●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部
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のあらすじ〉明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることの多いリーチだが、幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の「自分探し」の旅路の果てにたどり着いたのは、陶芸家として東西文化を融合させた独自の作品を生み出し、「東と西の架け橋」となることだった――。今号では、リーチの生涯を前編に続きご紹介したい。
中国での挫折、陶芸家の誕生
「銅版画を教えながら、愛する妻と懐かしい日本で暮らす」という大胆だが単純な希望を胸に1909年に来日し、5年の歳月を経て「東と西の架け橋」となることを目指し始めたバーナード・リーチ。それが最終的にどんな形を取ることになるのか依然わからないままだったものの、飽くなき探究心に突き動かされて、次の自分探しの旅路の地、そして最初の東西架け橋の地として中国を選んだ。
雑誌の投稿文をきっかけに、中国で暮らす怪しげなユダヤ系ドイツ人の思想家、アルフレッド・ウエストハープを知ったリーチは、彼の思想が自分の考えに近いと感じ、つてをたどって文通を開始。間もなく妻と幼い子どもを連れて中国へ渡った。
だが、その結果は惨憺たるものだった。日本のように西洋にかぶれる以前の「純粋な東洋」である中国において、東洋をさらに深く学ぶのと同時に、西洋のいい部分を同国へ接ぎ木しようという、いわば「啓蒙者」としての中国行きであったが、その壁は想像以上に厚かった。最終的にはウエストハープとの思想的不和により、リーチ一家は日本へ戻った。
がっくりと落ち込んで帰国したリーチに、柳宗悦はこう声をかけた。
「きみにはもう指導者はいらないのではないか。僕はウエストハープの思想よりも、きみの陶芸の方が素晴らしいと思うよ」
そして千葉県我孫子(あびこ)市にある柳所有の敷地内に、窯をつくったらどうかと誘ったのだ。英国へ戻ることも考えていたリーチだが、英国はおりしも第一次世界大戦の渦中にあった。リーチは家族の安全を考えて日本にいることを選び、本格的に陶芸家の道を歩むことにした。
当時の我孫子は何もない田舎町であったが、ここに突然リーチや白樺派の人々が現れ、一種の芸術家コロニーのような集落が形成される。中国で質のよい白磁や青磁を見たことは大きなプラスとなり、ここで5年にわたり腰を据えて、陶芸の生地や釉薬などの研究にいそしむ日々を送っている。
また、若き陶芸家の濱田庄司との出会いもリーチの世界を広げた。当時20代前半だった濱田はリーチの陶芸作品をすでに知っており、東京で展覧会を開いたリーチのもとを訪ねたのである。とくに濱田は釉薬の配合に関して、リーチが英語で話せる唯一の人物でもあった。濱田はのちに陶芸家として人間国宝に指定されるほどの巨匠に成長するが、リーチが英国へ戻り、コンウォールのセント・アイヴズに開窯する際には、濱田は助手として同行することになる。
リーチ・ポタリーの設立
10年以上におよぶ日本生活にピリオドを打ち、リーチが濱田とセント・アイヴズにやって来たのは1920年9月、33歳の初秋のこと。
コンウォール独特の美しさを持つこの港町は、当時はまだ石と海に囲まれた荒涼とした町だった。しかし、ここでは活動的な老婦人が「セント・アイヴズ手工芸ギルド」という組織を主催しており、彼女はこの組合に陶芸家を加えたいと考えていた。それを知ったリーチは会員に応募し、ギルドからの出資金で製陶所「リーチ・ポタリー」を建造したのである。「東西の融合」「中国の形、朝鮮の線、日本の色」を制作理念に、産業革命によって押し進められた「悪しき機械化の波に対抗しよう」というのが、リーチ・ポタリーの運営方針だった。
初めて英国を訪れた26歳の濱田は、口数も少なく手のかからない優秀な助手で、1人で町を散策し港を歩き回り、現地の英国人にも受け入れられていたようだ。港近くに住む漁師上がりの老人などは、毎週日曜日に決まって鯛を持って濱田の仕事場を訪れ、椅子に腰掛けて楽しそうに彼の仕事ぶりを眺めていたという。また、実直な人柄の濱田は幼かったリーチの子どもたちにも好かれており、リーチ一家のスナップ写真の中には、2人の子どもたちに挟まれ、手を握られている濱田の姿が残されている。
東京育ちの濱田にとってもコンウォールの自然と、そこに住まう朴訥とした人々は大きな好印象を残し、やがて日本に帰国した彼が、栃木県の片田舎である益子に窯を開くのは、益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと、セント・アイヴズでの暮らしが印象深かったためである。濱田は関東大震災の発生をきっかけに帰国を決意するまで、セント・アイヴズで4年を過ごしている。
