2012年9月20日

●取材・執筆・写真/本誌編集部

英国版『関ヶ原の戦い』
戦場となったバトルを征く



 
 

1066年。 
長い英国史の中でも後世に与えた影響の規模では超ド級の大事件が起こった。
ヘイスティングズの戦いである。
その勝利により即位したウィリアム1世は現在の英王室の「祖」とされる。
今号では、この戦いの舞台となったバトルについてお届けすることにしたい。

 

骨肉の王位争い

 今年6月。在位60年を迎えたエリザベス女王のために、「ダイヤモンド・ジュビリー」と銘打って様々な祝賀記念行事が華やかに繰り広げられた。大成功のうちに幕を閉じたロンドン五輪とパラリンピックのおかげで、既に昔のことのように思えてしまうものの、英王室がその存在感を内外に力強く示す絶好の機会となった。
このエリザベス2世だが、家系図をさかのぼっていくと、ひとりの王にたどりつく。
名をウィリアム1世という。
もとの名はノルマンディ公ギョーム(Guillame)。グレート・ブリテン島と英仏海峡をはさんで真向かいにあるフランス、ノルマンディ地方の有力貴族である公爵家の当主だった。



フランスのノルマンディ地方の町、ファレーズにあるウィリアム1世像。

 さてここで、「フランス」と書いたが、少し説明を加えておきたい。
「フランス」という国名が、ゲルマン民族系「フランク人」の国を意味する「フランク王国」を起源とするのをご存知の方も多いことだろう。987年にカペー朝が成立して初めて「フランス王国」と呼ばれるようになったとされるので、1066年当時、国ができてまだ100年も経っていなかったことになる。ちなみに前身の「フランク王国」については、最盛期にはフランスのみならず、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア北部、ドイツ西部などを支配下に置き、ヨーロッパの有力国家として名を馳せた。
一方、同じくゲルマン民族系アングロ・サクソン人の国で、「アングル人の地」=「イングランド」と呼ばれた地域も、まだ国になってから日が浅く、現在のイングランドとほぼ同じ大きさになったのはエドガー平和王(Edgar the Peaceful 在位942年頃~975年)の時代と言われている。ヘイスティングズの戦いの前夜、イングランド王だった、エドワード懺悔王(Edward the Confessor 在位1042年~66年)は、このエドガー平和王の孫である。
信仰心が篤かったことから「懺悔王」の異名をとったエドワードは、ノルウェー王とデンマーク王を兼ねていたクヌートの妻、エマを母に持つ。エマはノルマンディ公爵家出身、ギョームの祖父の妹にあたる女性だった。
このエドワード懺悔王に子供がなかったことが、ヘイスティングズの戦いを招くことになるのだが、ノルマンディ公爵家、デンマーク王家、そしてイングランド王家の家系図が複雑に入り乱れているのは下の図でお分かりいただけることだろう。
エドワード懺悔王の義理の弟、ハロルドと、同王の母方の親類であるギョーム(後のウィリアム1世)が、イングランド王の座をめぐり激突する。英国版『関ヶ原の戦い』とも位置づけられる戦いが勃発するのは、エドワード懺悔王の死から約9ヵ月後のことである。



1066年当時のイングランド、ノルマンディの周辺図。
青い航路は、ウィリアム1世の遠征路を示す。