映画を知りすぎていた男 アルフレッド ヒッチコック [Alfred Hitchcock]
■『知りすぎていた男』や『サイコ』をはじめとする数々の名作を生み出した、英国出身の映画監督アルフレッド・ヒッチコック。生涯に制作した作品は53作にものぼり、悪夢を紡ぎ出す手腕は現在も他の追従を許さない。今回は、観客を怖がらせることに心血を注いだ「サスペンスの巨匠」のサクセス・ストーリーをお届けする。

●参考文献『It's Only a Movie - Alfred Hitchcock A Personal Biography』Charlotte Chandler著、『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦訳

●Great Britons●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

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主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音楽が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生みだすために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。(中略)観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。(―定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー 訳:山田宏一・蓮實重彦)

1960年作『サイコ』の大ヒットに満足したヒッチコックは、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーとの対談で上記のように語っている。役作りに悩む俳優から助言を求められると、「たかが映画じゃないか」という言葉をしばしば口にしたという。ありふれた日常に潜む恐怖や、幸せと隣り合わせに存在する悪など、白日のもとに襲い来る恐怖に心引かれたというヒッチコックは、後年インタビューで「人間は本当に恐ろしいものからは目を背けるものだ。映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」とも語っている。冒頭の作品を始め、『鳥』『北北西に進路を取れ』『裏窓』『めまい』など、エンターテインメント色の強い作品をハリウッドで数えきれない程制作しながらも、常に冷めたシビアな視点を維持していたように思われる、ヒッチコック監督の秘密を探っていこう。

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アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック(Alfred Joseph Hitchcock)は、1901年に幕を閉じることになるヴィクトリア朝の最後期にあたる、1899年8月13日にロンドンのイーストエンド、レイトンストーンの青果商の次男坊として誕生する。当時は産業革命による景気の拡大が既にピークを越え、英国経済は次第に陰りを見せ始めていた。失業者が増加し社会主義も台頭する中、街頭では労働者たちによるデモが絶えず、また『切り裂きジャック』として知られるホワイトチャペルでの連続殺人事件も、まだ人々の記憶に新しい時代であった。

そんな状況にあって、アルフレッド・ヒッチコックの生家である青果商店は、父親のウィリアムによって手堅く営まれており、一家は裕福とまではいえないまでも、比較的余裕のある暮らしを送っていた。末っ子でもあったアルフレッドは、年の離れた兄姉が家業を手伝う中、地図や列車の時刻表を眺めて空想旅行を楽しんだり、窓からの眺めをスケッチしたりと、一人でおとなしく遊ぶ夢見がちな少年だったという。

© Spudgun67
ヒッチコックの生家跡は現在、ガソリンスタンドになっている(517 High Road, Leytonstone, London E11 3EE)。向かいの建物は、映画「鳥」をイメージした壁画で飾られている。

プロテスタントの多いイングランドには珍しく、敬虔なカトリック教徒だった一家は、近所の人々から「ちょっと変わった家」と見なされていたようである。毎週日曜日にきちんと正装し家族揃って教会へ出かけたが、特に熱心な母親のエマが教会へ行かなかったのはただの一度だけ、それはアルフレッドを出産した日曜日のみだったという。父のウィリアムは堅実かつ厳格な人物で、過度に道徳を重んじるヴィクトリア朝の時代にありがちな価値観の持ち主だったようだ。ある時、彼が幼いアルフレッドに施した「ちょっとした教育」が、その後のアルフレッドの人生に影響を及ぼすトラウマを植え付けることになる。

警官嫌い

アルフレッド・ヒッチコックが4、5歳の時のこと、父親の言いつけで知り合いの警察署長に手紙を持って行くお使いに出された。警察署長はその場で父親からの手紙を読むや否や、いきなりアルフレッドを留置所に閉じ込めてしまったという。5分後には釈放されたものの、恐怖におののくアルフレッドにはそれが数時間にも感じられた。釈放後「悪い子にはこうするんだ」(This is what we do to naughty boys.)と署長に言われたが、彼は悪いことをした覚えもなく、ただひたすら恐ろしがるばかり。成人した後ですら、背後で閉まる重い鍵の音や、暗くて長い刑務所の廊下の様子などをありありと思い浮かべることが出来たという。父親ウィリアムの思惑は予想以上の効果をもたらし、ヒッチコックはこれが原因で警官に恐怖を抱くようになり、子供心に「警察にお世話になる様なことは絶対避ける」と誓った。やがて成長するに従い、それが権力への漠然とした恐怖感や嫌悪へと転化していくわけだが、『間違えられた男』(1956) や『北北西に進路を取れ』(1959) をはじめ、ヒッチコック作品に「身に覚えのない罪で追われる主人公」が繰り返し登場するのは、幼い頃に起きたこの事件の影響だという。

