■ 新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代、ヨークシャーの港町でロンドンへ向かう大型船を眺めては、彼方への憧れを膨らませていた少年ジェームズ・クック。「遠くへ行ってみたい」という強い想いは彼を航海士にし、やがて名船長「キャプテン・クック」としてその名を広く知られるまでに成長した。ハワイを発見するなど世界地図を塗り替える偉業を成し遂げながらも、異国の地で悲劇的な最期を迎えた「海の男」の生涯を前・後編で紹介する。

●Great Britons●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

「海に出たい!」

キャプテン・クックことジェームズ・クックは、1728年10月27日、ヨークシャー北部の小さな村マートンで生まれた。当時の英国はイングランドとスコットランドが連合したばかりで、「グレート・ブリテン王国」が誕生してから20年。次第に「英国」としての国力を高めつつある、上昇の機運に富んだ時期にあった。この時代に多くの優秀なスコットランド人がイングランドへ移住したが、クックの父親もまたスコットランドの辺境出身で、よりよい暮らしを求めてイングランドにやってきた一人だった。

クックの父はマートンで「ハンサムで性格のよい働き者の小作人」として知られ、妻との間に5人の子どもをもうけた。次男のクックは、8歳から兄とともに農場仕事を手伝いはじめ、勤勉な親子の姿は村でも有名であった。

利発で明朗闊達なクック少年に感心した領主の申し出により、彼はなんと農場で働きながら初等教育を修めるチャンスを得る。そして17歳になると、両親の勧めで町へ奉公に出ることになった。単なる「勤勉な肉体労働者」以上の人間になるように、というのが両親の願いであった。奉公先は、ヨークシャー北部の漁村ステイテスにある雑貨店。ここで商売に関してのノウハウを学ぶというのが、クックの父と店主との間で交わされた「約束」だった。

幼い頃から農場で働いていたクックは、17歳にしては非常に背が高く、父親譲りの彫りの深い顔立ちをした逞しい青年に成長していた。当時を知る人々によれば、クックの生涯を通して変わらなかった「自分を信じ、断固とした決断をする」という独立独歩の姿勢は、この頃すでに現れていたという。そんな彼にとって、雑貨店での丁稚奉公は何とも単調な日々で、退屈だったようだ。よく働くので雇い主にも顧客にも好かれたが、物足りない気持ちを抑えることは出来なかった。

クックは暇さえあれば港に向かい、漁船やロンドンへ石炭を運ぶ商業船などを眺めた。そして仕事帰りにパブへ行き、そこで漁師たちが交わす様々な話に耳を傾けるうちに、次第に彼は海や見知らぬ土地に対する強い憧れを募らせていった。

ある日、クックは雑貨店で客の支払った代金の中に、「サウス・シー・シリング」と呼ばれる国王ジョージ1世の1シリング硬貨を見つける。これは新大陸のスペイン領との貿易を目的に設立された、英国の南海会社(サウス・シー・カンパニー)の記念硬貨で、表面に「SSC」と記された珍しいものであった。光り輝くその硬貨に魅せられたクックは、こっそりレジからサウス・シー・シリングを抜き取ると、代わりに自分のポケットから普通の1シリング硬貨を入れた。いわゆる「交換」である。

ところが後日、これが大問題となる。店主に呼ばれ、泥棒の疑いを掛けられてしまったのだ。慌ててことの経緯を説明したおかげで疑いは晴れたものの、クックはこれを機に「店を辞めよう」と決意。雑貨店に奉公に来てから、わずか1年半のことだった。
「それで、これからどうするつもりだね?」と店主に聞かれたクックは、迷わず答えた。
「海に出たいのです」
すると、親切な雑貨店の店主は、早速彼を近隣の港町ウィトビーの船主、ウォーカー家の主人を紹介してくれたのである。

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「世界を見たい!」

港町ウィトビーにある、クックが生活していたウォーカー家の住宅は「キャプテン・クック博物館(Captain Cook Museum)」として一般公開されている。
Grape Lane, Whitby YO22 4BA

ウォーカー家はウィトビーの有力な船主というだけでなく、商家でもあった。クックはウォーカー宅で寝起きしながら、測量法や天文学、数学や航海術といった船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通った。ウォーカー家の年老いた女中は勉強熱心なクックをかわいがり、彼が夜遅くまで勉強に没頭できるよう、椅子と机、キャンドルなどを率先して用意したという。

