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銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 中編
ブリュッセルの看護婦養成校で生徒たちと写真に収まるイーデス・カヴェル(中央:濃い色の制服を着た女性ふたりのうち、向かって右側)。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

■ドイツ軍はフランス侵攻にあたり、既に要塞化されていたフランスとの国境線を避け、中立国ベルギーを通過する方針を固めた。1914年8月3日午後、ドイツ軍はベルギーに「我が軍を無抵抗で通過させよ。明朝午前7時までに回答なき場合は敵と見做す」と通達。ベルギー側はこれを無視。ドイツ軍はベルギー侵攻を決めた。看護婦長イーデス・カヴェルの戦争が始まる。

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占領下のブリュッセル

1914年8月4日午前9時、ドイツ軍はベルギー軍への侵攻を開始した。ベルギー中立の保障という立場にあったイギリスは即日、ドイツに宣戦布告した。故郷ノーフォークから前日に戻ったばかりのイーデスはドイツ人看護婦見習い生たちを伴ってブリュッセル北駅へと急いだ。そこから中立国オランダのアムステルダム行き最終列車が出る。別れ際、イーデスは困惑し涙を流すドイツ人生徒たちを抱きしめ「どこにいようと、看護婦として与えられた職務を全うしなさい」と檄を飛ばし笑顔で見送った。

看護婦養成校の庭で犬と写るイーデス・カヴェル。

イーデスの横に幼いドイツ人の娘が立っていた。マリエという名のメイドだった。ドイツに誰一人、身寄りのないマリエはそばを離れたくないとイーデスに泣いてすがった。イーデスはマリエを手元に置くことにした。イングランド出身の見習いたちの何人かもブリュッセルに残ると言い出した。イーデスは帰国を説得しながらも心の底では彼女たちに感謝していた。

ブリュッセルに残った看護婦たちは負傷者を受け入れるベッドを整える作業に没頭した。養成校の屋根に赤十字の旗が翻った。養成校や近隣の病院はことごとく赤十字社の管理下に入った。何とか受け入れ態勢を整えたものの、大量の負傷兵が運ばれて来た場合、どうやって彼らを食べさせていけばいいのか。学校には大人数の食事を賄えるキッチンがない。そもそも戦争となれば、食材自体どうやって調達すればいいのか。イーデスは途方に暮れた。

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ドイツ軍とベルギー軍はリエージュ(Liège)という国境付近の街で対峙していた。守るベルギー軍の兵力は3万7000。一方のドイツ軍は10万7000。ベルギー軍は英仏からの援軍を待ちながら善戦した。しかしドイツ軍の火力は圧倒的で、開戦から2週間経った8月17日、リエージュの防衛線は崩壊。ベルギー軍は後退を余儀なくされた。ベルギーはたちまちドイツ軍に占領された。

ブリュッセルに到着したドイツ軍。

3日後、ドイツ軍はブリュッセルに到達した。学校前をドイツ軍兵士たちが軍靴を鳴らして行進した。その様子を窓から見ていたイーデスは怯える見習い看護婦たちを教室に集めて言った。「ジュネーブ条約、ならびに赤十字社の理念の元、敵であれ、味方であれ、分け隔てなく看護いたしましょう」。

「えっ、敵兵もですか!?」若い看護婦たちは動揺を隠せなかった。イーデスは表情を変えることなく言葉を繋いだ。「誰もが誰かの父であり、夫であり、息子なのです。看護婦はいさかいの表舞台に出るべきではありません。言葉を慎み、患者に不必要に介入しないよう努め、プロとして職務に専念致しましょう」と告げた。

養成校や近隣の病院は次々に運ばれて来る傷病兵たちでたちまち大混乱となった。イーデスたちの日常は一転した。ドイツ軍は抵抗を続けるベルギー兵やパルチザンを捕らえて殺害した。生け捕りにした負傷者はドイツ本国の病院に、無傷の者は強制収容所に送った。

ドイツ軍の攻撃で破壊され尽くしたベルギー、フランドルの町。

危険なミッション

レジスタンス活動に身を投じたベルギー貴族、クロイ王女マリー。

1914年12月のある日、イーデスに1通の極秘文書が届いた。クロイ王女マリーというベルギー人貴族からだった。フランスとの国境に近いクロイ王女の居城周辺もドイツ軍によって占領されていた。ドイツ軍は国境や港湾を封鎖してベルギーを孤立状態にしていた。フランス国境近くにいた英ミドルセックス連隊やフランス軍の兵士らは逃げ遅れ、散り散りになって森の中や農家の納屋などに潜んでいた。ドイツ軍は彼らを見つけ次第射殺した。

クロイ王女は何とか彼らを国外に脱出させる方法はないかと思案していた。いくつかのルートが検討されたが最終的にイーデスの養成校経由で中立国オランダに脱出させるのが最も成功の可能性が高いと結論付けた。クロイ王女は手紙で英仏兵士らが置かれた状況とレジスタンスとの連携による脱出の方法をこと細かに説明し、イーデスの協力を仰いだ。

極めて危険なミッションだった。逃亡の手伝いをしていたことが発覚すれば処罰は相当厳しいものとなる。イーデスは迷った。しかし「弱者を救済したい」という強い意志が彼女の背中を押した。戦傷者の看護をしながら、戦場に閉じ込められた友軍兵士たちを国外に脱出させるという危険なミッションが秘密裏に動き始めた。

