
この傑作を生みだしたジョン・ナッシュの像はリージェント・ストリートの北端、オール・ソウルズ教会に設えられている。
ロンドンにある目抜き通りのなかでも、独特の華麗な曲線美でひときわ目立つリージェント・ストリート。
リージェンツ・パークを北に頂き、南は、バッキンガム宮殿へと西に向かって走るザ・マルにぶつかると同時に、トラファルガー広場を経由してチャリング・クロスへと至る道につながる壮大な構想の中心として造られた通りだ。
このプロジェクトを実現させたのは、浪費癖で知られたジョージ4世と、その寵愛を受けた建築家ジョン・ナッシュというふたりの人物。
今回は、このジョン・ナッシュに焦点をあててみることにしたい。
●Great Britons●取材・執筆/本誌編集部
英国王室の「長寿」のヒミツ
ノルマンディー公ウィリアムが、「征服王」ことウィリアム1世として即位して以来、千年近く続く現英国王室は欧州内で屈指の「長寿ぶり」を誇る。同王室の歴史のうち、約800年は国王と議会(当初は諸侯たちの集まり)の『綱引き』の歴史といっていいだろう。諸侯とはこの場合、国王から土地、すなわち財産を与えられた地主貴族を指す。贅沢をしよう、あるいは他国と戦争をしようともくろむ国王に対抗し、それを抑えることに全力を尽くすのが諸侯たち、というのが一般的な図式だった。
諸侯が一致団結したことが議会政治の始まりと考えられ、英国では1215年、諸侯たちが国王を相手に、「マグナカルタ(大憲章)」に署名させたことが大きなはずみとなった。やがて議会発足へと発展し、1258年には、英国史上で初めて「パーラメント(Parliament=議会)」という言葉が用いられたという。
土地を与える立場にある国王(統治者)を相手に、土地を与えられた諸侯(被治者)が、自分たちの身と財産を守るため、国王に「法に従うよう」要求し、「失地王」ジョン(※)にそれを認めさせた「マグナカルタ」の成立は、王室サイドから見るときわめて屈辱的なことだったが、長い目で眺めてみると幸いなことだったといえるのではなかろうか。このおかげで英国王室は今日まで生き残ることができたといっても過言ではないからだ。
暴走を抑制された歴代英国王は、フランス革命を招いたブルボン王朝のように湯水のごとく国庫を浪費することを許されなかったがゆえに、根絶やしにされるほど憎まれることもなかったというわけだ。
※ジョン王…無能と称されることの多い同王(在位1199―1216年)は、北西部フランスにあったイングランド王室領を全て失ったことから、「失地王」ジョン(John the Lackland)と呼ばれる。大プロジェクト好きの反逆児

繰り返しになるが、英国王と議会は対立の関係にあることが多かった。
ヘンリー8世(在位1509~47年)のように絶対王権をほぼ確立し、専制政治を行った国王もいたものの、フランスのルイ14世などとくらべると、派手さでは見劣りする。ヘンリー8世の時代には、英国の財政がそこまで豊かではなく、建築技術もまだまだ発展途上だったためともいえるが、英国ではヴェルサイユ宮殿をしのぐ王宮はついに造られなかった。豪華絢爛たる王宮で贅沢三昧の生活を送ることを夢見た英国王は、おそらく何人もいたことだろうが、議会による反対の壁は常に厚かった。

