
■ 新しい土地の発見とその植民地化をめぐり、欧州がしのぎを削っていた時代、ヨークシャーの港町でロンドンへ向かう大型船を眺めては、彼方への憧れを膨らませていたジェームズ・クック。「遠くへ行ってみたい」という強い想いは彼を航海士にし、やがて名船長「キャプテン・クック」としてその名を広く知られるまでに成長した。ハワイを発見するなど世界地図を塗り替える偉業を成し遂げながらも、異国の地で悲劇的な最期を迎えた「海の男」の生涯の後半をお届けする。
●Great Britons●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部
伝説の南方大陸探索
ケベックとニューファンドランド島海域の正確な海図の作成により、英海軍本部と王立協会に高く評価されたクックは、ニューファンドランド島から戻った翌年、ついに世界を一周するチャンスを得る。「金星の太陽面通過」の観測を目的とした、南太平洋への出航指令であった。
金星の太陽面通過とは、金星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象で、19世紀まではこれが太陽系の大きさを測定するためのほぼ唯一の手段だった。そのため、欧州各国で観測隊が結成されていた。クックは18世紀に起きた2回目の太陽面通過にあたる、1769年の現象観測のため、英国からタヒチに送り込まれたわけである。ちなみに、20世紀は0回、21世紀は2004年と2012年の2回の通過に恵まれた。次回は、なんと2117年の予定だ。
1768年、海尉(commanding lieutenant)に任じられたクックは、「HMSエンデバー号」の指揮官となる。エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、小型ではあるが、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけだった。
8月初旬に乗員94人で英国を出帆したエンデバー号は、南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチに翌年4月13日に到着。クックはタヒチに到着する前に、現地の住民と友好的に接すること、彼らの生活習慣を尊重し人間的に扱うこと、そして勝手に船内の機材を物々交換に使用しないことなどを船員たちに言い渡していた。これは異文化や人権尊重の立場からというより、自分たちの命を守るためであった。食料の調達や太陽面通過の観測を安全に行うには、現地人の協力が不可欠だからだ。彼らとのやり取りはほとんど身振り手振りで行われ、双方がおっかなびっくりの状態で、小競り合いなどはあったものの、タヒチ人は総じて好意的であった。
金星観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての英海軍からの秘密指令を開封。するとそこに書かれていたのは「南半球にあるという、北半球の大陸と同サイズの土地、伝説の南方大陸テラ・アウストラリス(Terra Australis)を探索せよ」という指令であった。実はこの航海の「本命」は天体観測ではなく、ライバルの欧州諸国を出し抜いて南方大陸をいち早く発見し、伝説の富を手に入れることだったのである。
南太平洋の地理に詳しいタヒチの青年の助力を得て、翌1769年10月6日、クックはヨーロッパ人として史上2番目にニュージーランドに到達。海岸線のほぼ完全な地図を作製し、ニュージーランドが南方大陸の一部ではないことを確認した。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡も発見し、同所は現在「クック海峡」と呼ばれている。一行はこの後さらに北西へ向かい、オーストラリアの東海岸に西洋人として初めてたどり着く。だが、海岸線を北上し西にまわったことで、オーストラリアはニューギニアと繋がっていないことが判明、「巨大な南方大陸」も存在しないように思われた。
さて調査も終盤に掛かった頃、エンデバー号の船底が浅瀬で珊瑚礁に衝突するという事故が起こる。折しも大暴風雨の最中で、船には大量の海水が流れ込んだ。上下左右にキリキリ舞いする船内で、クックと船員は50トン近い積荷を海中に投げ出し、藁や布を使って応急処置を施す。誰もが「もうダメかもしれない」と感じた数日だったが、幸い嵐が治まり、エンデバー号は危機を絶え抜いたのだった。
