天も味方したノルマン軍

 まもなく夏がきた。
ノルマンディで出航の準備が整ったとの報を受けたハロルドは、ギョームの上陸ルートを想定し、イングランド軍を海岸線沿いに展開させた。
しかし、ノルマン軍の船影は一向に見えない。約1ヵ月、待ちぼうけをくらったハロルドのもとに、ヴァイキングの大軍がヨークに迫りつつあるというニュースが届けられた。やはりイングランド王位を狙う、ノルウェー王ハーラル3世が北から攻め込もうと乗り込んできたのだった。
イングランド軍を引き連れ、急きょ北上したハロルド2世は、9月25日、ヨーク近郊のスタンフォード・ブリッジでノルウェー軍と対決。激戦の末、ノルウェー軍を撃破するに至った。
その2日後、ギョームはようやく重い腰をあげる。いや、ギョームは好きこのんで、ノルマンディで待機していたのではなかった。
風が吹かなかったのだ。
2千の騎兵、歩兵を含む5千の人員、2千頭の軍馬を700隻の船でイングランドまで運ぼうとしたものの、動力の風がなくてはお話にならない。ギョームは辛抱強く待った。
その甲斐あってか、9月27日、風向きが変わった。夜の闇にまぎれて出航し、翌日朝にノルマン軍はヘイスティングズ近郊のペヴェンシーの海岸に到達。上陸とともに大規模な戦闘になると覚悟していたギョームは、肩透かしをくらう。ハロルド2世軍が、はるか北のヨーク近郊まで出払ってしまっているとは、ギョームにとって信じられないほどのうれしい誤算だった。ギョームはこの幸運を最大限にいかすため、躊躇することなく、全軍をロンドンに向けて出発させた。
ギョーム上陸の報に驚いたハロルドは、いまだ疲労困ぱい状態の自軍をむちうち、400キロの強行軍を開始する。一刻も早く南下せねばならない―1日40キロという過酷な前進だった。
やがて、イングランド軍とノルマン軍は、ヘイスティングズの北、約11キロにある、なだらかな丘陵地にそれぞれの布陣を敷いた。後に「バトル」と名づけられるその地を覆う夏草は、ところどころ褐色となり、秋の深まりを感じさせるようになっていた。時に1066年10月14日。迎え撃つハロルド2世45歳、攻め込むギョーム38歳(ともに推定)。まさに天下分け目の戦いが始まったのである。
戦いの詳細については13ページをご覧いただくことにし、ここでは割愛するが、ハロルドが敗れ、ギョームが勝利を収めたことはご承知のとおりだ。1066年12月25日、ウェストミンスター寺院=下コラム内の左側の写真=でウィリアム1世としてイングランド王に即位したギョームは、イングランド内の抵抗勢力と戦うかたわら、城や要塞を各地に次々と建造。1070年代前半には、イングランドをほぼ平定したのだった。

 



ノルマン軍の勝利に大きく貢献した騎兵。機動力の勝負だったと言えそうだ。

 

 1086年には、全国規模の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」を完成させるなど、ウィリアム1世が英国史に残した足跡は、実に大きい。最期は、長男ロベールを相手に戦う羽目になり、戦場で負った傷がもとで5週間苦しんだ末に息を引き取るという、幸せなものではなかったものの、ウィリアム1世の約60年にわたる生涯の充実度は、英国の歴代君主の中でも群を抜いていると言っても過言ではないだろう。
今年も、バトルでヘイスティングズの戦いを再現する行事が予定されている。「兵どもが夢の跡」を、その目で確かめるために出かけてはいかがだろう。バトルを吹き抜ける秋の風は、950年前と変わらぬ調子で、枯れかけた夏草の上を渡っていくに違いない。

 



バトル・アビーの敷地内にあるハロルド王の記念碑。花が供えられていた。

 

悔しくなかった?ノルマン人による「征服」

 歴史の授業で、ヘイスティングズの戦いにより「ノルマン人の『征服』が成った」と習ったのを覚えておられる読者も少なくないはずだ。英語でも「Norman Conquest」という。しかし、英国人は、この「Conquest」を屈辱的な出来事ととらえているように思えない。なぜか??
推測をまじえた説ではあるが、次のような点が理由として挙げられるのではないだろうか。

1もともと、ノルマンディ公爵家とイングランド王家は複雑に関係しあう親類同士。「よそ者」に制圧されたという意識は低かったのでは?
さらに、ノルマン人(ウィリアム1世側)も、アングロ・サクソン人(ハロルド2世側)も、どちらもゲルマン系。金髪碧眼、白い肌、長身といった身体的特徴も似通っていた。ヘイスティングズの戦いの後、混血が異常な速さで進み、100年後には誰がアングロ・サクソン人の子孫で、誰がノルマン人の子孫かわからなくなっていたといい、少なくとも「見た目」に関しては、征服者、被征服者という境目が当初からあいまいだったと考えられる。

2双方ともにカトリック。また、合理性重視で、相手の社会制度、統治上の優れた仕組みなどは進んで取り入れる柔軟性もあわせもつといった具合に、考え方、生活様式に共通点が多かったのでは?
「同化」が進む際に生じがちな障害が、きわめて少なかったといって良いと思われる。

 

少人数のノルマン人貴族によるイングンランド統治を可能にするため、ウィリアム1世は、イングンランド各地に要塞や城を建造しまくった。ロンドン塔=写真右、ウィンザー城などはその一例。また、信心深く、カンタベリー大聖堂、ダーラム大聖堂など、教会関係の大規模建築物も多数建てた。
 

 


英国史上初の土地台帳、
「ドゥームズデイ・ブック(Doomesday Book)」。
1085年から調査が始められ、翌年に完成した。

フランスのカン(Caen)の男子修道院内にある、
ウィリアム1世の墓。