さて、当初のリーチ・ポタリーでは、リーチと濱田を含む4人のスタッフによる、試行錯誤の状態が続いた。リーチは山の斜面などを利用して作られる日本式の登り釜を英国で初めて採用したが、ヨーロッパとは違うスタイルの窯で制作すること自体、温度調節も含め大変な苦労だった。さらに、粘土の違い、釉薬の違い、灰の違いなど、日本とコンウォールの地質や材料の違いもひとつひとつ吟味しなければならない。彼らは他所で手に入る質のいい土ではなく、その土地の材料を使うことを重んじたことから、その苦労もひと塩であった。
こうした様々なこだわりゆえにポタリーの経営状態は総じて不安定で、リーチはロンドンや日本でしばしば展覧会を開いたり、愛好家や収集家に作品を売ったり、町の人々や観光客相手に楽焼教室を開いたりして日々の生活をしのいだ。2度にわたって工房破産の危機も迎えたが、妻ミュリエルが父親から相続した遺産などでなんとか切り抜けている。
繰り返す離婚
1930~50年代のリーチは、ポタリーを離れる時間が増え、その間の管理は成人したリーチの長男、デヴィッドがあたった。日本で人気の高いリーチが、講演会や展覧会を日本で頻繁に開いてポタリー存続の資金を得ようと考えたことに加え、数々の女性問題による罪悪感が、リーチをポタリーから遠ざけたのである。
実母の顔を知らないリーチは、生涯を通して母性愛を欲していた。常に自分を受け止め支えてくれた妻ミュリエルには母親のような愛情を求め、その結果、異性愛はほかの女性で満たすというサイクルに陥ってしまったのだ。この問題は日本に滞在していた時からたびたび浮上していたが、リーチ・ポタリーで学ぶ学生で、秘書としても働くローリーとただならぬ関係になった彼は、「良き妻で母親」のミュリエルではなく、陶芸について深く語り合える同志のローリーを選ぶ。リーチは家族のもとを去り、24年間連れ添ったミュリエルと離婚。1944年にローリーと再婚している。
第二次世界大戦下ではセント・アイヴズはドイツ軍の爆撃を受け、リーチ・ポタリーも被害を受けた。ところが、ほかの製陶所が次々に閉鎖する中、リーチのポタリーは細々とではあったが持ちこたえている。戦時下のため展覧会向けの作品の需要はなかったものの、一般家庭向けの食器の需要があったからだ。そのため、安くて質のよいスタンダード・ウェアの制作に力を入れた。
やがて戦争が終わると、戦争中に工場生産された白い簡素な食器しか手に入れることのできなかった人々が、リーチ・ポタリーの暖かい色使いや手作りの風合いに魅せられ、人気が殺到。ロンドンの各大型デパートは、生産量の追いつかない商品の在庫を得ようと張り合った。
「自分」を見つけられたのか?
戦後、リーチは再び海外で展覧会を開くようになる。米国や日本をまわり、2年以上の長期にわたってポタリーを留守にしたこともあった。また、リーチは訪れた米国で新しいパートナーとの出会いも果たしている。相手は熱心なリーチ・ファンの陶芸家ジャネットで、彼女が単なる自分の崇拝者ではなく、時に歯に衣着せぬ物言いで発破をかける「母親のような強さ」を持つ面に惹かれたようである。リーチはローリーと離婚し、ジャネットと3度目の婚姻を結んだ。
今や高齢の域に達した69歳のリーチに替わり、ポタリーの運営はジャネットがあたった。彼女が取り仕切るようになって以降、ポタリーでは従弟の制度がなくなり、美大やほかの工房で基本訓練を受けた陶芸家たちが雇われるようになる。
リーチは視力が弱って引退する最晩年まで、ポタリーでの指導にあたっていたが、1979年5月6日、肺炎にかかってセント・アイヴズの病院で死去。92歳であった。盟友・濱田庄司は前年に亡くなっており、死の数日前、リーチは「夢で楽しく濱田と会話した」とジャネットに告げている。
東西文化の融合を陶芸によって完成させようとしたリーチだが、それは自分の中にある東洋と西洋の融合でもあった。幼児期から複数の国、複数の家庭、複数の文化に身をおいた彼は、絶えず自分をひとつに保とうと、もがいていたのではないだろうか。
数々の作品が生まれた リーチ・ポタリー
西洋初の日本式登り窯として1920年に開業したリーチ・ポタリーは、リーチの死後、3人目の妻ジャネットに引き継がれたが、彼女が亡くなると売却され、解体の危機にさらされた。 工房を救おうと、「リーチ・ポタリー再建運動委員会」が発足して募金活動が始まり、また日本でも柳宗悦や濱田庄司が館長をつとめた日本民藝館が中心となって、募金活動がスタート。晴れて2008年、新リーチ・ポタリーが完成した。
現在は、リーチの足跡をたどるミュージアムや若い陶芸家を育てるワークショップ、ギャラリー、ショップを備えた国際的な「陶芸センター」となっている。
The Leach Pottery
www.leachpottery.com
週刊ジャーニー No.1233(2022年3月31日)掲載