●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』といった児童文学の名作を生み出し、英国が誇る作家として現在も世界中の子どもたちを魅了するルイス・キャロル。写真家や数学者としての顔も持つなど、彼の生涯はいまだに謎に包まれている部分が多く、各時代や伝記作家によって描かれるイメージは大きく異なる。心優しい宗教家、頭の切れる無口な才人、またはポルノまがいの写真を撮る小児偏愛者…。
前編>に続き、数々のレッテルを貼られたルイスの素顔に迫る。

こだわり抜いた自費出版

ジョージ・マクドナルドの肖像写真

テムズ河でのボート下りを楽しんでいた夏の日に、ルイスが即興で語った、懐中時計を手に大急ぎで走り去っていく白ウサギの物語。自分と同じ名前の主人公が登場する冒険譚をとりわけ気に入った10歳のアリスが、物語の続きを知りたいと「お願い」したのがきっかけとなって執筆された『地下の国のアリス』は、ルイス自身が丁寧にイラストを描き加え、アリスに手渡されたことで完成を見た。それですべては終わるはずであった。ところが、ルイスの知人で彼が「師匠」とあおぐ詩人で聖職者のジョージ・マクドナルド(日本でも『リリス』などの妖精文学で知られる)から絶賛され、書籍化を強く勧められたことにより、事態は別の展開を迎える。ルイスはマクドナルドのアドバイスを受けて、この手書きの物語を一冊の正式な本として出版することを決断した。

ルイス・キャロル(中央)とジョージ・マクドナルドの一家

ルイスは文章に手を入れ、さらにプロのイラストレーター探しに乗り出す。児童書において挿絵がどれほど重要かを理解していた彼は、イラストレーターの採用に妥協するつもりはなかった。やがてその熱意に打たれた人気風刺雑誌『パンチ』の編集者を介して、売れっ子イラストレーターとして活躍するジョン・テニエルを紹介される。テニエルは観察眼が鋭く、また動物の生態に関する知識も豊富に持ち合わせていたため、ウサギをはじめ、芋虫やヤマネ、ウミガメやドードー鳥などの動物がぞろぞろ出て来るキャロルの物語には適任であった。

ただ残念ながら、2人の仲はあまり良好なものにはならなかった。自分のイメージにこだわるルイスは、しばしばテニエルのイラストに文句をつけ、出版にこぎ着ける頃にはかなり険悪なものになっていた。実は、本の出版費用は、イラスト代も含め全てルイス自身が負担することになっていたので、何に対しても彼は妥協することがなく、2人は終始ぶつかり合うはめに陥ったのである。

そうした困難を乗り越えた1865年11月、書名を『不思議の国のアリス』と改めて無事刊行された。人気イラストレーターが挿絵を描いていることもあって評判となり、好評を持って迎えられた。

蜜月の終わりと深まる謎

7歳の頃のアリス。リデル家の子どもたちは整った容貌をしていたが、なかでもアリスは「目力」が強かった。

さて、ケンブリッジ大学内のルイスの自室を頻繁に訪れるほど仲が良かったルイスとリデル家の子どもたちだが、手書きの「地下の国のアリス」が完成する時期を境に亀裂が入り、その深く大きなひび割れは二度と埋まることはなかった。

1863年6月頃まで彼らの関係は良好で、6月にはいつものようにピクニックへ一緒に出かけているし、ルイスの日記にもそのときの楽しげな様子が書き残されている。しかし、その次のページはどうしたことかカミソリで乱雑に切り取られ、次にリデル姉妹に関する記述が出てくるのは半年後。しかも、街で姉妹とその母親に偶然出会ったルイスが「私は彼らに対し超然としていた」と書き記しているだけである。半年前のピクニックで、一体何が起きたのか…? 肝心の日記が切り取られているため、詳細はわからない。これはルイスの死後に日記を整理した親族(彼の義妹)が、「一家のために公にしたくない事実があったため、切り取って削除した」と言われているが、真相は闇の中だ。

だが、この失われたページはドラマティックな憶測を人々に促し、ルイスが「幼いアリスに交際を申し込んで断られた」説や「長女のロリーナに結婚を申し込んで断られた」説などがささやかれた。この頃の次女アリスは11歳、長女ロリーナは14歳、一方ルイスは31歳である。現在の常識にしてみれば少々考えづらい話だが、ヴィクトリア朝時代の英国の法律では、なんと14歳からの結婚が認められていた。そのことから、もっとも可能性が高いと考えられる理由は、婚期の近づいた娘たちが独身のルイスと親密に会い続けることで「あらぬ噂」を立てられ、結婚のチャンスを逃すことを恐れた母親が、「これ以上、子どもたちと会わないでくれ」とルイスに告げた結果、ひと悶着あった――という説である。

でもそれにしては、果たしてページを切り取る必要があったのか…と、疑問が残るところだ。いずれにせよ、こうしてルイスとアリスの友情は突如終わりを迎えたのだった。

長男としての重責

そんな中、1868年にルイスの父親が急死。晩年はリポン大聖堂大執事という「高教会派」の重鎮となっていた父親の死は、ルイスにひどいショックをもたらした。父を尊敬し、彼の足跡を辿っていたルイスは後に、父親の死は「生涯最大の損失」であったと書いている。