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12月29日、1回目の作戦が実行に移された。一般人に紛れ込んだ一人の兵士が夜陰に紛れて養成校の扉を叩いた。合言葉は「ミスター・ヨーク(Mr Yorc)」。イーデスらは地下の小部屋に男を匿った。そして彼をオランダまで送り届けるレジスタンスからの連絡を待った。決行の夜が来るとイーデスは兵士にわずかばかりの現金を与え、無事を祈って夜陰に送り出した。この作業を数日に一度の割合で繰り返した。

英兵にはノーフォークの母の住所を教えた。無事、英国まで逃げ帰った兵士はイーデスの母親に礼を述べる手紙を書いた。母親は無邪気に「〇〇さんが着きましたよ」とイーデスに手紙を書いた。イーデスは蒼ざめた。母の手紙にはそれ以外、不審なことは書かれていなかったが、手紙はドイツ軍によって検閲されているに違いなかった。それ以降、イーデスは匿った兵士に自宅住所を教えるのを止めた。

カジュアル・スパイと秘密警察

1915年も6月頃になると、訪ねて来る兵士の数も目に見えて増えた。しかしこの頃、イーデスは自分たちの行動が監視されていることに気づいていた。ブリュッセルではカジュアル・スパイと呼ばれる密告屋が市民の中に放たれていた。彼らは戦争が始まる前は商人や庭師、肉屋や囚人だった国籍もまちまちな人たちで男女問わず6000人が密偵として活動していた。トラムに乗っては周囲の会話に耳をそばだて、集会に加わっては議論に加わるなどした。不審な動きがあるとすぐにドイツ軍に報告した。

1年だけで60万人のベルギー人が検挙され、罰金を科されたり牢にぶち込まれたり、銃殺されるなどした。イーデスは外出すると決まって尾行して来る影があることに気づいていた。これまでオランダに脱出させた兵士の数はおよそ200。「これ以上は危険だ」という意見が出始めた。しかしイーデスは「捕まったらどのみち罰せられるでしょう。だったら出来るだけ多くの人を救って罰せられましょう」と言って意に介さなかった。周囲は沈黙せざるを得なかった。しかしこの時、彼らの行動はドイツ軍にほぼ筒抜けになっていた。

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7月31日、別動隊の拠点に憲兵たちが雪崩れ込み、レジスタンスが一斉に逮捕された。追手がイーデスの前に姿を現すのはもはや時間の問題だった。8月5日午後、養成校に秘密警察がやって来た。イーデスはスパイ容疑で逮捕された。その後、クロイ王女をはじめ脱出の手助けをした総勢十数名が一斉に逮捕された。

過酷過ぎる判決

イーデスが収容されたセント・ジャイルズ刑務所の独房。

イーデスはセント・ジャイルズ刑務所の独房に収監された。独房は縦4メートル×横2・5メートル、高さは2・75メートル。身長160センチのイーデスには十分過ぎる広さだった。

逮捕から3日後の8月8日、イーデスはブリュッセル市内の警察署に連行され1回目の取り調べを受けた。小さな個室には3人の男が待っていた。秘密警察がドイツ語で質問した内容をピンクホフという軍曹がフランス語に訳してイーデスに伝えた。イーデスがフランス語で回答するとピンクホフがドイツ語に訳して上官に伝えた。10日後、2度目の取り調べが行われたが1回目と全く同じ顔触れだった。イーデスには彼女を擁護する第三者をつけることも許されなかった。さらにたった一人の通訳の力量と人間性次第で話した内容の印象がガラリと変わるという、真に公平性に欠けた取り調べだった。ピンクホフはイーデスに良い印象を抱いていなかった。

イーデスが独房から同僚に宛てて書いた手紙。

独房の中でイーデスは養成校の総務や経理の仕事を続けた。それが終わると聖書を読み、祈り、母親や友人宛に手紙を書くなど、穏やかな日々を過ごした。逮捕から3週間ほど経った頃、イーデス逮捕のニュースは英国にも伝わった。軍は外務省に掛け合い、ドイツ軍に早期釈放を要求した。また、駐英米国大使にも協力を仰ぎ、圧力をかけるよう要請した。

10月7日、イーデスらの裁判が始まった。法廷に臨むにあたりイーデスは白いブラウスに濃紺のジャケットとスカートをかちっとまとい、その上にグレーのストールを羽織った。

クロイ王女や同僚たちはイーデスに「裁判官や傍聴人の同情を得られるかもしれない」と看護婦のユニフォームを着て出廷するよう懇願した。イーデスは首を横に振って言った。「私は看護婦という職業を代表して法廷に立つのではありません。あくまでも私個人として臨むのです」。

イーデスは自分がユニフォームを着ることで看護婦と言う職業自体に偏見を持たれることを危惧した。イーデスの後、何人もの同僚や教え子たちの公判が控えている。彼らが不利になることだけは避けたかった。

裁判は3日間に及んだ。最終日となった10月9日、判決が言い渡された。

法廷はスパイ行為ならびにドイツに対する反逆行為を主導したとしてイーデスら5人に銃殺刑を言い渡した。法廷内に悲鳴が轟いた。他の十数名も最高15年の強制労働など大方の予想を遥かに超えた厳しい判決だった。クロイ王女は首謀者の一人だったがドイツ貴族との血縁から10年の強制労働と忖度された。

死刑判決の知らせを受けた英軍部は国際社会に呼びかけ、赦免の圧力をかけ始めた。イーデス・カヴェル銃殺の時が迫っていた。

(後編に続く)

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※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

週刊ジャーニー No.1297(2023年6月29日)掲載