●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功
■第一次世界大戦下のブリュッセル。病院で負傷兵の看護にあたっていたイーデス・カヴェル(Edith Cavell)らだったが、同時にレジスタンスから接触を受け、ベルギー内に取り残された英仏軍兵士を中立国オランダに脱出させる危険なミッションを手伝っていた。しかしついにドイツ秘密警察に逮捕され、軍法会議にかけられた末、イーデスに死刑判決が下った。
2人の牧師
死刑判決を受けた翌日、イーデスは遺書をしたためた。1通は母親にこれまでの感謝と別れを告げるもの。もう1通は見習い看護婦たちに宛てたものだった。それは「親愛なる皆さん。悲しいことですがお別れを言わなければなりません」から始まった。そして厳しい指導に堪えて立派な看護婦に成長した生徒たちを称える言葉の数々を紡いだ。最後に「もし私のことを恨んでいる人がいたとしたら、どうか私を許して下さい。私は時に厳し過ぎたかもしれません。ですが誰も不公平に扱ったことはありません。私はあなたたち全員を心より愛していました。今まで本当にありがとう。あなたたちのことが大好きな看護婦長 イーデス・カヴェル 1915年10月10日」と締めくくられていた。
翌10月11日。ドイツ人牧師ポール・ル・シュールは憂鬱な足取りで刑務所内廊下を歩いていた。今からイーデスに死刑執行の日時を伝えなくてはならない。フランス語ができる自分を呪った。
独房の前に着くと看守が開錠するのを待った。ドアが開いた。イーデスは背筋をピンと伸ばして立っていた。牧師は軽く会釈し「入ってもよろしいでしょうか」と尋ねた。イーデスは静かに頷いた。牧師が自己紹介を終えると、イーデスは穏やかな口調で尋ねた。
「私にはあとどれくらい時間が残されているのでしょうか」。
真っすぐに牧師を見詰めるイーデス。牧師は少したじろぎながら答えた。
「残念ながら、明日の朝までです」。
イーデスの頬はたちまちピンク色に染まった。瞳は走馬灯を見ているかのように細かく動揺した。牧師が祈りを捧げても良いかと尋ねるとイーデスは申し訳なさそうな表情で首を横に振った。そこで牧師はブリュッセルにアイルランド人の英国国教会牧師がいることを告げ、彼の聖餐(せいさん)を受けたいかと尋ねた。途端にイーデスの瞳に生気がみなぎり、感謝と共にその申し出を受け入れた。
牧師はイーデスに別れを告げるとアイルランド人牧師宅へと急いだ。アイルランド人牧師はスターリング・ガハンと言った。ガハンは留守にしていた。ドイツ人牧師は「英国人女性に死が迫っている」と書いたメモをドアに挟んでその場を去った。その頃、アメリカやスペインのブリュッセル駐在公使らは「彼女は看護婦としてドイツ兵の看護もしていた立派な人物。死刑は過酷過ぎる」とドイツ政府に宛てて刑の見直しをするよう除名嘆願の手紙を書き続けていた。
最後の晩餐
ガハン牧師が帰宅したのは午後6時半頃だった。メモを見て驚き、聖杯や聖瓶など聖餐の支度をしてから刑務所に向かった。到着したのは午後9時半を過ぎていた。刑務所のゲートで来訪を告げると看守の一人が「素晴らしい女性です」と言いながらイーデスの真似をして背筋をピンと伸ばした。
独房に案内されるとイーデスが穏やかな表情でガハン牧師を迎え入れた。イーデスは木製の椅子を牧師に薦めた。どちらからともなく静かな会話が始まった。牧師は今も多くの人が助命のために動いているので希望を捨てないようにと告げた。しかしイーデスは裁判の結果を批判することなく喜んで祖国のために命を捧げるつもりだと答えた。そして「ここの方々はどなたも親切な方ばかりでした」と収監されてから過ごした独房での穏やかな10週間に感謝した。
続けて「死は怖くないのです。これまでさんざん人の死を見てきましたから。死は珍しいことでも恐れることでもありません。ただ、何とも忙しく、難しい人生でした」と言って微笑んだ。次の瞬間、イーデスは一転して表情を引き締め、自らに言い聞かせるようにして言った。「神と来世を前にして一言だけ言わせて下さい。私は分かったのです。愛国心だけでは不十分です。私は誰も憎んだり恨んだりしてはならないのです」。ガハン牧師は圧倒された。それは隣人同士が殺し合う、愚かな戦争に対する痛烈な批判だった。ドイツ人を含む多様な国々から来た献身的な女性たち数百人を一人前の看護婦に育て上げて来たイーデスだからこそ、辿り着いた心境だった。
長い沈黙を破ったのはガハン牧師だった。「私たちはあなたのことを理想の女性、そして偉大な殉教者として記憶し続けるでしょう」。イーデスは首を横に振りながら答えた。「そのようなお考えはお止めください。私は職務を全うしようと努めた一人の看護婦にすぎません。それで十分です」。
2人はベッドに腰かけ、椅子の上に置いた聖杯を傾け、ウエハースを口に入れた。最後の晩餐だった。その後2人は祈りを捧げた。最後に牧師が「主よ、私のそばに」と繰り返した。イーデスは牧師の手に自分の手を重ね「主よ、私のそばに」と続けた。
