられ、階段は使えなくなっている。

1674年7月17日、取り壊しに伴う改修工事を行っていた作業員たちが、床下3メートルの位置を掘っていたところ、古い木製の櫃を発見した。そこはホワイト・タワー内にある礼拝堂へ続く「隠し階段」の真下にあたる場所。何やらいわくのありそうな、厳封された木箱の中に収められていたのは、なんと2体の人骨であった。骨はそれぞれボロボロの古布に包まれ、ベルベットと思しき布片が一部付着していた。ベルベットのような高級生地を身にまとえるのは王族のみ。子どもの骨と見られることからも、「もしかしたら200年前にロンドン塔で失踪した王子たちでは?」と現場は騒然となった。

緑色に彩色された部分が、現存している遺骨。国王への連絡が遅れ、長く工事現場に放置されていたため、かなり紛失してしまった(Alison Weir『Richard III & the Princes in the Tower』より)。

チャールズ2世の専属外科医や歴史学者が検証した結果、遺骨は10歳前後と、それより少し年長の子どものもので、15世紀頃に埋葬されたことが判明する。失踪当時の王子たちの年齢は12歳と10歳、亡くなったと考えられているのは1483年、両方とも合致している。また、彼らが最後に幽閉されていた場所がホワイト・タワーとする記録が残されており、その情報とも一致した。発見された遺骨は「エドワード5世とその弟リチャード」と断定され、4年ほどロンドン塔で展示された後、王族が眠るウェストミンスター寺院へ埋葬された。

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父王の秘密の結婚

王子たちの両親であるエドワード4世(左)とエリザベス・ウッドヴィル(中央)、エドワード4世の弟リチャード3世(右)。リチャード3世は軍事司令官として兄王の治世を支え続け、薔薇戦争を集結に導いた。

エドワードとリチャード兄弟が生まれたのは、「薔薇戦争」の真っ只中だった。プランタジネット王家が2つに割れ、赤薔薇の記章をつけたヘンリー6世率いるランカスター家と、白薔薇を掲げたエドワード4世率いるヨーク家が、王位をめぐって骨肉の争いを繰り広げていた。

1461年、エドワード4世はヘンリー6世をロンドン塔に幽閉し、イングランド王として即位。これで両家の争いに決着が着いたかに見えたが、恋多きエドワードが「想定外の恋」に落ちたことで状況が一変してしまう。熱愛の相手である年上の未亡人エリザベス・ウッドヴィルは、かつてヘンリー6世妃に仕えていた、敵対するランカスター一族の女性だったのである。エドワードは彼女との婚姻を望むものの、当然ながら周囲は猛反対。それならば…と1464年、2人はウッドヴィル家の小さな礼拝堂で秘密裏に結婚してしまった。

この婚姻は懸念通りに、ヨーク家の空中分解を招いた。王の身勝手さや王妃一族の重用に激怒し、ランカスター側に寝返る者が続出。エドワードは王位から追い落とされて国外へ逃亡、身重だったエリザベスは1470年、避難していたウェストミンスター寺院で長男を出産する。この男児が、のちのエドワード5世――ロンドン塔で失踪した兄王子である。

国外で反撃の準備を整えたエドワード4世は、翌年に再び王位を奪還。一方で再収監されたヘンリー6世は、ロンドン塔でひっそりと暗殺された。

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母と叔父の対立

父王の復権に伴い、長男エドワードは1歳で皇太子に任命されると、ウェールズとの国境に近いラドロー城で教育を受けながら、厳しくものびのびと育てられた。1473年には弟が生まれたが、母や姉妹たちとロンドンで暮らす弟とは顔を合わせることはなかった。兄弟が相まみえるのは、エドワードがロンドンで戴冠する時――。まだまだ先だと思っていた「その日」は、予想以上に早くやって来た。

1483年4月9日、父王が40歳で急死し、エドワードは若干12歳で突如王冠を戴くことになった。王は息子が戴冠式を終えるまでの国王代理、そして成人を迎えるまでの後見人(護国卿)として、自身の右腕でもあった弟(リチャード3世)を指名する遺言を残していたが、これを不服としたのが実権を握っていた王妃の親族である。一族の者を後見人とするためにも、王の死がヨークを拠点とするリチャードへ伝わる前に、エドワード5世の戴冠式を終わらせようと画策したのだ。この裏切り行為は、王妃勢力の一掃をリチャードに決断させることになる。

そうした母や叔父の思惑を知らないエドワード5世は4月29日、戴冠式のためにラドロー城からロンドンへ向かう途中で合流した叔父の一行に、側近たちを一斉に捕縛されて困惑。強く抗議するも相手にされず、まるで罪人のようにロンドンまで「護送」され、5月19日にロンドン塔へ連行された。そして、その1ヵ月後に同じように王妃のもとから引き離された弟と、塔内でついに顔を合わせたのだった。

戴冠式を目前に控えた6月22日、式典の変更が電撃発表される。前王エドワード4世は王妃と結婚する数年前に、実は別の女性と秘密裏に婚姻を結んでおり、「重婚」であったことが発覚したというのである。これによって2人の婚姻は無効とされ、非嫡出子である王子たちの王位継承権は剥奪された。若きエドワード5世のために準備が進められていた祝典は、同26日に新君主として即位を表明した叔父リチャード3世の戴冠式へと様変わりしたのであった。だが、短期間のうちに強引に就いた玉座が平穏であろうはずがなく、リチャード3世の治世は2年しか続かなかった。

2人は殺害されたのか?