長男のルイスはドジソン家の跡取りであるため、父の亡き後、家族を養う義務があった。当時36歳のルイスを筆頭に、11人きょうだいの誰も結婚しておらず、また自活しているのはルイスのみ。彼の銀行口座は、家族や親戚関係への送金のために、たびたび赤字を記録した。しかしながら一方で、多くのチャリティ団体への定期的な寄付や送金も絶対に欠かさなかった。

やがて1872年、アリスの冒険を描いた続編『鏡の国のアリス』を刊行。ガイ・フォークス・デーの前日、暖炉の上に掛けられた鏡を通り抜けて、またもや不思議な世界へ迷い込んだアリスの冒険を描き、ハンプティ・ダンプティなどの新たなキャラクターが登場する本作は、前作『不思議の国のアリス』に続く大ヒットとなった。

「ロリコン」伝説の誕生

晩年のルイスとアリス。ルイスは風邪をこじらせ、独身のまま65歳にて死去した。右の写真は、亡くなる2年前に撮影された80歳のアリス。クライスト・チャーチに入学したヴィクトリア女王の息子レオポルト王子と親しくするなど浮名を流し、28歳で裕福な地主の息子と結婚した。

40代に入ると、ルイスは自ら「老人」と名乗り、人付き合いを控えるようになった。180センチの細身の姿に白髪のまじったダーク・ヘアのルイスは、実年齢より若く見えるくらいだったが、精神的に老成してしまった彼は、一人で歩く長い散歩を好んだ。その距離にして、毎日30キロ以上。冬でも決してコートを着ずに、やがてそれが原因で命を落とすことになる。あれほど好きだった写真も、ある時期からパタリと撮影をやめてしまい、もともと細かい性格がさらに気難しくなる。大学構内の彼の部屋に供される「3時のお茶」の湯加減や、昼食のタイミングに対するクレームの手紙が現存し、そこには子どもたち相手に自作の奇怪なストーリーを語る、チャーミングな青年の面影はなかった。

著作に没頭するほか、オカルトやホメオパシー(身体の自然治癒力を引き出す自然療法)の研究にも熱心に取り組み、50歳を前に数学教授の座からも退任。そして「教授社交室主任」という一種の世話係へ転じ、残りの人生を執筆活動一本にしぼっている。

一方、数学者としての彼は、当時起きていた論理学に関する変化にも深い興味を抱いていた。それは、言葉の代わりに数学の演算規則をあてはめ、概念や観念を記号変換することで合理的に理解しようという思想だった。自身の最も重要な著作と位置づけている数学書『記号論理学』も執筆し、その第2巻を書き進める中で風邪をこじらせ、気管支炎を併発。1898年1月14日、愛する妹たちに囲まれて死去する。66歳になる2週間前だった。

作家ルイス・キャロルの伝説は、彼の死後に生まれたといってもよい。生前も人気作家として知られていたが、彼の人物像を謎めいたイメージに変えたのは20世紀に入り、ナボコフが『ロリータ』を著し、フロイトが『性理論』を唱え始めてからだ。ルイスは20世紀前半のジャーナリストたちから「小児愛者」のレッテルを貼られ、フロイトの思想に基づいて『不思議の国のアリス』が解読された。「彼はロリータ・コンプレックスだった」というわけである。

ただ、ルイスはリデル姉妹の写真だけでなく、ほかにも多くの子どもたちの写真、さらには水彩画などを描き残しているのも事実である。

実はルイスの妹の一人が「幼い少女たちと親しくするのは、世間の噂になるのではないか」と心配の手紙を送っている。それに対するルイスの返事は、次のようなものだった。

「人の目を気にしてばかりいると、人生は何もできないまま終っちゃうよ」

これは彼の毛嫌いした、偽善的なヴィクトリア朝の風潮に対する批判でもある。女性の脚を連想させるからと、椅子の脚までが「わいせつ」とカバーをかけられ、それが転じて「足」という単語さえタブーになった時代。その一方で、ほんの10歳の子どもが売春婦として街角に立っていた。もし彼を「ロリコン」と呼ぶならば、ヴィクトリア朝時代の英国もまた同様の、あるいはさらに重症な『患者』としての呼び名を与えられなければ不公平だろう。

世界に一冊しかないルイス自身による挿絵のついた『地下の国のアリス』は、1926年に夫を亡くした74歳のアリスによって売却されている。そしてサザビーズのオークションで当時の史上最高額で落札された後、大英図書館に寄贈され、現在も同館に展示されている。

「黙っておれ!」と 女王が言いました。
「いやよ!」とアリスが言いました。
「あなたたちなんて、ただのトランプじゃないの!」

(『不思議の国のアリス』高橋康也/高橋迪訳から)

週刊ジャーニー No.1239(2022年5月12日)掲載