1時間ほどが経った。ガハン牧師は静かに立ち上がり「そろそろ行きます。あなたもお休みになった方がいい」と告げた。イーデスは「そうですね。明日は5時起きですので」と乾いた冗談を返した。去り際、2人は固い握手を交わした。イーデスは微笑みを浮かべて言った。「また、お会いしましょう」。ガハン牧師は一瞬言葉を失い「ええ、きっと」と答えるのがやっとだった。イーデスは閉まるドアの向こう側にゆっくりと消えた。
ガハン牧師を見送ったイーデスは妹のように可愛がっていた同僚のエリザベス・ウィルキンスに最後の遺書をしたためた。借入金の返済や小切手の処理、帳簿への記入など経理上の引継ぎの他、養成校の玄関ホール用に柱時計を買うよう依頼するなど、死の直前まで遣り残しがないよう細心の注意を払った。それが終わるとこれまでの献身に対して最大級の賛辞と礼を述べ、養成校の未来をエリザベスに託した。
そして「皆さんのことが大好きでした。怖くなどありません。幸せなのです。さようなら。E・カヴェル 1915年10月11日 」と締めくくった。生真面目なイーデスの生きざまを象徴するかのようなラストメッセージだった。
凛として
10月12日、イーデスは朝5時に起床して洗顔を済ませるとベッドを綺麗に片づけた。持ち物を整理すると櫛で髪を綺麗にといた。そして裁判の時と同じ白いブラウスに濃紺のジャケットをかちっと着こなし、グレーのショールを羽織って静かにその時を待った。
午前6時、独房のドアがノックされた。イーデスは外で待っていた車に乗り込んだ。車は夜明け前のブリュッセルの街をひた走り、郊外にある射撃場に到着した。そこにはイーデスを追い詰めた検察や刑務所所長らの他、兵士や憲兵などおよそ250名が待機していた。銃弾を受け止めるために土が盛られたスロープの前に白い柱が立てられ、その横には黄色い棺桶が置かれていた。
午前7時、イーデスはル・シュール牧師と共に白い柱に向かって歩みを進めた。前日降った雨のせいで地面が少しぬかるんでいた。歩きながら牧師は神の恵みを説いた。イーデスが口を開いた。「私の心は晴れやかです。神と祖国のためにこの命を捧げます」。
柱の前まで来るとイーデスはゆっくりと振り返った。そして周囲がはっとするほど凛とした姿で立った。後ろから目隠しをしようとした兵士はイーデスの頬を伝う大粒の涙に気がついた。16人の銃殺隊が2列になって銃を構えていた。
士官の号令と共に銃が一斉に火を噴いた。イーデスはその場に崩れ落ちた。心臓と眉間を撃ち抜かれていた。医師が駆け寄りその場で死亡が宣告された。イーデスの遺体は棺桶に入れられ、墓標もないまま埋葬された。魂のナース、イーデス・カヴェル。49年の忙しく、難しい人生の幕が下りた。
利用された死
イーデス処刑を知らせるニュースが英国を駆け巡ったのは処刑から6日経った10月18日のことだった。タイムズ、デイリー・メール、エクスプレスなど各紙が一斉に英国人女性の非業の死を伝え、ドイツ軍の残虐性を書き立てた。同21日、トラファルガー広場近くのセント・マーティンズ教会で盛大な追悼ミサが催され、多くの市民が弔問に訪れた。
イーデスは隣人同士の愚かな戦争を嘆き、誰も恨むべきではないと言葉を残して逝った。しかしイーデスの死はたちまち軍部によって国威発揚のプロパガンダに利用された。「英国の若き兵士たちを救ったヒロインの死を無駄にすることなかれ。男子よ、銃を取って戦え」と煽り、若者たちの自発的入隊を促した。
アメリカでも参戦の機運が高まった。イーデス・カヴェル戦争記念委員会が結成された。ケンジントンガーデンのピーターパン像作者として知られる彫刻家ジョージ・フランプトンはカッラーラ大理石とグレーのコーンウォール御影石を使ったイーデスの像を無償で彫り始めた。イーデスは遺志に反して英国のヒロインに祭り上げられていった。
静かな帰郷
1918年11月、第一次世界大戦終結。翌1919年5月13日、鉛製の棺桶に移し替えられたイーデスの亡骸が英海軍戦艦ロウェナに載せられてドーバーに向かった。ドーバーでは教会の鐘が3時間に渡って鳴り響いた。
同14日早朝、ドーバーから列車でロンドンのヴィクトリア駅へ。そこからウエストミンスター寺院へは砲車に載せられた。イーデスの葬儀は民間人には極めて異例な国葬で行われた。その後、ノリッチ大聖堂に移され、そこでも荘厳な追悼式が執り行われた。イーデスは生まれ故郷であるノリッチ近郊のスウォーデストン村で眠る父の墓の横に埋葬されることを望んでいたが、世論がそれを許さず、大聖堂の南側に埋葬された。
1920年3月、トラファルガー広場に近いセント・マーティンズ・プレイスにジョージ・フランプトン作のイーデス・カヴェル記念碑が建てられた。
イーデスが処刑された日から約2ヵ月後、パリで1人の女児が誕生した。献身の英国人看護婦の姿に感銘を受けた両親は女児をイーデスと名付けた。イーデスはフランス語でエディットと発音した。女児はのちに「バラ色の人生」や「愛の賛歌」など数々の名曲を歌った世界的シャンソン歌手、エディット・ピアフとなった。 (了)
※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。
本紙編集部が制作したユーチューブ動画
「英国ぶら歩き」シリーズNo81「銃殺された信念のナース イーデス・カヴェル」も併せてご覧ください。
週刊ジャーニー No.1298(2023年7月6日)掲載