1747年、クックは「キャット」(cat)と呼ばれる小型船の見習いとして、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験。ロンドンへ石炭を運ぶこの船には、10人の見習いが乗船していた。さらに翌年は、大型の石炭貿易船である「スリー・ブラザーズ号」で1年半ほど航海。ミドルズバラ、ダブリン、リヴァプール、そしてフランダース(現在のベルギー)などを訪れ、この体験は最初の本格的な航海として、クックに深い印象を残すことになる。

1750年、3年間の見習い期間を終了した彼は、晴れて「水兵」(seaman)と認められ、2本のマストを持ち、バルト海を中心に活動する貿易船「フレンドシップ号」で働きはじめる。1752年には「航海士」(mate)となるための昇進テストを受けて、優秀な成績で合格。「フレンドシップ号」の航海士として3年を過ごした。

さて、27歳を迎えたクックは、そろそろ自分がベテランの域に達しつつあると感じていた。仕事の合間に読むオランダ人やポルトガル人の書いた海洋旅行記などから、まだ見ぬ東洋や米国への憧れも芽生えていたが、彼は地中海にすら行ったことがないのだ。そんな時期に、雇い主のウォーカーが、クックに「フレンドシップ号を与えよう」と持ちかけてきた。これは航海士にとっては独立のチャンスであり、大きな幸運であった。

しかし、クックはその申し出を平然と断り、「海軍に入隊して、世界を見たいと思います」と返答。もし海軍に入れば、船長どころか、せっかく獲得した航海士のランクですらない、水兵からのやり直しになるのにもかかわらず、だ。クックにとって、フレンドシップ号が英国とバルト海との往復船である限り、その立場が船長だろうと航海士だろうと、大きな違いはなかったのだろう。

ウォーカーは驚きあきれつつも、入隊のための紹介状を書いてやった。幸いなことに、当時の英海軍は7年戦争に備えて軍備を強化中であり、大々的に志願兵を募集していた。クックは両親のもとを訪れて暇乞いをすると、ロンドンのワッピングを目指す。そこには英海軍の「HMSイーグル号」が停泊していた。1755年6月17日、クックは「熟練水兵」(able seaman)として海軍に入隊。さらなる夢への第一歩を踏み出した。


海軍での活躍と大昇進

イーグル号の艦長ジョセフ・ハマーは、憂鬱な気分だった。前回の対フランス戦で多くの乗組員を失ったばかりであったが、満足に人員を集められないまま、再び出動命令を受けていたのだ。「人数不足なだけではない。ブリストルから来た25人は水兵ですらない。こんな状態で出航する船は他にないだろう」と嘆く手紙が残っている。そんな中で、経験も情熱も備えたクックは、どんなに光って見えたことだろうか。彼は乗船後1ヵ月もしないうちに、一等航海士(master mate)の地位に就いている。

イーグル号の任務は英仏海峡周辺の警備だったが、クックは2度の大きな対仏戦に遭遇している。とくに2度目の戦いでは多くの仲間を失い、「マストはボロボロ」という厳しい状態だったが、フランス船を拿捕し、彼が所属するチームは御賞金を受け取るほどの活躍をみせた。この戦いはクックにとっては昇進のためのテストでもあったのだが、彼の勇気と能力が十分に発揮され、最高レベルの成績で士官待遇の航海長(master)へと昇進。1759年には29歳で大型船「HMSペンブローク号」を任されるに至っている。

ちなみに、航海長とは「複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職」であった。正規の指揮権は有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかった。

クックは海軍入隊から4年後の1759年、29歳で大型船「HMSペンブローク号」の航海長に就任。異例の大出世だった。

ペンブローク号はクックがウィトビーで見習いだった頃、まさに夢見ていたような大型船でもあった。クックはこの船で念願だった大西洋横断を果たし、カナダへと向かうことになる。

この航海の間、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランドから本格的な測量を学ぶチャンスを得る。もともと数学を得意としたクックは、すっかり測量の魅力にはまってしまい、ホランドの助手として測量に同行するほか、艦長の許しを得て自分だけでカナダ・ケベックのセントローレンス川の河口、ガスペ湾の綿密な測量も行い、優れた海図を制作した。戦時中の敵地での測量である。昼間ではなく夜半にフランス軍の警備の目をぬって行う、命がけの仕事であった。

