ヘンリー8世がねだった館

 本邸正面にあるグリーン・コートと次のストーン・コートの2つの中庭の間にある時計塔のような門はブーシェの時代に作られたもので「ブーシェ・タワー」と呼ばれている。どっしりとした城壁風の石壁は外敵から身を守る必要があった中世建築の名残だが、大きめに作られた、小礼拝堂の出窓などの細部を見れば、実のところは外敵からの防御は考慮されておらず、住み心地や見栄えを重視したデザインになっていることがわかる。ブーシェの後も代々4人の大司教がノールを受け継ぎ、それぞれが手を加えていった。これで豪奢にならないほうが不思議というものだ。
やがて、1538年、当時の大司教だったトーマス・クランマーがヘンリー8世にノールを『自主的に』提供し、王室所有となる。
譲ってほしいとヘンリーにねだられて断れなかったというのが真相と見られるが、絶対王政をとったヘンリー8世は、権力乱用ともいえる強引さで、亡くなるまでに60を数える王室用住居を手に入れていたという。この点を考えると、ヘンリー8世がノールで実際に過ごした時間はそれほどなかったと思われるものの、まとまった金額を改築に費やし、王にふさわしい城としての風情をノールに加えた。現在の左右非対称な作りの正面入り口や、そこから続くグリーン・コートを囲む建物はヘンリー8世の時代のものと伝えられている。



トーマス・ブーシェ(Thomas Bourchier、1404~86)の時代に建てられた
オリジナル部分とされる、ブーシェ・タワー。

 

がめつい名門貴族との出合い

 エリザベス1世の時代になってノールは、英王室の開祖・ウィリアム征服王と共にイングランドへ移住してきたという由緒ある名門、サックヴィル一族へと受け継がれることになる。
その経緯については、表向きには「エリザベス1世が、大切な臣下だったトーマス・サックヴィルを自分の傍にひきとどめるためにノールを与えた」とされているが、実際はもっと現実的な話だった。
トーマス・サックヴィルはエリザベス1世のはとこにあたり、後に初代ドーセット伯爵の称号を授かるほどの重臣であった。
トーマスは、エリザベス1世からジェームズ1世まで2代続けて王室の財政管理を任されていて、不要になった王室の不動産を売却処理する役割も担当していた。王室に仕える者が立場を利用して個人的な利益を得ることは4百年以上も昔ですらご法度だったはずだが、トーマスは抜け道を考え出した。
ノールをいったん第三者に売ってから、数日後にその10倍の価格で買い戻したのだ。これでトーマスは世間から疑惑の目を向けられることなくノールを手に入れることができ、協力した第三者も利益を得られるという狡猾な策だった。1605年のことである。ちなみに弁護士だったトーマスの父も職業上の利権を使って大もうけし、世間から『がめつさ』にちなんだあだ名をつけられていたというから、息子のトーマスもそうした才能に長けていたのだろう。そして、以後400年以上に渡って、ノールにはサックヴィルの直系一族が住むことになる。しかし、家と呼ぶにはあまりにも豪奢な邸宅を棲家としたばかりに、サックヴィル家の後裔たちは、その『代償』を支払わされることになる。

 

ノールを舞台にした伝記風小説
『オーランドー』

小説『オーランドー』(1928年)は、英国の20世紀モダニズムを代表する女性作家・ヴァージニア・ウルフ(1882~1941)=写真右=の作品で、若くて美しい青年貴族、オーランドーが、エリザベス1世の時代から3世紀にも渡って、年を取らないまま生き続け、しかも途中から突然、女性に変身してしまうという奇妙な物語だ。

非現実的な展開が伝記風に語られているのだが、一方では、主人公が詩人であったり、緑に囲まれた大邸宅に住んでいたり、女性になったために邸宅の相続権を失い、家から追い出されてしまったりと、サックヴィル家出身の女流詩人、ヴィータ・サックヴィル=ウェストを連想させる要素を数多く含んでいる。

ウルフは、1905年から第二次世界大戦頃まで英国で活動していた芸術家及び学者の集団、ブルームズベリー・グループを通して、1922年に、詩人だったヴィータと知り合った。ブルームズベリー・グループは性に関して進歩的な考えを奨励しており、ウルフとヴィータも、お互いに夫がいたものの、性的関係を含む恋愛関係にあったとされる。恋愛関係を解消した後も、1941年にウルフが、自宅近くの川で自ら命を絶つまで二人の友情は続いた。

『オーランドー』の結末は、ヴィータが直面した現実とは異なり、主人公は過去に失った邸宅を裁判で取り戻して、愛する家に戻る。これは、男でなかったばかりに貴族社会の決め事に阻まれ、愛するノールを受け継ぐ権利を奪われたヴィータにウルフが同情し、せめて小説の中だけでもヴィータの夢をかなえ、慰めようとして書かれた結末とみられている。

『オーランドー』は1992年に女性監督のサリー・ポッターによって映画化されており、ティルダ・スウィントンが男装の麗人を演じている=写真左。