やがてアルフレッドはロンドン北東部トテナムにある、聖イグナチウス・カレッジというイエズス会の寄宿学校に通い始める。ヒッチコックと同級生だったヒュー・グレイ教授は後に当時のヒッチコックの姿を回想し、「休み時間に校庭へ出ても、他の子供たちとけっして遊ぼうとしない丸顔の太った少年」と表現している。スポーツが苦手で、自分の体型にコンプレックスを抱いていたアルフレッドは、仲間の少年たちが校庭で無邪気に走り回るのを離れたところから観察したり、読書に没頭して一人で時間を過ごすような、孤独で無口な少年だったようだ。ヒッチコックはこの時代の愛読書にエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、そしてディケンズの著作を挙げている。

当時のイエズス会の寄宿学校は体罰の厳しいことで知られ、若いヒッチコックの通う聖イグナチウス・カレッジもその例外ではなかった。教師たちはクジラの骨で出来たムチを持っており、言いつけを守らない生徒を、罪の重さに応じて規定の回数ビシビシ打ったという。ヒッチコックはフランソワ・トリュフォーとのインタビューに答えて、何かムチで打たれる様な悪いことをしたのではないかという恐怖心が常にあり、体罰が恐ろしくていつもビクビクしていたと当時を振り返っている。

さらに、悪とは何か、善とは何かを考えるきっかけにもなったとして、カレッジで学んだことがいかに映画作りに役立っているかを、皮肉まじりに語っている。また体罰そのものよりも、エンマ帳に彼の名前がメモされ、放課後改めて呼び出しを受けるまでの「猶予時間」こそが、体罰それ自体よりも恐ろしかったと強調しており、これはまさにヒッチコックが観客をジワジワと怖がらせるために用いた、彼の映画手法と同じであるともいえる。

「鳥」の宣伝写真で、おどけた表情を見せるヒッチコック。

1914年、第一次世界大戦勃発の年に、父親のウィリアムが心臓麻痺のため52歳で急死。ヒッチコックは15歳になったばかりだった。兄が家業を継ぐことになり、アルフレッドも聖イグナチウス・カレッジを去り、手に職をつけるための訓練校である海洋技術専門学校に入学。そこで技師になるために必要な電気工学などを学んだ後、W・T・ヘンリー電信会社に勤め始める。当初ヒッチコックの担当は海底ケーブルの電力測定だったが、単調な仕事に飽き足らなくなった彼は、同社の広告デザイン部門へ押し掛けて、難なくグラフィック・デザイナーとしての仕事を得てしまう。そこで広告やチラシのデザインを始めたヒッチコックは社内報の編集も手伝い、時には自分で書いた短編小説も掲載した。その中の一作である『Gas』は、パリに出かけた英国人女性がギャングに誘拐され、セーヌに投げ込まれる話だが、最後にはそれが全て、その女性が歯医者の診察台の上で空想した事だったという、いかにもヒッチコックらしい話のオチがついている。

こうして彼の社会人生活が始まったわけだが、仕事の後は同僚たちとパブへ行くわけでもなく、ロンドン大学のイブニング・コースでドローイングを習っていた。そして休日には一人でアメリカ映画を観に行き、映画産業の業界誌を眺める毎日だったという。

映画との関わり

幼い頃から人付き合いが悪く、一人で過ごす時間の多かったヒッチコックだが、芝居好きだった両親の影響もあり、16歳頃から映画や演劇に興味を持ち始めた。好きな映画はチャップリンやD・W・グリフィス作品。当時人気のあったバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクスの出演作も観たという。また、F・W・ムルナウやフリッツ・ラングといったドイツの巨匠が作りあげる奇妙な世界にも心惹かれていた。映画雑誌も多く購読したが、それはよくあるファン雑誌ではなく、制作に関する技術雑誌や業界誌ばかりだったとされている。「監督になるつもりは全くなかった」と語るヒッチコックだが、何らかの形で映画の世界に関わりたいという気持は常にあったようだ。