ただ、いつの世にも「反逆児」はいる。英国でも、議会によるブレーキに対抗しつつ、壮大な都市計画と大型建築物の建造を次々に進めた国王がいた。
ジョージ4世である。

チャールズ1世の処刑により、いったん共和制になったものの、約10年後の1660年には王政復古が成った英国で、後期スチュワート朝の最後の統治者となったアン女王は、11歳で亡くなったひとり息子以外、子宝に恵まれなかった。同女王の逝去をうけ、ドイツ生まれのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝時代が幕をあける。1714年のことだ。
ジョージ1世は、スチュワート朝の初代国王ジェームズ1世のひ孫にあたる。そのまたひ孫がジョージ3世で、ジョージ4世はその長男。ドイツ系らしく生真面目な性格だった父、ジョージ3世とは対照的に、4世は手に負えないほどの放蕩息子だった。
在位60年という立派な記録を持つジョージ3世だが、英国がアメリカとの独立戦争に敗北し合衆国の誕生を許した後、1788年ごろから精神障害をわずらうようになり、最後の10年余りは、国務を執り行うことが全くできなかった。
父王や側近からことあるごとにガミガミと小言をいわれ、父王が正気を失ったあとも、摂政皇太子(Prince Regent)として国王の仕事を代行しつつも約10年間、国王になれず、鬱屈した日々を長く送ったこの人物が、晴れて国王になれたのは58歳になってからのことだった。
1762年8月12日に生まれ、1830年6月26日に67歳で亡くなったジョージ4世の正式な在位期間はわずか10年。摂政皇太子時代を入れても20年ほどだが、この間にリージェント・ストリートとリージェンツ・パーク、カールトン・ハウス・テラス、シアター・ロイヤル・ヘイマーケット、オール・ソウルズ教会、カンバーランド・テラスにロイヤル・ミューズが完成。トラファルガー広場のもとが築かれ、バッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)の国家を挙げての大増改築も始まった。
ジョージ4世はそれまでためこんできた、不満や焦りをはじめとする負のパワーを爆発させるかのように、大プロジェクトにのめりこむ。そして、それらにことごとく関わったのが、今特集の主役、ジョン・ナッシュだった。

「ニュー・ストリート」建設計画
ジョン・ナッシュは1752年、ロンドンの下町、ランベスの水車大工の息子として生まれた。ナッシュは父親と同じ職に就くことを嫌い、建築家、ロバート・テイラー卿のもとに弟子入りする。しかし、徒弟生活のような「耐える」暮らしには向いていなかったらしく、まもなく師のもとを離れ、独自の商売を開始。レンガ造りの外壁に化粧しっくいを施すことにより、石造りのように見せ、手ごろな価格でまがい物の立派さを演出するというアイディアのビジネスだったが、成功には至らなかった。この最初のビジネスに、ナッシュの見栄っ張りの性格が既に表れていたといえそうだ。
ほどなくしてナッシュは隠居暮らしをするのに十分な金額の遺産を贈られ、ウェールズに引退する。ところが幸か不幸か投資に失敗。建築家として再び働き始めざるを得なくなってしまう。ナッシュが、もし遺産を賢く運用し、そのままウェールズに引っ込んでいたら、今のリージェント・ストリートはなかったかもしれない。
1792年、40歳で建築業界に復帰。まもなくロンドンへと戻ってきたナッシュを、ジョージ4世(当時はまだ摂政皇太子にもなっていなかった)がなぜそこまで重用するようになったのか、実はあまり知られていないとされている。一説によると、ナッシュとは大きく年の離れた若妻が、ジョージの愛人だったといい、なかなか説得力があるが、真偽のほどは不明。ただ、理由はどうあれ、ナッシュが与えられたチャンスを見事にいかしたことは確かだろう。
ジョージは摂政皇太子になった1811年、ナッシュを含む3人の建築家に、「メリルボン・パーク」周辺の再開発計画案を提出するよう依頼した。この「メリルボン・パーク」は、やがてリージェンツ・パークに名前を変えることになるのだが、厚い粘土質に覆われて常にじめじめしており、当時は牧草などが生える農地としてしか使われていなかった。
王室所有のこの広い農地と、自分の公邸であるカールトン・ハウスをつなぐ道路の建設をジョージは決断。その半世紀ほど前から、粗野で田舎くさいイメージの強いロンドンを、ウィーン、ローマ、パリのように洗練された都市にするためにも、ロンドンの再開発が必要だという声が高まっていたこともあり、議会でも、ジョージの野心について反対を唱える者は賛成者の数を下回った。
もっとも独創的、かつ収益性が高いとしてジョン・ナッシュの案が採用され、1813年に「ニュー・ストリート」法が採択された。この「ニュー・ストリート」こそ、後のリージェント・ストリートである。通り沿いの建物からの家賃収入に大幅アップが見込めることから、王室にとっては一石二鳥ともいえる案が実現に向けて動きだした。