また、長い船旅につきもののビタミン不足から来る壊血病は、当時は死に至る病として恐れられていた。クックの知恵によって誰もこの病にかかることなく航海の前半を終えられたのは、当時としては快挙であった(前編のコラム参照)。しかし、帰国途中に船の修繕のために寄ったジャカルタで、船員たちがマラリアと赤痢に感染。多くの死者がでてしまう。出発からここまでの27ヵ月の航海ではわずか8名だった死者は、ジャカルタ滞在中の10週間で31名に達してしまった。クックはひどく心を痛め、船長としての責任を果たせなかったことを悔やんだ。
一行は1771年6月12日、イングランド南部のダウンズに帰着。3年に渡る大冒険は終了する。帰国するとすぐ航海日誌が出版され、クックは科学界で時の人となった。
マオリ族に食べられる
先の航海で多大な功績を残したクックは、海尉艦長(commander)へと昇進。帰国の1年後に再び海上の人となる。今回の船は「HMSレゾルーション号」で、使命は再び南方大陸の発見と、正確な緯度や経度を測定できるという新しいマリン・クロノメーターの試用だった。王立協会は前回の捜査結果にもかかわらず、「オーストラリアの先に南方大陸があるのでは」としつこく考えていたのである。
クックはオーストラリアのさらに南を行き、1773年1月17日に西洋人として初めて南極圏に突入。あと1歩で南極大陸を発見するところだった。ところが、帆船での南極圏航行は困難を極め、船内の食用家畜が次々に死亡し、船員たちの間に壊血病が流行り始めた。クックはこれ以上の南下は不可能とみて、引き返すことにする。「南方大陸は人類が居住可能な緯度には存在しない」というのが結論であった。クックはレゾルーション号のほかにアドベンチャー号を従えていたが、この船はたびたびレゾルーション号とはぐれたうえ、ニュージーランドのマオリ族に捕らえられて、10人の船員が殺害・解体され、マオリ族に食されてしまった。クックは後に、遺体の残骸が入ったバスケットを見ることになる。
また、ニュージーランドの再訪に関して、クックは航海日誌にこう記している。「この国の女性は他の南海の小島の女性たちより貞淑だった。だが、西洋人との接触のせいで彼らは堕落してしまった。男性たちは貿易のために率先して自分の妻や娘を差し出すのだ。この国に西洋人は何をもたらしたのか。文化ではなく、梅毒や低級なモラルではないのか」。フロンティアの開拓者として悩む真摯な人柄が垣間みられる。
クックは帰国後、直ちに勅任艦長(post captain)に昇進。同時にグリニッジの海軍病院の院長に任命された。壊血病の予防に貢献したとして、王立協会からメダルを受け取り、特別会員に推挙もされたが、クックはまだ48歳。海から離れた暮らしも、メダルをぶらさげてグリニッジに落ち着く自分も想像できなかった。
そんな折、海軍大臣のサンドウィッチ伯爵から3回目の航海を勧められる。すぐに飛びつきたい気持ちはあったが、前回の旅から1年も経っておらず、拭い去れない疲労が蓄積していた。そして常に海水に脚をさらす生活で、リューマチも発症していた。
だが、この機会を逃すともう2度と冒険に出られないのではないかという恐れから、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる3回目の冒険に出る。1776年6月25日、準備不足のまま、何かに追い立てられるようにしてレゾルーション号で出発。僚船は「ディスカバリー号」だった。
神とあがめられた末路
今回は、アジアへの最短航路と考えられていた「北西航路」の発見が目的だった。欧州から北西に向かい、北米の北側をまわってアジアに至るルートで、当時はまだ仮説に留まっていた。つまり北極海をまわって大西洋と太平洋のつなぎ目を見つけようというのである。
クックらは北へと進路を取り、1778年1月にハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人になる。一行はカウアイ島の南西部に上陸し、時の海軍大臣であったサンドウィッチ伯の名前をとり、ハワイを「サンドウィッチ諸島」と命名した。
ハワイはこの時ちょうど農耕神のロノを讃えるマカヒキ祭の最中だった。古来からロノ神は海から現れるという言い伝えがあり、白い帆を掲げた巨大な船は、彼らにとってはまさにロノ神の乗り物に見えたのだった。こうしてクックらは恭しく現地の人々から迎えられた。特に艦長であるクックの姿は神として認知され、人々はクックの足下に跪いた。また、後のカメハメハ1世として知られるハワイのカリスマ王は、クックの訪問時はまだ25歳の若者だった。198センチの身長を持つ威風堂々としたカメハメハの姿に感銘を受けたクックは、「若くて荒々しい戦士」と日誌にその印象を残している。