1919年、そんな彼にいよいよ転機が訪れる。いつものように読んでいた業界誌に、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー(Famous Players-Lasky:のちのパラマウント社)という米映画会社のロンドン支社設置のニュースが載っていた。イズリントンに撮影所を建設中で、製作予定作品のラインナップも発表されている。ヒッチコックは早速自分なりに字幕デザインのサンプルを作り上げると、映画支社に駆けつけた。そして自分の作ったデザインを見せると、「映画を撮影する際に必要になるだろうから置いて行きます。ご自由にお使いください」と言ったという。生来の性格に似合わぬ強気の行動には驚かされるが、ヒッチコック自身「若くて物を知らないからできた事だ」と回想している。

このおかげでフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社の字幕制作班に配属されることになったヒッチコックは、そこで数多くのアメリカ人脚本家たちと知り合い、シナリオの書き方を学んでいくことになる。

サイレント映画では、俳優は口を動かしているだけで、セリフはそのあとに字幕で出る。つまりテキスト次第で登場人物にどんなことも言わせることができるため、字幕テキスト上で脚本が書き直されることも度々あったという。わずか3年後、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社は業績不振により閉鎖されるが、その間にヒッチコックは映画作りの過程を内側から観る幸運に恵まれ、字幕制作はむろん、脚本や美術なども手掛け、助監督的な仕事すらこなすようになっていた。ヒッチコックの未完の処女作『第十三番』はこの頃作られたコメディだが、ヒッチコックの言葉を借りれば「ハリウッドでチャップリンと仕事をしたことがあるというだけで、皆に天才扱いされていた女性」―アニタ・ロスの脚本によるお粗末な作品だったようで、ヒッチコック自身はこの作品を処女作と呼ばれることを嫌っている。幸か不幸かフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社がロンドン支社を閉鎖したため撮影も中止になり、この作品は「世に出ないで済んだ」のである。

凝り性だったヒッチコック
驚きのエピソード

下宿人/ The Lodger: A Story of the London Fog (1926年)

【あらすじ】2階に住む下宿人が殺人犯である可能性が濃厚になり、それに気づいた娘と恋人が小声で話し合っていると、頭上で下宿人が神経質に歩き回る足音が聞こえてきて…。

この時代はまだサイレント映画。ヒッチコックは大きな透明のガラス板を天井にはめ込み、その上を歩き回る下宿人を下から撮影することで足音を表現した。観客は2階の床の上を歩く殺人者を、まるで自分の頭に思い描いたかのように見ることができる。


断崖/ Suspicion(1941年)

【あらすじ】浪費家でウソつきの男性と結婚してしまったヒロイン。彼女は夫が殺人者で、いつか自分も殺されるのではないかと思い始める。ある日、夫が妻に飲ませるため、毒入りのミルクを持って階段を上がってきて…。

このシーンでヒッチコックは、観客の眼がミルクの入ったコップだけに注がれるように、ミルクの中に豆電球を入れている。おかげでミルクの白さが輝く印象的なシーンが出来上がった。


ロープ/ Rope
(1948年)

【あらすじ】ニューヨークの高層マンションの一室で、ある日の夕方から夜までの1時間45分の間に起きた殺人事件を、進行時間そのままに映画に置き換えた。カメラは切れ目なくワンカットで事件を追っていく…。

マンションの外景は、遠近感を出すためにマンションのセットより3倍大きくつくり、透明なワイヤーで雲も浮かべた。さらにスタッフたちがこの雲を少しずつ移動させ、時間の経過を表現した。


北北西に進路を取れ/ North by Northwest(1959年)

【あらすじ】米情報部が敵のスパイを欺くために作り上げた「架空の人物」に間違えられた男性が、スパイたちから命を狙われ…。

主人公が駆け込んだ国連本部の建物は、内外とも全てセット。国連内での撮影は禁止されていたため、隠しカメラで資料になる写真をこっそり撮影し、本物と一分も違いがないように作り上げた。これはヒッチコックが常にこだわる点で、どの作品も実際の場所で撮影できない場合は、本物そのままのセットを作り上げて再現した。


