●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部
■『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに多くの謎に包まれ、各時代や伝記作家によって描かれるイメージも大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。生誕190年を迎えた今、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫ってみたい。
貧しい大家族の長男
英米では、聖書とシェイクスピア作品に次いで読まれている『不思議の国のアリス』。白ウサギの後を追ってウサギの穴に飛び込み、奇妙な世界に入り込んだ少女アリスの大冒険を描いた物語は、30歳の数学者ルイス・キャロルが「10歳の友人」アリス・リデルにせがまれ、ボート遊びの際に語ったものを文章化して出版した作品だ。
ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは1832年、ヴィクトリア女王の即位を5年後に控え、英国が世界にその国力を示し始めた輝かしい時期に、イングランド北西部チェシャーの小さな村デアーズベリーで生まれた。11人きょうだいの3番目、そしてドジソン家の待望の長男だった。一家の大半は代々聖職者か軍仕官という、当時の上層中産階級の代表的職業に従事していたが、ルイスの父親もその例に漏れず、オックスフォード大学で数学と古典に親しんだ後、この地の教区で牧師を務めていた。
一家の暮らす牧師館のある辺りは「陸の孤島」とも呼べるほどの辺境の地で、父親がその高学歴には見合わない質素なキャリアを選んだため、大所帯のドジソン一家もまた、慎ましい暮らしを強いられた。自ら野菜を育てる半自給生活を営み、子どもたちの着る服はドジソン夫人の手作り。だが、ここで多くのきょうだいと共に過ごした静かで質素な生活をルイスは終生懐かしく思い返しており、彼にとっては幸せな日々だったようだ。子どもたちは父親の元で敬虔なクリスチャンとして育てられ、ルイスの数学に対する興味もこの時に培われている。
やがて父親の栄転により、ヨークシャーに転居。ルイスは英国で最も古い歴史を誇る私立寄宿学校のひとつ、ウォリックシャーのラグビー・スクールに入学する。しかし、荒々しい校風を持つ同校での3年間は、もの静かで心優しいルイスにとってきわめて苦痛なものとなった。低学年の生徒に対するイジメや嫌がらせといったお決まりの寄宿学校の慣習に苦しみ、野蛮で乱暴な男子生徒たちを忌み嫌い、自分が高学年になってからは「幼い生徒たちを守る」と保護監督者の役割に率先して徹した。その「守護神」ぶりは、彼が卒業した後も、しばらく生徒たちの間で語り継がれていたほどだった。
その後、父親の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ校に進学。しかし、当時のクライスト・チャーチは優秀な学生が学ぶ場である一方、裕福な貴族の息子たちが当主となる前の数年を費やす、娯楽場のような場所でもあった。ギャンブルやキツネ狩りを楽しみ、勉学には全く興味を示さない享楽的な人物の集まりが幅を利かせており、ルイスは彼らのような学生たちとは距離を置き、静かに勉学に身を投じる毎日を送った。
欲した母親の愛情
順風満帆な人生を歩んでいるように思えるルイスだが、実はどれほど欲しても手に入らないものがあった――それは「母親の愛情」である。大家族の「できる」長男の宿命といえるのかもしれない。
ルイスの母は、彼が大学へ入学したわずか2日後、47歳の若さで病死。髄膜炎か脳梗塞と思われる脳の疾患が原因だった。母親に関しての彼の記述は少なく、2人の絆はかなり希薄だった。だが、決してルイスが母親を嫌いだったというわけではなく、むしろ幼い頃から母の愛情に飢え、常に彼女の関心を買おうとしていた。ところが、子どもの多いドジソン家では、おとなしい長男の存在は地味なもの。面倒見のよいルイスはきょうだい間では絶大な人気を誇っていたものの、母親にしてみれば、数多い子どもの中で「手のかからない子」と関心は薄かった。また、ルイスは吃音症(言葉が円滑に話せない発話障害)を患っていたが、彼を含めきょうだい全員が何らかの言語障害を抱えており、自閉症めいた症状を持つ妹もいたことから、母親がルイスに目をかけることはほとんどなかった。
距離を埋めることができなかった母親を永遠に失い、満たされることがない空虚な心を埋めてくれたのは、母親の弟にあたり、法廷弁護士としてロンドンで暮らしていた叔父だった。彼は鷹揚なキャラクターで、新しいものが大好き。発明されたばかりの望遠鏡や顕微鏡といった光学機器に多大な興味を持ち、その情熱はルイスにも伝播していった。後にルイスは叔父から写真の技術を学び、写真家としても名を馳せるようになる。
