神に挑んだ男 チャールズ・ダーウィン 後編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/根本玲子・本誌編集部

前回のあらすじ〉万物は神の手によって創られた――。

聖書にあるアダムとイブの誕生の伝承が当然のように信じられていた19世紀に、「人間はかつて猿であった」と常識を根底からくつがえす「進化論」を提唱したダーウィン。彼が世界へ与えた衝撃は計り知れないものだった…。勇気ある偉大な自然科学者の生涯、後編をお届けする。

結婚のメリットとデメリット徹底研究

左から、ダーウィンの妻エマ、ダーウィン、夭逝した愛娘アン。

約5年におよぶ南米大陸沿岸の測量調査を終え、将来を期待される若き博物学者へと成長したダーウィンだったが、当然ながら慣れない長旅にはトラブルがつきもの。実は英国を発って3年が過ぎた頃、南米で熱病に冒されている。一時は生死が危ぶまれるほどの状態にまで陥ったものの、1ヵ月間の療養の末、どうにか旅に復帰。しかしながら、おそらくこの時に何らかの慢性疾患にかかったのか、ダーウィンは亡くなるまで常に体調不良に悩まされ続けることになる。このほかにも、標本として採集したオオサシガメを媒介にシャーガス病と呼ばれる感染症にかかったという説、あるいは長期航海によるストレスなどの神経性疾患とする説もあるが、存命中に病名が判明することはなかった。

もともと動植物や昆虫を愛し、田舎での長閑な生活を好んでいた彼にとって、人口増加と貧困化の進む当時のロンドンは心休まる場所ではなかった。公演活動がひと段落すると、療養のために故郷のシュルーズベリーへ戻った。だが天才も、寂しさと孤独には弱かったのだろう。病に悩まされながらの静かな独身生活はつらく、温かい家庭に焦がれるようになったダーウィンは、再会した幼なじみの従姉弟、エマ・ウェッジウッドとの結婚を意識しはじめる。

しかし、根っからの几帳面な研究者気質が災いし、家庭生活に時間をとられ、研究に支障が出ることが心配で、なかなか一歩を踏み出せない。結局、結婚がもたらすメリットとデメリットをこっそりリストにしてじっくり検討することにした。一方、1歳上のエマは「明らかに彼は私に好意を持っている」はずなのに、ちっとも求婚してこないことにヤキモキ。ダーウィン家もウェッジウッド家も彼の決断をハラハラしながら見守っていたが、最終的に彼女にプロポーズ。後にエマへ宛てた手紙に「あなたは私を人間らしくしてくれる。沈黙と孤独の中で様々な事実を積み重ね、理論を構築するのよりも大きな幸せがあることをいつも教えてくれる」としたためている。

2人は1839年に結婚、ロンドンに新居を構えた。

オラウータンを観察

さて、ダーウィンは航海中に、各地の環境にあわせるように動植物が少しずつその形を変えている点、ガラパゴス諸島の生物の多くが南米起源としか思えないほど互いによく似ている点に着目していた。また、ガラパゴス諸島にいるゾウガメやイグアナは、島それぞれに変種が存在していることを知り、環境と生物の形態の関係に強い関心を寄せた。

加えて、地質学者チャールズ・ライエルの「地質学原理」を読み、アンデス山脈で地質調査にもあたったことで、これまで「不変のもの」と思われていた大地が、聖書の「創世記」以上の長い時間をかけて形成されてきたという現実を実感。「生物にもこれが当てはまるのでは?」との疑念を抱いた。

他の研究者たちと協力しながら航海で採取した標本の整理・分類を行う中で、神が生み出したときから人間は人間であったという「種の不変性」に対する疑問はどんどん膨らんでいく。そしてロンドン動物園にやってきたオランウータンを観察した際に、人間との多くの類似点に注目し、ついに思い至ってしまう――もしかしたら我々は共通の祖先を持つのではないか? と。

彼の考察ノートに、共通の祖先が変異によって枝分かれし、別の種へと発展していく様子を図で示した「生命の樹(Tree of Life)」が描かれる。現在我々の知る「進化(evolution)」論の根本原理が具現化された瞬間だった。1837年、ダーウィンが28歳のときのことである。

「犯罪の自白」と愛娘の死

体調不良がさらに悪化したため、1842年にロンドンの喧噪から離れてケントのダウン村にある「ダウンハウス」へ移り住む。腹痛や心臓の痛みなどにより一日数時間しか仕事ができない状態に陥っていたが、研究の合間に庭を歩いては思索に耽った。多くの手紙を介して学者たちと意見を交わしつつ、自説を裏付けるための膨大なデータを揃えていった。