鳥/ The Birds(1961年)

【あらすじ】屋根裏部屋に向かったヒロインが、突然鳥の群れに襲われ…。

機械仕掛けの精巧な鳥や調教された鳥を使うことも考えたヒッチコックだが、結局はヒモで足を結わえた本物の鳥を大量に使った。そのため、ヒロイン役のメラニー・ダニエルズは実際に鳥たちに襲われ、顔などに深い傷を負った。これが原因で、彼女とヒッチコックの関係は不和になったと言われる。なお、鳥の不気味な鳴き声や羽ばたきの効果音は、作曲家のバーナード・ハーマンが電子音を使い編集した。

監督としての出発/伴侶との出会い

「山鷲」の宣伝写真に映るヒッチコック(カメラの右手前で指を差す人物)。その後ろにいる女性は、のちに妻となるアルマ・レヴィル。

1922年にフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社が撤退した後、英国の映画会社であるゲインズボロ・ピクチャーズ(Gainsborough Pictures)が撮影所を買い取り、ヒッチコックを始めとする多くのスタッフが、そのまま撮影所に残ることになる。ヒッチコックはここで助監督として5本の作品を撮っているが、そのうちの『女対女』(1922)を作るにあたり、アルマ・レヴィルという女性をフィルムの編集に抜擢する。後にヒッチコックの妻となる彼女は、これ以降57年にわたり常にヒッチコックを影で支えるかけがえのないパートナー、そして彼の作品のよき理解者として存在していくことになる。

1926年、ケンジントンにあるローマ・カトリック教会「Brompton Oratory」で挙式した2人。

1925年、26歳のヒッチコックは初の監督作品『快楽の園』に着手する。オリヴァー・サンデスの原作を基にしたメロドラマ色の強いサスペンス物で、英独合作としてミュンヘンで撮影された。第一次世界大戦後の当時はヨーロッパ映画界の好況期にあたるが、なかでもドイツは映画製作会社ウーファ(UFA: Universum Film AG)に牽引され、『カリガリ博士』(1920) 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922) 『メトロポリス』(1927) といった数々の実験的で過激な名作を生み出し、ドイツ表現主義映画の隆盛期にあった。ヒッチコックはそこで英国映画にない最先端の技術や、斬新なカメラワークを貧欲に吸収していく。もっとも影響を受けた監督はF・W・ムルナウで、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『最後の人』(1924)などの斬新な演出で知られるこのサイレント期の巨匠から、「言葉に頼らず映像だけで映画を作ること」を学んだという。のちのインタビューでも「映像は映るものではなくて、つくるものだ」、つまり見えるものを単に映すのではなく、頭の中で厳密にイメージした映像を再現することが、結果的に映画のリアリズムに達する方法だと語っている。ヒッチコックの映画作りにおいて最も重要な点のひとつであろう。現にヒッチコックは全ての絵コンテを撮影開始までに完成させ、一度決まった構図は俳優の位置を含め1センチ足りとも動かさなかった。コンテをカメラマンに渡し、現場ではカメラを覗かなかったヒッチコックにとって、俳優の余計な動きや演技などは、煩わしいだけであった。

監督3作目にあたる『下宿人』(1926)は、写実を排し象徴や比喩をふんだんに用いるドイツ表現主義的手法と、ヒッチコックのストーリー作りが見事に融合した、「ヒッチコックらしさ」のあふれた最初の作品といえる。自分の作品中にこっそりカメオ出演することで知られるヒッチコックだが、この『下宿人』において初めてスクリーン上にその姿を見せている。本作のヒットで一躍有望な若手英国監督として認められた彼は、その後も矢継ぎ早に作品を発表していく。1928年には一人娘であるパトリシアも誕生し、ヒッチコックは公私ともに充実した日々を送る。

ハリウッドの英国人として

ヒッチコックが家族と共にハリウッドに移ったのは1939年。米国プロデューサーからの製作依頼がきっかけだった。ロンドンでは米国映画会社に勤めたこともあり、何より米国映画を偏愛していたヒッチコックにしては、このハリウッド行きは遅いようにも思える。映画監督フランソワ・トリュフォーは、ヒッチコックを「ハリウッドで映画を撮るために生まれてきた様な人間」といい、それにも関わらずヒッチコックが英国にしばらく留まっていたのは「こちらからノコノコ出かけて行くのではなく、ハリウッドから招かれるまで待っていた」とし、ヒッチコックの自尊心の強さが理由だろうと推測している。