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カナダ支配に貢献

クックが作成したニューファンドランド島の地図。現代の測量技術によって描かれたものとほぼ同じで、かなり精度が高い。

一方この頃、時の英首相ウィリアム・ピットはフランスが北部新大陸(現カナダ)をあきらめるよう、様々な形で重圧をかけていた。1759年、ケベックをめぐる戦いに著名な英将軍ジェームズ・ウルフが参加。クックの作成した先の海図を利用したウルフは、川対岸の岬に築いた砲台から徹底的なケベック市街砲撃を行い、フランス軍を驚愕させた。クックの作成した綿密な海図が、ウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦を成功に導いたのだった。ケベックでの勝利は翌年、英軍のモントリオール上陸をもたらし、北米におけるフランスの支配は実質的に終わりを告げる。その点から見ても、この勝利は英軍にとっての歴史的な出来事であった。

今回の測量による貢献で、クックは一躍、英海軍本部と王立協会から注目を受けることとなる。

引き続き1762年まで北米で任務を続け、英国帰還の機会が訪れた時、クックは33歳になっていた。英国へ戻った彼は、まず結婚相手を探しはじめる。有能な航海長だけに、相手探しには困らなかったものの、ピンとくる女性がなかなか見つからなかった。しかし、ポーツマス港からロンドンに到着した折、水兵の町として知られるシャドウェルで、当時20歳のエリザベス・バッツと出会う。1年のほとんどを海上で暮らすクックに、どれ程ロマンティックな恋愛の観念があったのかは分からないが、2人は出会いから約1ヵ月という驚異のスピードで結婚。東ロンドンのマイル・エンドで新婚生活をスタートさせた。

非業の死を遂げる4年前のクック(47歳)と、88歳を迎えた頃の妻エリザベス。クック亡き後、エリザベスは50年以上も再婚せずに過ごした。

ところが、その3ヵ月後には早くもクックに測量士としての出発命令が下る。彼はそれからの5年をカナダ東部の島、ニューファンドランド島海域の測量に費やしたのだった。

クックのこの測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。彼は従来の船乗りとは異なり、最新の科学的測量を実行したと言われている。従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み、目測していただけだったのが、クックは四分儀と経緯儀、測鎖を使って、三角測量と天体観測を行ったのである。船で移動しながらボートで上陸するのを繰り返し、船を頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量するという、根気のいる仕事を繰り返した。その結果、クックの作成した海図は、現代のこの地域の海図と比べても、ほとんど遜色のない見事な出来だという。こうした科学的業績が評価され、彼は後に王立協会の会員にも選ばれている。

ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、クックは「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」と記した。そして、その願いに応えるかのように、早速翌年に次の大きな冒険が待ち受けていたのである。

後編へ続く

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クックの海上健康管理法

長期の船旅では、新鮮な野菜や果物が不足することから、船員の間で壊血病(かいけつびょう)が蔓延した。これは皮膚や歯肉からの出血、骨折や骨の変形などにはじまって、やがて肺に水が溜まり、最後は高熱を伴い死に至る病であった。16~18世紀の大航海時代は、この病気の発症原因が分からなかったため、船員たちは海賊よりも壊血病をひどく恐れていた。

当時の壊血病予防法は、ガーリックやマスタード、トナカイの血や生魚の摂取など、まるで呪術のようなものだった。そうした中で、英海軍の傷病委員会は「食事環境が比較的良好な高級船員は発症率が低い」ことに着目。新鮮な野菜や果物を摂ることによって、この病気の予防が出来るのでは、と考えた。航海中は出来るだけ新鮮な柑橘類を食べるよう指令を受けたクックが、それを徹底させると、その効果は覿面。第1回の南洋航海では、壊血病による死者はゼロだった。

航海中は新鮮な柑橘類の入手が困難なことから、麦汁やポータブルのスープ、濃縮オレンジジュース、ザワークラウト(酢漬けのキャベツ)などを船に積んで出港したが、当時の船員たちは真偽の怪しい新習慣に頑強に抵抗し、とくにザワークラウトは不人気であった。だが、クックは率先してザワークラウトを食べてみせ、また食事を残す者に対して厳しい処罰を与えるなどして、新たな食習慣を守らせたという。

しかしながら、長期航海における壊血病の根絶はなかなか進まず、柑橘類(ビタミンC)と壊血病の関連性がはっきり明らかになったのは、1932年のことであった。


週刊ジャーニー No.1402(2025年7月17日)掲載

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