しかし、自説が具体的になればなるほど、ダーウィンの苦悩も深まっていった。この理論はキリスト教を基盤にした当時の社会秩序を根本から揺るがすものになる。妻のエマは敬虔なキリスト教徒であり、自分の説を一般に公表することで夫婦間に大きな溝を生むこと、そして安定した生活を望む親族や友人たちをとんでもない騒動に巻き込む可能性があった。

初めてこの進歩的な構想を思い切って告白した相手は、親しくしていた植物学者のジョセフ・フッカーだったが、ダーウィンはこのときの心境を「殺人を告白するようなものだった」と記している。だが、彼が献身的な看護と神に深く祈りを捧げたにもかかわらず、最愛の娘アンがわずか10歳で世を去ると、「死は自然現象だ。どれほど祈っても結果はかわらない」と強く確信。自説をこのまま埋もれさせてしまう訳にはいかないと感じるようになった。

ダーウィンが愛した家 ダウンハウス

体調を崩し研究に没頭できる場所を求めたダーウィンが、33歳のときに妻と移り住み、約40年暮らしたケントのダウン村にある自邸。「種の起源」はこの家で執筆された。ダーウィンは1882年4月、敷地内にある小道「Sandwalk」を散歩中に狭心症で倒れ、妻と子どもたちに看取られながら、73歳で息を引き取った。現在、同所は記念館として一般公開されており、ダーウィンが自ら設計した温室も見学できる。

Down House
Luxted Road, Downe, Kent BR6 7JT
月・火曜休館 £16
https://www.english-heritage.org.uk/visit/places/home-of-charles-darwin-down-house/

「ヒトはサルだった」への猛反発

ダーウィンが自説の発表を決意したのは、若き博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスから届いた一通の手紙がきっかけだった。それは「自分の新説を発表したい」と相談する内容であったが、同封されていた未発表の論文には、ウォレスがアマゾンやマレー諸島で調査活動を続けるうちに到達した「進化」に関する理論が記されていたのだ。

ダーウィンは心底驚いた。それは彼が温めてきた学説とほぼ同様であり、自分の理論が別の学者によって先に発表される可能性を今更ながら気付いたのである。大いに焦り動揺したものの、自分を信じて学説を公表してくれたウォレスのためにも、彼の論文は発表されるべきと考え、植物学者のフッカーと地質学者のライエルに協力を持ちかけた。

しかしながら、ダーウィンが同様の説を長年持ち続けてきたことを知っていた2人は、「ウォレスとの共同作業」を提案し、ダーウィンを説得。こうして1858年、共著という形で三部構成による論文が学会で発表される。これを機に翌年「種の起源(On the Origin of Species)」をダーウィンは上梓したが、懸念通りに大きな物議を醸すことになる。

とくに問題視されたのは、彼の学説の要である「自然淘汰説」だ。これは厳しい生存競争の中で生物の種の中に突然変異を持つものが生まれ、環境に有利な特徴を持ったものが生き残り、弱いものは淘汰されていく際に「種の分化(=進化)」が発生するというもの。さらに、種の分化は長い時間の中で偶然生まれ、生息環境によって枝分かれしていくため、生物はより優れたものへと変化しているのではない、とする考え方であった。この世に存在する生物はすべて神によって創り出されたとする聖書の記述を否定するだけでなく、人間は他の生物とは異なる優れた存在という考えを根底から覆すものだったのだ。

なかでも、「人類は猿から進化した」(正確には猿と共通の祖先から進化した)については、多くの人々が拒絶反応を起こした。新聞各紙はダーウィンを猿に見立てた風刺画を掲載し、進化論擁護派も「これだけは倫理的に受け入れ難い」と反対する学者が多く、自宅には批判文書が山のように届けられた。

「人類は猿から進化した」とする説は受け入れがたく、ダーウィンを風刺したイラストの数々が欧州全土の新聞や雑誌の紙面をにぎわせた。

今なお続く、教会との戦い

大論争を巻き起こしながらも、「種の起源」は数日で完売のベストセラーとなる。初版発行の翌年には、オックスフォード大学においてダーウィン支持派とオックスフォード司教ほかの反対派による大討論会が行われ、科学と宗教の対立を大きく浮き彫りにした。この後もダーウィンは10年以上かけて、「種の起原」の改訂を加えながら自説を掘り下げていった。

地動説を唱えたがゆえに二度の有罪判決を受けたガリレオは、350年以上を経た1992年、「裁判は誤りだった」としてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が正式に謝罪している。これに対し、ダーウィンの進化論がカトリック教会、あるいは英国国教会から「認められる」日がくるかどうかは不明であり、神との戦いは結末をみていない。進化論をめぐる壮大なドラマは、今なお続いている。

週刊ジャーニー No.1229(2022年3月3日)掲載