この頃すでにヒッチコックは英国でもっとも才能ある監督の一人に数えられており、俳優より小道具に気を配るという評判や、「俳優は家畜だ」という毒舌でも知られ、ひねりのあるユーモアを持つ少々エキセントリックな人物という風評を得ていた。さらに、幼い頃から太り気味だったヒッチコックだが、肥満に関する問題は成人してからも続いていた。若い時から美食を好んだ彼は、撮影合間の昼食もフルコース並みだったという。お気に入りのメニューはステーキ、ポテト、サラダで、毎日好んで同じものを食べた。昼食に招かれた俳優たちは、その量の多さに驚いている。

また、ヒッチコックと言えば黒のスーツに黒のネクタイが定番だが、自宅のワードローブには何十着もの仕立ての良い黒いスーツが並び、どれもほとんど同じデザインだったとされる。まだ冷房装置もない時代、ライトの照りつけるスタジオで、背広も脱がずネクタイさえ緩めないヒッチコックの姿は、米国においてはかなり異質なものに映ったであろう。これは青果商の父親がいつもきちんとした服装で働いていたという、ヒッチコックの思い出に繋がっている。「レタスに敬意を表していたわけではなく、自分の仕事に誇りをもっていたから」ネクタイを緩めなかったのだとして、自分のスーツ姿にも同じ意味合いがあるとしている。

米国進出第1作目となった『レベッカ』の撮影風景。ローレンス・オリヴィエ=写真右、ジョーン・フォンテイン=同中央=と。 ©ABC/Disney/Buena Vista

米国での第1作は、英国の女流作家ダフネ・デュ・モーリアの小説を映画化した『レベッカ』(1940)。ヒッチコックはハリウッド進出当初、プロデューサーから英国がらみの作品ばかりを依頼されている。だが米国人の考える「英国」のイメージを忠実になぞらなければいけないことや、ロンドンの街中で男性がふつうに使う言い回しが、米国では「ホモセクシャル的」として、即座に書き直しを命じられてしまうなど、ヒッチコックは英米の違いにかなり頭を痛めたようだ。さらに、当時のハリウッドではミステリーやサスペンスなどのジャンルは「B級映画」と考えられていたため、ヒッチコックが出演依頼をした有名俳優たちの多くが、その依頼を断って来るという悲劇にも見舞われた。

ヒッチコックがハリウッドに移って間もなく、第二次世界大戦が勃発。1940年にはドイツ軍による英国本土爆撃が激化し、戦火は次第にヨーロッパ全土へと広がっていく。連合国に危機が迫っている時期に、一人ハリウッドで安穏としているべきではないと考えたヒッチコックは、1944年にロンドンへ飛び、フランスの対独レジスタンス運動を称賛する2本の短編作品を作り上げる。さらに翌年のドイツ降伏の際には、英国情報省(Ministry of Information)の依頼で、終戦直後のユダヤ人強制収容所の記録映画製作にも協力している。収容所を訪れたヒッチコックは、想像を遥かに超えた惨状に非常なショックを受けるが、いかなる状況であろうと目を背けずに記録しようと決意する。

だが出来上がった記録フィルムを観た英国政府は、その作品があまりにも残酷に描かれていることに驚き、これをお蔵入りにしてしまう。フィルムは、収容所で骨と皮ばかりになり、目の落ち窪んだユダヤ人たちの死体のアップと共に、赤い頬をして健康的な、収容所近隣に住む小太りの一般ドイツ市民を映し出しており、そこにヒッチコック自身のユーモアを交えた辛辣なナレーションがかぶさるショッキングな出来映えで、有刺鉄線に隔てられた2つの世界の違いをあますことなく捉えている。

英国政府は「敗戦から立ち直り、これから新たに国を建て直そうとしているドイツ国民に、このような物を見せるのはモラルに反する」というのを理由に上映を禁止。ヒッチコックは落胆し、冒頭の名言、「どんなに怖くても映画はしょせん映画だよ。一番怖いのは現実なんだ」を吐いた。ちなみに本作品にタイトルはなく、単に整理番号『F3080』、通称『Memory of the Camps』と呼ばれ、この作品が初めて日の目を見るのは、約40年後の1980年代後半、英国のテレビ・ドキュメンタリー番組『A Painful Reminder』としてであった。この時も、ショックを受けた視聴者からの非難がテレビ局に殺到したという。