運命の少女との出会い
やがてルイスは大学の数学の試験で「第1級」を獲得し、特別研究生の地位を得る。この地位を得た者は生涯クライスト・チャーチに留まり、年俸をもらいながら自由な研究をすることを保証されることから、ルイスにとってはまたとないチャンスの到来であった。かつて、彼の父親もこの資格を得たことがあったが、父親はほかの有資格者同様、数年でこの身分を放棄。というのも、特別研究生であり続けるには、聖職の資格を取らなければならないだけでなく、「独身」でいることも条件のひとつだったからだ。しかし、ルイスはこの身分を手放すことなく、学士号の取得後に正式な数学教授への昇進試験にも合格。彼の授業は学生には不評で、あまりの退屈さゆえに学生たちが「キャロル・ボイコット運動」を起こしたほどだったものの、それにもめげずに教壇に立ち続け、数学の参考書『行列式初歩』も刊行した。
そして運命の出会いがやってくる。
学寮長(クライスト・チャーチの最高運営責任者)が老齢のため死去すると、名門ウェストミンスター・カレッジで校長を務めていた古典文献学者ヘンリー・ジョージ・リデルが新たに赴任してきた。若くカリスマ的な魅力に溢れるリデルは、次々に保守的な校内システムの改革を行っていく。新人教師のルイスも改革に伴う議論にスタッフの一員として参加したが、ルイスに大きな影響を与えたのは、この校内改革ではなかった。リデルがオックスフォードへの赴任に際して伴ってきた、妻と4人の子どもたち――長男ハリーと、長女ロリーナ、次女アリス、三女イーディスの3姉妹だ。とくに次女のアリスは『不思議の国のアリス』誕生のきっかけとなり、ルイスの人生を大きく変える存在となる。
アリスのわがままと名作の誕生
ルイスとアリスが初めて顔を合わせたのは、ルイス23歳、アリスはわずか3歳のときのこと。叔父から写真技術をマスターしたルイスは、自らもカメラを購入し、被写体を探していたところだった。そのお眼鏡に叶ったのが、リデルの幼い子どもたちだ。でも最初からアリスが特別だったわけではない。ルイスがまず称えたのは長男ハリーの美しさで「今まで会った中で一番ハンサムな少年だ」と感嘆し、家族に撮影許可をもらっている。こうしてルイスとリデル一家との密な交遊が始まった。
リデル家の子どもたちは、すぐにクライスト・チャーチ内のルイスの自室を訪れるようになった。そこには子どもが大喜びしそうなオモチャや複雑な機械がところ狭しと並んでおり、薄暗くてまるで秘密の隠れ家のようだった。彼らはルイスが集めた撮影用の子ども服、例えば物乞い風のボロボロのドレス、ジプシー風の衣装、当時流行していたオリエンタルな小物などを自由に選び出し、ルイスの求めに応じてポーズをとった。
天気の良い日ですら屋外で1枚の写真を撮るのに45秒もかかる時代に、子どもたちをひとつのポーズのままでじっとさせておくのは、本来なら至難の技。しかしながら、すでに数学者としての顔以外に作家としても数冊の短編小説を発表していたルイスは、幼い子どもに対する持ち前のサービス精神で、奇妙で愉快な物語を即興で語るなど、彼らに退屈を感じさせず、リラックスして撮影に臨ませることに成功。アリスも後年にインタビューで「彼の部屋の大きなソファに座って、皆で彼のお話を聞くのは本当に楽しかった。写真撮影も全然苦にならなかったし、お部屋へ行くのが楽しみでした」と語っている。
『不思議の国のアリス』の物語が生まれたのは、彼らが出会ってから約7年後の1862年7月4日、ピクニック先でのことだ。この日は歌のうまいルイスの大学の同僚も参加し、子どもたちと共にテムズ河でのボート下りを楽しんでいた。夏の日射しが水面に反射する、後にルイスが「金色の午後」と形容した日のことである。舟の上でいつものようにアリスに話をせがまれたルイスは、懐中時計を手に大急ぎで走ってくる白ウサギの場面を語り始める。ボートを漕いでいた同僚男性が振り返り、「今即興で作った話なのか?」とたずねると、ルイスはこう答えた。
「そうなんだ。まず女の子をウサギの穴に落としてみたんだが、その後どうするかな…」
自分と同じ名前の主人公が登場する話をとりわけ気に入ったアリスは、物語の先を知りたがり、「私のために文字にして書いて!」と何度もせがんだ。アリスのこの「お願い」がきっかけとなり、ルイスは翌日から物語を書き始める。当初『地下の国のアリス』と名付けられた手書きの本は、7ヵ月後の1863年2月10日に完成。さらにルイス自身がイラストを丁寧に描き入れ、1864年11月26日に「クリスマス・プレゼントとして、夏の日の思い出に」とアリスに手渡された。
おそらくこのときがルイスにとって最も輝いていた時間だったのではないだろうか。ルイスとアリス、そしてリドル家との関係は、以降跡形もなく立ち消えることとなる――。
週刊ジャーニー No.1238(2022年5月5日)掲載