ひきょう者のぬけがけ
ヘイスティングズの戦いで主役の片側を演じたノルマンディ公ギョームは、1027年(1028年とする説もあり)、ノルマンディ公ロベール1世の長男として誕生した。母親は、皮なめし職人の娘アーレット。ノルマンディの小さな村、ファレーズ(Falaise)で、たまたま通りがかったロベールが、洗濯をしていたアーレットに一目ぼれしたというのが通説だ。しかし、身分が違い過ぎるため、ロベール1世とアーレットは正式に結婚できず、ギョームは後に、政敵から「William the Bustard(私生児ウィリアム)」とあざけりを受けることになる。
また、ギョームがフランダース伯の娘、マチルダに求婚した際にも、マチルダから「私生児と結婚するくらいなら尼になる!」といったん断られたと伝えられている。だが、これしきのことで引き下がるギョームではなかった。8歳の時に父ロベールを亡くした後、暗殺の危機にさらされる中で成人し、ノルマンディ公の領地をねらう、いとこのバーガンディ公など近隣諸侯とわたりあうという厳しい環境に置かれ、精神的にも肉体的にも鍛えられていたからだ。
マチルダとは結婚にこぎつけ、少なくとも4人の息子と5人の娘に恵まれた。

ウィリアム1世の生まれ故郷に建つファレーズ城
1051年、ギョームはイングランドを訪問。ここで、男子の嫡子を持たなかったエドワード懺悔王から、次期イングランド王の地位を約束されたと言われている。
1063年には、懺悔王の義理の弟であるハロルドがノルマンディを訪れる。ハロルドは、ギョームを次期イングランド王として認めるという誓いを神の名にかけて行うとともに、ギョームの幼い娘と婚約するなど、ギョームに従う姿勢を全面に押し出した。
ところが、このハロルドがくせものだった。1066年1月、懺悔王が逝去するやハロルド2世として即座に戴冠し、イングランド王の座についてしまう。激怒したギョームは強く抗議するが、ハロルド2世は聞く耳をもたなかった。
ギョームはイングランドへの出兵を決意した。船の建造を急ピッチで進めさせるかたわら、ハロルド2世は神聖なる誓いを破ったとして、教皇に訴え、ハロルド征伐は「聖戦」であるというお墨付きを得ることに成功する。これにより、教皇の旗を掲げることが許されたギョームは、戦略家として、すでにハロルドより何枚も上手であることを証明して見せていたのである。

ノルマンディの町、バイユーには、ヘイスティングズの戦いとそれまでの経緯を刺繍でつづった、
長さ約70メートルのタペストリーが保存されている。上の図は、ハロルド2世の戴冠式の模様。
© Musee de la Tapisserie, Bayeux

海を渡るノルマン軍(バイユー・タペストリーより)。
© Musee de la Tapisserie, Bayeux


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