写真左:『裏窓』のセットにてジェームズ・スチュアート=左=とグレース・ケリー=同中央=と。©Universal Studios
写真右:『めまい』のセットにてキム・ノヴァクと。©Universal Studios

愛妻家だったヒッチコック

写真前列の左からヒッチコック、孫のメアリー・アルマ、妻のアルマ、後列の左から一人娘のパトリシア、孫のテリー、娘婿のジョセフ。

自作のヒロインにクールなブロンド女性を起用することが多かったヒッチコック監督。だが彼の「ブロンド好み」は作品中のことに過ぎず、実生活において彼が生涯を通じて愛した唯一の女性は、妻のアルマ・レヴィルだった。彼女は小柄で赤毛の可愛らしい英国人女性で、巨体のヒッチコックと彼に寄り添う小さなアルマのおしどり夫婦ぶりは、映画界では有名だったという。ヒッチコックは仕事上で大切な決断をする際に「うちへ帰ってマダムに相談するよ」としばしば言ったそうで、アルマに対する彼の信頼の程が伺われる。

20歳のヒッチコックが字幕制作係としてフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社に入社した時、アルマはすでにスクリプト担当のベテランだった。それまで女性とつき合った経験もなく奥手だったヒッチコックは、明るく皆の人気者だったアルマになかなか声をかけることが出来ずにいたという。最初の出会いから実に3年後、ヒッチコックがアルマに仕事依頼の電話をかけたのがきっかけで、それ以降、彼女は常にヒッチコックを影で支える重要なパートナーになる。2人は1926年の12月に結婚するが、プロポーズはドイツでの撮影が終了し英国へ向かう船上で、アルマはヒッチコックの助監督として同行していた。あいにく折からの悪天候で船の揺れがひどく、激しい吐き気に悩まされていた彼女は、ヒッチコックの申し出に、口を覆ったままうなずいたという。

撮影のない時、ヒッチコックはアルマと一緒に過ごす時間を何よりも楽しみにしており、ほとんど外出もしなかった。インタビューでも、夕食後二人で一緒にソファに座り、黙って別々の物を読む静かな楽しみについて言及している。ヒッチコックはタイムズ紙を、アルマは小説を好んだが、それが次の作品のアイデアに繋がる場合もあったといわれる。1979年にヒッチコックが米国映画協会(American Film Institute)から功労賞を贈られた際、ヒッチコックは「この場を借りて、特に4人の協力者の名前を挙げてお礼をいいたい。—編集者、脚本家、我が娘パットの母親、そして素晴らしい料理を作る家庭人。—この4人とはいずれも我妻アルマ・レヴィルのことです。彼女なしでは、今の私も存在しないのです」とスピーチしている。

ヒッチコックは晩年、肥満が原因の病に悩まされるが、彼と同年齢のアルマも看護師に付き添われる毎日であった。アルマに先立たれ自分だけが取り残されてしまうのではないかという恐怖心は、ヒッチコックを酒びたりにし、プロダクション事務所から泥酔状態のところを担がれて帰宅することも度々あったという。「絶対に妻より先に死にたい。彼女なしでは生きて行けないから」と言われていたアルマは、夫の言いつけを守る様にヒッチコックの死を見届け、そのわずか2年後に死去する。

お茶の間の人気者に

『白い恐怖』(1946)以降、デヴィッド・O・セルズニックを始めとする、口うるさい辣腕米国プロデューサーとの契約が切れたヒッチコックは、自らのプロダクションを立ち上げ、以後全ての自作のプロデュースに携わる。これによりヒッチコックは水を得た魚のようにヒット作を放ち始める。

