神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

万物は神の手によって創られた――。

聖書が語るアダムとイブの誕生の伝承が当然のように信じられていた19世紀に、「人間はかつて猿であった」と常識を根底からくつがえす「進化論」を提唱したダーウィン。彼が世界へ与えた衝撃は計り知れないものだった…。今回は、この勇気ある偉大な自然科学者について、前・後編に分けてお届けする。

動物や自然にしか 興味を持てない劣等生

少年時代のダーウィン。

チャールズ・ダーウィンは1809年、イングランド西部シュロップシャーの街シュルーズベリーで、6人兄弟の5番目として誕生した。父は裕福な医師で事業家、母はイングランド最大の陶芸メーカー「ウェッジウッド社」の創始者ジョサイア・ウェッジウッドの孫娘、そして父方の祖父は高名な博物学者という非常に恵まれた一家の御曹司であった。

ところが、エリートの家系に生まれたにもかかわらず、ダーウィンは決して出来のよい優等生タイプではなかった。学校での勉強にはまったく興味を持てず、暇を見つけては寄宿学校を抜け出し、実家に戻って飼い犬と戯れたり、野山を駆けまわって昆虫採集や珍しい植物を探したり、そうして手に入れた「獲物」の標本作りに没頭したりした。

息子に医業を継がせたかった父親は業を煮やして、エディンバラ大学の医学部へダーウィンを無理やり放り込むが、なんと当時行われていた麻酔なしの手術や血を見ることに耐えられず、勝手に大学を中退。フラフラと実家に戻ってきた息子に怒り心頭の父が放った言葉は「医学がだめなら神学を修めて聖職者になれ」であった。

ダーウィンの恩師、植物学者のジョン・ヘンズロー教授。

そこでダーウィンは、ふと考えた。

「田舎で聖職者として生活しながら、余暇を動植物や昆虫など博物学の研究にあてればいいのでは?」

ものすごくよいアイディアに感じた彼は、「快く」ケンブリッジ大学神学部へ入学。そして、ここで彼の人生を大きく変えることになる植物学者、ジョン・ヘンズロー教授と出会うことになる。自然科学のあらゆる知識に通じていたヘンズロー教授に心酔したダーウィンは、標本集めの助手を自ら買って出るなど彼のそばに常にはりつき、大学内では「ヘンズローと歩く男」と呼ばれる程だった。

艦長とのおしゃべり要員?

大学を卒業した1831年の夏のこと。ダーウィンのもとに、ヘンズロー教授から一通の手紙が届く。そこには、英海軍の測量船ビーグル号の艦長が博物学者を探しており、ダーウィンを助手として推薦したいと記されていた。未知の世界への切符を手にしたダーウィンは自身の幸運に感謝したが、実はこの話には「裏」があった。

ビーグル号の艦長、ロバート・フィッツロイは公爵家の血筋を引く名家の出身だった。当時の海軍における規則のひとつに、「艦長は航海中に指揮下にある船員と個人的な接触をしてはならない」という禁止事項があった。業務以外の話を船員と一切してはならず、食事ももちろん一人でとらねばならない。場合によっては数年間にも及ぶ長期航海において、精神的苦痛がどれほどのものになるのか想像がつかなかった。実際にビーグル号の先代艦長は航海中に精神に異常をきたし、ピストル自殺を図っている。その後任となったフィッツロイは、正規の船員ではない人物で、かつ「自分の階級にふさわしい」話し相手を必要としていたのだ。

ビーグル号に与えられた任務は、南米大陸沿岸の測量調査。しかしながら、フィッツロイは博物学の専門家に現地で調査を行わせ、その分野でも功績をあげようと野心を燃やしていた。医者が博物学者を兼ねることが多かったため、船医のロバート・マコーミックに標本採集などの作業を指示。その助手という名目で自身の話し相手を探していたところ、ヘンズロー教授がダーウィンを推薦してきた――というのが、実際の採用理由であった。

脱落する者、昇格する者

ビーグル号の艦長ロバート・フィッツロイ(左)と、航海を終えて博物学者の道を進み始めたダーウィン(右)。

暮れも押し迫った1831年12月、ビーグル号はプリマスを出航。途中、伝染病の危険を避けるため、ダーウィンが憧れていた夢の地、カナリア諸島テネリフェ島への上陸は断念しなければならなかったものの、約2ヵ月後、一行は無事に南米大陸の東沿岸部、ブラジルのバイアに到着した。ここをスタート地点にして、ビーグル号は本格的な海岸線の測量を開始する。