幽閉された王子たちはその後、どうなったのか。

当時、王宮に出仕していたイタリア人外交官ドミニク・マンチーニの記録によると、兄弟は最初ロンドン塔の「ガーデン・タワー」(のちにブラッディ・タワーと改名)に幽閉されていたという。ただ、幽閉といってもある程度の自由は許されていたようで、王位継承権剥奪が宣言される6日前の6月16日には「2人がロンドン塔の庭で矢を射て遊んでいるのを見た」と書き残している。

しかし、リチャード3世が即位すると、監視体制の厳しいホワイト・タワーに移送され、外で遊ぶことはなくなった。やがて夏には「日に日に窓越しに姿を見せる機会が少なくなっていたが、ついにまったく目にしなくなった。彼らは殺害されたのではないかとの噂がささやかれている」と記述。ホワイト・タワーへ移されて以降、体調を崩しがちだったエドワードは定期的に医師の診察を受けており、その医師によると「いつ訪れるかわからない死に怯え、毎日懺悔と悔悛をして罪の赦しを求めていた」という。

眠っている王子たちの顔に枕をかぶせて、殺害しようとしている様子。

多くの歴史家が、王子たちは1483年の夏の終わり頃に暗殺されたと考えており、ヘンリー8世の側近トマス・モアは、事件が起きた30年後に著書の中で「密命を受けた2名の男が真夜中に忍び込み、ベッドで寝ていた子どもたちの顔に枕を力ずくで押しつけ、窒息死させた」とつづっている。

殺害を指示した容疑者の最有力候補として、真っ先に名前が挙がるのは、当時も今もリチャード3世だ。でも、動機があるのは彼だけではない。リチャードの王位を万全にしたかった側近の可能性もあるし、彼を倒してテューダー朝の祖となったヘンリー7世にとっても、王子たちが生きているのは都合が悪かったはずだ。

再調査とDNA鑑定

2体の遺骨は、当時の有名建築家クリストファー・レン制作による大理石の棺に埋葬され、ウェストミンスター寺院のヘンリー7世チャペル内で眠っている(中央)。

ウェストミンスター寺院に安置されている遺骨が、本当に「エドワード5世兄弟」のものであるのか、その真偽を確かめるための再調査を求める声は多く、1933年に一度だけ遺骨が取り出されている。

この調査に参加したのは、解剖学者、歯科医師会会長、ウェストミンスター寺院の記録係の3名で、骨と歯を測定した結果、やはり12歳と10歳くらいの子どものものだと結論づけられた。また、頭蓋骨には祖母のヨーク公爵夫人セシリーから受け継いだ思われる、歯の欠損を引き起こす先天性疾患が見られたことも発表されている。しかしながら、これは「遺骨が王子のもの」という推定に基づいた調査であり、窒息死の形跡が見られるかを確認することに主眼が置かれていたため、多くの批判を集める結果に終わった(死因は判明しなかった)。

2012年にレスターの駐車場でリチャード3世の遺骨が発掘され、その時に採取した彼のDNAが記録されているので、王子たちの遺骨かどうかを判断することは可能になっているものの、ウェストミンスター寺院はDNA鑑定を拒否している。故エリザベス女王も再調査を支持していなかったが、チャールズ国王は500年以上前の謎を解くことに興味を持っていると伝えられている。現代の法医学的検査によって、遺骨がエドワード5世兄弟のものであると証明されたとしても、彼らの命を絶った人物を知ることはできない。大人たちに裏切られて閉じ込められ、迫り来る死に日々怯えていた幼い少年たちが、今やっと安らぎを得ていることを忘れてはならない。

ウィンザー城で発見された2人の遺骨の謎

ウェストミンスター寺院と同様に、ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂にも多くの王族が埋葬されており、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルが眠る墓も主祭壇近くにある。

2人の棺が置かれた埋葬室は封鎖されているが、1789年に改修工事を行っていた作業員が誤って入室。そこで身元不明の2人の子どもの棺を発見した。埋葬記録をたどったところ、2歳で死去した夫妻の息子ジョージと、14歳で亡くなった娘メアリーの名前があったことから、これらの棺は両名のものだと断定され、確認や検査を行うことなく再埋葬された。

ところが1810年、礼拝堂内の調査中に、別の場所から両名の名前が刻まれた棺が見つかったのである。これこそが王子と王女の棺であることは間違いなく、2人は両親のいる埋葬室へ移された。――それでは、1789年に発見された棺は誰のものだったのか?エドワード5世兄弟がロンドン塔で殺害された後、両親のもとに秘密裏に埋葬されたのではないかとして、遺骨のDNA検査が何度も提案されているが、ウィンザー側は拒否している。

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週刊ジャーニー No.1339(2024年4月25日)掲載