1955年以降は彼の最も創作活動の盛んな時期であり、『知りすぎた男』『めまい』『北北西に進路をとれ』『サイコ』『鳥』などを矢継ぎ早に発表する。さらにテレビという新しい映像媒体にも興味を向け、米テレビ・シリーズ『ヒッチコック劇場』(原題 : Alfred Hitchcock Presents)を総監修する。これは1962年まで放映された毎回完結の短編サスペンスドラマ・シリーズだが、どのエピソードにもユーモアやどんでん返しの妙味が効いた人気番組となった。葬送行進曲で始まるこの番組は、ヒッチコック自身も数エピソードを監督する他、自ら司会役を買って出て、番組内の冒頭と終わりに軽妙なユーモアを交えた解説を行い、一躍お茶の間に顔を知られることになる。このシリーズは日本を含む海外でも放映され(日本では朝倉一雄がヒッチコックの声を担当)、当時は新人であったロバート・アルトマン、アーサー・ヒラー、シドニー・ポロックといった現在米映画界で活躍する有名監督たちの作品も見ることができる。

写真左:『鳥』のセットにて ©Universal Studios
写真右:『ヒッチコック劇場』でおどけた司会役をこなすヒッチコック ©Universal Studios

1960年代に入ると、「ウーマンリブ」と呼ばれる女性解放運動が米国に吹き荒れる。ちょうど同じ頃、ヒッチコック作品のヒロインたちが皆「ブロンド美人」ばかりであるという批判が噴出した。確かにヒッチコックは好んでブロンドの女性を起用しており、中でもグレース・ケリーは大のお気に入りだった。ヒッチコックによれば、彼が都会的なソフィスティケートされた金髪美人ばかりを使う理由は、「内面に炎のように燃える情熱を秘めながら、表面は冷ややかに慎ましやかに装っている女性」の方が驚きや発見があり、サスペンスに向いているからとのことで、マリリン・モンローやブリジッド・バルドーのような開けっぴろげな性的魅力を持つ女性には驚きがない、と説明している。ヒッチコックが俳優を小道具のように扱うといわれる所以だろう。ベトナム戦争やヒッピー・ムーブメントが起こる中、ヒッチコック作品の登場人物たちは、ヒッチコックの黒いスーツ姿と同様に、次第に「時代遅れ」の様相を示し始めていた。

結婚後、ヒッチコックが妻や娘と暮らした家(写真中央/153 Cromwell Road, London SW5 0TQ)。1939年に一家でハリウッドへ移るまで13年間住んだ。

1960年代後半、長年ヒッチコックの手足となって働いてきたスタッフの死が相次ぐようになる。ヒッチコックの気性もクセも心得ていた彼らの死は、妥協をしないヒッチコックには大きな痛手であった。さらに、肥満が原因で次第に歩行に困難を感じ始めてもいて、『ファミリー・プロット』(1976)の撮影中に心臓発作を起こした彼は、歩くことができずに車の中から指示を出していたという。

次作『みじかい夜』のシナリオを前にスタッフと話し合うヒッチコックは、腎臓病と関節炎も併発しており、もはや自分が思うように映画を撮れない体であることに絶望していた。1979年5月、ヒッチコックは自ら「アルフレッド・ヒッチコック・プロダクション」の事務所を閉じてしまう。もう映画を撮ることができないということは、ヒッチコックには死を意味していた。『たかが映画じゃないか』といったサスペンスの巨匠にとって、映画は彼のすべてだったともいえる。翌年の4月29日、アルフレッド・ヒッチコックはビヴァリー・ヒルズの自宅で眠ったまま息を引き取る。80歳であった。死の半年前にナイトの称号を受けていたため、5月8日に故郷のロンドン、ウェストミンスター寺院で国葬扱いの礼拝が行われる。だが生前の希望通り遺体は米国で火葬にされ、遺灰は太平洋に散布された。2年後には妻のアルマの遺灰も、同じ場所で散布されたという。

東ロンドン・レイトンストーン生まれのアルフレッド・ヒッチコック卿の人生は、チャンスと才能と生涯の伴侶に恵まれ、好きなことだけをやり通した幸福な一生だったといえる。

ヒッチコックが『サイコ』を制作するまでの葛藤を描いたスティーヴン・レベロのノンフィクション小説『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』をもとに、現在ヒッチコックその人を描いた映画が製作中だ。ヒッチコック役はアンソニー・ホプキンス、妻のアルマをヘレン・ミレンが演じるという。また、『鳥』をジョージ・クルーニーとナオミ・ワッツでリメイクする企画も進行中とのことだ。世の中に怖がりたい観客がいる限り、ヒッチコックの名は忘れ去られることはなさそうだ。


週刊ジャーニー No.1280(2023年3月2日)掲載