浪費王とはったり建築家の夢
うぬぼれ屋、派手好みなど、ジョン・ナッシュについての人々の評価は必ずしも好意的なものではなかったというが、ジョージ4世の完全なるバックアップのもと、ナッシュは自分の図面をもとに実際の形にする作業にとりかかった。カールトン・ハウス(現ウォータールー・プレイス)からロウアー・リージェント・ストリートをあがりピカデリー・サーカスへ。このすぐ北で湾曲するリージェント・ストリートからオックスフォード・サーカスを経て、やや広めのポートランド・プレイスを通り、パーク・クレセント、さらにはリージェンツ・パークに至るという大通りの建設作業が始まった。
しかしナッシュの案は、建設にともなって次々と修正されていった。また、大通り沿いにナッシュがデザインしたタウンハウスの人気も芳しくなかった。ナッシュお得意の化粧しっくいを施して石造りのように見せた建物は安っぽく見え、増改築をむりやり繰り返した建物はバランスがくずれ美しいとはいえなかったのだ。加えて、細かい部屋に分かれた古臭い造りの建物はファッショナブルな商品を展開しようとする小売業者たちの間では不評で、その後、多くの建物が建て替えられることになる。
さらに、大通り沿いの建物をすべてナッシュがデザインした訳ではなく、当時の建築業界の大物たち複数がデザインに携わっており、それらをまとめるのもナッシュの仕事だった。この点についてはナッシュは合格したといえ、まとめ役としての任を果たし、南北に走るこの大通り沿いの建物にある種の統一感を持たせることに成功した。
ロンドンを華麗に変えた、税金のムダ遣い
リージェント・ストリートのハイライトといえるのは、ピカデリー・サーカスのすぐ北にある「クワドラント(Quadrant)」と呼ばれる湾曲部分。このデザインはナッシュの原案に忠実に従ったものとされている。ナッシュが国王に取り入ってこの一大プロジェクトを任されたというのが事実としても、実力がなければやり遂げることはできなかったという点を証明するに足る、華麗さをたたえている。
また、リージェント・ストリートがロンドンにおける目抜き通りとして特筆されるべきは、観光都市としてのロンドンに大きな付加価値を与えた事実についてだろう。

ショッピング通りとしてだけでなく、圧倒的なエレガントさをもって、それ自体が観光名所となっているリージェント・ストリート=写真=は、紛れもなく英国の財産といえる。
リージェント・ストリート建設には多額の税金が使われ、非難の的になった時期もあったが、後世になってふりかえれば、観光収入として国民に還元されている。税金によって国宝が造られたとも考えられる。そして、ジョージ4世とジョン・ナッシュという「黄金コンビ」の存在なくしては、それは可能とはなりえなかった。
当時は悪評も多く聞かれたこの黄金コンビの作品群を、次号でご紹介するが、その数の多さに驚かれる読者も少なくないだろう。ジョン・ナッシュとジョージ4世の姿を思い浮かべながら探索されることをお薦めしたい。 (後編に続く)
英国にいることを忘れそう!? ジョージ4世の別荘 ブライトンのロイヤル・パビリオン

■英国の名優、ナイジェル・ホーソーン主演の映画『英国万歳!(The Madness of King George)』(1994)で、狂気の王として描かれていたのがジョージ3世で、二枚目俳優ルパート・エヴェレットが演じていたダメ息子が後のジョージ4世だ。
■生真面目な父王ジョージ3世の、息の詰まるような宮廷から皇太子ジョージがブライトンに初めて逃がれてきたのは、1783年のこと。芝居好き、ギャンブル好きというおじのカンバーランド公爵に連れられてきたジョージは、当時、リゾート地として人気を博すようになっていたブライトンを大いに気に入った。首筋の腺病に海水が効くと医者にいわれたこともあり、ジョージはブライトンで堂々と湯治(水治)生活を楽しむことができたのだった。

©Royal Pavilion, Libraries and Museums, Brighton & Hove
■その3年後、カールトン・ハウスの改築で大きな借金を抱えたジョージは、ブライトンでしばらく隠遁生活を強いられる。ここで、最愛の女性であるフィッツハーバート夫人(Mrs Maria Fitzherbert)とひそかに結婚するも、美貌で知られた同夫人(既婚者)は、離婚が許されないカトリック教徒だったため、この婚姻は違法だった。後に有力貴族の娘と政略結婚させられ、一人娘をもうけたが、すぐに別居したジョージは、この不誠実さでも国民の不評をかうことになる。
■しかし、国民に嫌われることを恐れるような皇太子ではなく、お気に入りの建築家、ジョン・ナッシュを呼び、ここに別荘を建てさせることにした。その結果、できあがったのが、外観はインド様式、中は東洋趣味で豪華絢爛というロイヤル・パビリオンだ。好き嫌いは別として、インパクトの強い建物であることは確か。一見に値する!
週刊ジャーニー No.1337(2024年4月11日)掲載