結局、ハワイを拠点にしながら行った北西航路の探索は、ベーリング海峡の氷山と流水に行く手を阻まれ、その先に進むことはできなかった。
1779年に北西航路の探索からハワイに戻ったクック一行は、ケアラケクア湾で船を整備し、英国へ向かおうとする。クックを神とあがめた住人たちや、常に協力的だった王も見送りに現れ、感動的な別れが繰り広げられた。ところが、出発したばかりのレゾルーション号のマストが、強風で半分に折れてしまう。そればかりか古傷である船底の穴も開き、航海不能の事態に陥る。やむなくケアラケクア湾に戻るが、それが運命を大きく分けることになる。
事故で戻ってくるとは、クックは神ではないのではないか――。住人たちは怪しみ、王の詰問にクックが答えている最中、一発の銃声が鳴り響く。それはディスカバリー号からで、同船の船長の銃だった。彼は大勢でやって来た住民たちが、船の備品に手を付けたことに気を揉み、威嚇のつもりで空砲を撃ったのである。しかし、これまで友好的だった船員による威嚇は、住民たちを怒らせるに十分だった。クック一行はあっという間に住民たちと敵対関係に陥る。
緊張の高まる2月14日、船から盗まれた大工道具のカッターが原因で、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまう。船の修理に必要な道具類は、何としても失うわけにはいかない。「塵一つに至るまですべて返還しろ」と強硬な態度に出た一行に住民たちは怒り、ヤリと投石で攻撃。クックらも住民に向けて発砲するが、多勢に無勢、退却を余儀なくされる。そして背中を向けゆっくり歩き始めたクックは、追って来た住民に後ろから石で頭を殴られ、さらに後から追いついた住民たちに次々に組み敷かれた上、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。享年50。この戦いでクックとほかの4人の船員、17人の住民が死亡した。
クックの遺体は住民たちに持ち去られ、次の日、解体された体の一部が住民の手により届けられた。きれいな布に包まれていたという。3晩にわたって頭蓋骨、腰の骨、塩漬けにされた右手などを残していき、それらは宗教の儀式に則って、クックの遺体を住民たちで食べたことを表していた。崇拝されたクックの肉を体内に採り入れることで、自分たちもその力を得ることができる、というのが彼らの考えであった。残った船員たちはクックの骨を正式な海軍の作法で水葬にし、半年後の1780年10月4日、英国に帰還した。
クックがなぜ最後の瞬間にゆっくり歩いていたのか、その理由はわかっていない。疲れ果てて戦う気持ちを持てなくなっていたとも、体調がひどく悪化していたとも言われているが、真実は本人が知るのみである。クックの最期は悲劇的なものではあったが、彼の望んだ「限界を定めぬ冒険家」としては、まさに理想的なものだったと言えるのかもしれない。
夫亡き後のエリザベスの生涯

海洋探検家を夫に持ったエリザベスは、ほとんどいつも地球の裏側にいる夫の留守を守りながら、手紙でのやりとりさえままならない中でどのような思いで暮らしていたのだろうか。20歳で結婚し、クックがハワイで落命した時はエリザベスはまだ38歳。彼女が実際にクックと一緒に過ごした時間は、すべて合わせても4年に満たなかったという。
そんなにも短い中でも子どもには恵まれ、3人の息子を女手ひとつで育て上げた(6人の子を出産するが、3人は夭折)。彼らはクックの血を受け継いだ優秀な人物に育ったが、海軍に入隊した次男のナサニエルは、クックの死のわずか9ヵ月後にジャマイカで遭難。享年16だった。また、海軍の海尉艦長(commander)となった長男のジェームズも、海上事故により31歳で死去。その数ヵ月前には、ケンブリッジ大学の学生だった三男のヒューも猩紅熱で病死している。
夫ばかりか、その忘れ形見である息子たちも次々と亡くしたエリザベスは、彼らの命日には終日聖書を読んで過ごした。彼女を知る人によると「常に黒いドレスを着て、指にはクックの遺髪の入った指輪をして」いたという。
エリザベスは晩年、新婚時代から暮らしていた東ロンドン・シャドウェルの自宅を引き払い、南ロンドン・クラパムへ転居。夫のクックと死別してから56年が経った1835年、93歳で息を引き取った。
週刊ジャーニー No.1403(2025年7月24日)掲載


























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