ノールを呪った伯爵夫人
アン・クリフォード © National Trust Images 初代ドーセット伯トーマスはノールを手に入れた3年後にこの世を去り、後を継いだ2代目のロバートも1年後に死去。そして、1609年にノールを引き継いだ第3代ドーセット伯リチャードは、見栄っ張りで贅沢な暮らしを好む人物だった。
愛よりも富と権力に重きを置く当時の貴族社会の例に漏れず、リチャードも19歳の時、ヨークシャーのカンバーランド伯爵の称号を引き継ぐ名門クリフォード家から同い年のアン・クリフォードを妻に迎えた。イングランド北部の名門と南部の名門の理想的な組み合わせといえる結婚だったが、ギャンブル好きの浪費家で女性にもだらしないリチャードが、派手な暮らしを維持しようと目論見、アンの財産をあてにした打算まみれの結婚だった。
この結婚に亀裂が入るのに時間はかからなかった。
ただ、実は、アンは亡き父が残した遺産の相続を巡って長い争いの最中にあった。クリフォード家では、資産は男女を問わず長子に引き継がれることになっており、兄2人を既に亡くしていたアンは当然、クリフォード家の不動産の数々を引き継ぐはずだったのだ。それにもかかわらず、父は規定に反して遺産の相続人としてアンの叔父を指名していた。
クリフォード家所有の邸宅を心から愛していたアンは、正統な相続の権利を主張し続けたものの、浪費でふくれあがった借金を返済する金を必要としていたリチャードは、金銭による示談を受け入れるよう、様々な嫌がらせをもってアンに圧力をかけた。
また、妻への愛情がないことを隠しもせず、アンをひとりノールに残して、リチャードはロンドンや海外を遊び歩いた。広いノールに取り残され鬱屈した日々を過ごすアンは、「悲しみであふれた重い心を抱いて過ごしている」、「(ノールの)大理石の柱は牢獄のようだ」などと、寂しく日記を書き綴っていたという。
結局、1617年にジェームズ1世の介入で遺産問題は和解となり、リチャードは2万ポンドもの和解金を受け取ったが、アンの心には苦い思いだけが残ったことだろう。1624年に、リチャードがイモの食べ過ぎで亡くなった時、アンが悲しんだとは思えない。アンはせいせいした気持ちでノールを去ったと考えるのが妥当だろう。住む人の心をしばしば虜にして離さないノールながら、このアンに対しては、例外的に魔性の力は働かなかったと言えるのかもしれない。
その後、アンは再婚したものの、ノールでの結婚生活が影を落としたのか、次の夫ともうまくいかなかったという。
| 第二のノールを目指して作られた名園 シシングハースト |
■ ケントにあるシシングハースト・キャッスル・ガーデンは、ヴィータ・サックヴィル=ウェストが、実家のノールをイメージして夫のハロルド・ニコルソンと共に創りあげた名園。 ■ サックヴィル家の一人娘であったにもかかわらず、男でないという理由だけで、生まれ育ったノールを叔父に渡さねばならなかった悔しさは生涯に渡ってヴィータに付きまとった。ヴィータは、ある晩、ノールに忍び込んで、一晩中庭をさまよったことがあると告白しており、この夜のことを「責め苦といえる経験」と呼んでいる。 ■ シシングハーストは、その広さではノールには太刀打ちできないものの、ハーストがサクソン語で「囲まれた森」を意味するだけあって、森に囲まれた立地にある。敷地内には小さな建物がいくつか点在しているが、庭が、それらの建物同士をつなぐ小部屋や回廊に見えるようにデザインされており、シシングハーストを、庭も含めた全体でひとつの邸宅と見立てた構成となる工夫がほどこされている。 ■ 庭造りにあたっては、ヴィータ=写真右=が自由奔放な詩人の感覚で、まるで部屋を花で飾るように花壇へ色とりどりの植物をあふれるように植えて、ロマンチックで自然な風合いを醸しだしたのに対し、夫で元外交官のハロルド=同左=は直線を生かした幾何学的な設計によって英国庭園の伝統的な優雅さや厳格さを保った。
■ 実は、ヴィータとハロルド夫妻は、オープンな婚姻関係を持つという同意を交わした特殊な夫婦関係にあり、それぞれに同性愛の恋人も作っていた。しかし、それは仮面夫婦という意味ではなく、それどころかお互いに非常に強い友情と信頼で結ばれていたのだという。シシングハーストの庭造りにおいて全く異なる個性を持つ二人のコラボレーションが成功したのも、お互いを認め合って尊重する、強い絆があったからこそといえるだろう。※詳しくは本誌2013年6月20日発行号、および「オンライン・ジャーニー」ご参照のこと。
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シシングハースト内にある『ホワイト・ガーデン』


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