ダーウィンは私費を投じて船員から希望者を募り、独自の探検隊を結成。彼らとともに内陸調査へと向かい、新種の鳥類や昆虫、化石を次々に採集して成果をあげた。裕福な御曹司だからこそできる「技」である。

一方、ビーグル号の公式の博物学者であったマコーミックはというと、船での医療職務が多忙を極めたというのも理由のひとつだったが、経済的に恵まれていたダーウィンとは異なり、フィッツロイの期待する博物学者としての働きの面ではかなり分が悪かった。しかも、代々船医の家系ではあるものの市民階級出身の彼は、フィッツロイやダーウィンとまったく馬が合わない。結局、一行がリオデジャネイロに到着した際、マコーミックは下船してしまう。こうして助手という名の「客人」として航海に参加したダーウィンは、非公式ながらマコーミックのポジションを任されることになり、さらに精力的に調査に乗り出していった。

当時の西欧人にとって「野蛮な未開地」であった南米も、ダーウィンにとってはまさに宝の山。寄港する先々でその記録を詳細につづり、山のように集めた標本を英国のヘンズロー教授へせっせと送った。なかでもアルゼンチンで発掘した「メガテリウム」と名付けられた古代の巨大なナマケモノの化石は、ロンドンの知識人らを大いに驚嘆させている。

南米フエゴ諸島に到着したビーグル号。

ガラパゴスで感じた違和感

南米での調査は4年近くにも及んだ。そしていよいよ、後に英国の自然科学界を激震させることになる新説のヒントをダーウィンに与えた、ガラパゴス諸島へとビーグル号は向かう。

同諸島に到着したのは、1835年9月のこと。ここには珍しいイグアナやゾウガメ、様々な鳥類が数多く生息しており、ダーウィンは島を転々としながら夢中で標本採集に取り組んだ。そうする中で、彼はガラパゴスの生物がこれまで滞在していた南米のものに酷似している点に気がつく。

ここまでの航海でも、実は不思議に思っていたことがあった。訪れる土地ごとに目にする生物は異なっていたが、その差異は微妙といえるものも少なくなかった。「もしかして、ひとつの動植物が生きる環境にあわせて、それぞれ少しずつ形状を変えているのでは…?」。南米大陸から離れているにもかかわらず、ガラパゴス諸島の生物の多くがまるで南米起源としか思えないほどによく似ている。また、イグアナやゾウガメなどは、各島に変種がいることもわかった。

聖書で語られる創世記(天地創造)によると、神の手により天と地が誕生し、海が生まれ、太陽と月が輝き、様々な生命が創り出された。それ以来、大地も生物もすべて「不変のもの」であるはず――。でも何かがおかしい…。そのときはそれ以上深く考えることなく終わってしまったが、数年後にこの「疑問」が再び湧き上がってきたとき、ダーウィンはついに神に挑むことになる。

若き博物学者の誕生

ビーグル号の測量任務は、ほぼ当初の予定通りに終了し、一行はタヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカのケープタウンなどに寄港したのち、1836年10月、英国のファルマス港に帰着。出発から早5年、ダーウィンにとって出会うものすべてが新鮮で、新たな発見の日々だった。

長旅を終えたダーウィンは古巣のケンブリッジ大学を訪れ、調査活動をサポートしてくれたヘンズロー教授と喜びの再会を果たした。また、ここで自然科学の第一線で活躍する学者たちを紹介されている。彼が旅先から送り続けた膨大な標本群は、研究者たちの注目の的となっており、ダーウィンは博物学界のちょっとした有名人になっていたのだ。

その後、ロンドンでしばらく過ごすことにし、ビーグル号航海での活動をつづった本を出版。さらに、動物学および地質学の分野で様々な講演も行った。5年前、田舎でのんびりと博物学を研究したいという「打算」で聖職者になろうとしていたダーウィンは、旅を経て才気あふれる若き博物学者へと成長していた。

週刊ジャーニー No.1228(2022年2月24日)掲載