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銃殺された戦場のナース イーデス・カヴェル 前編

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

■第一次世界大戦初期、ドイツ軍によって占領されたブリュッセルの病院で、懸命に看護にあたる英国人看護婦長がいた。ジュネーブ条約と赤十字の理念の下、運ばれて来る負傷者は敵味方分け隔てなく献身的に看護した。しかし後に彼女はドイツ軍によって逮捕され、軍法会議にかけられた末、銃殺刑に処された。献身を貫いた彼女の身に一体何が起こったのか。英国でも日々忘れ去られつつある戦場のヒロインの実像に迫る。

誰かの役に立ちたい

本編の主人公、名前をイーデス・ルイーザ・カヴェル(Edith Louisa Cavell)という。イーデスは1865年12月4日、ノーフォーク県都ノリッチに近いスウォーデストン村に、4人きょうだいの長女として生まれた。英国国教会の牧師だった父親や家庭教師から在宅教育を受けながら厳しく育てられた。

イーデスの父が勤務したスウォーデストンの聖メアリー・ヴァージン教会。

イーデスはフランス語と絵画に才能を発揮した。ヴィクトリア時代の習わしとして両親は子どもたちに地域社会への奉仕と貢献を促したが、16歳の時、父親の書斎でタバコを吸っているところを見咎められた。父親は在宅教育に限界を感じ、イーデスを全寮制の女学校に預けた。

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21歳になったイーデスは自宅に戻った。ロマンスがあって良い年齢になっていたが、過疎の村から女学校の寮に入れられたイーデスに男性と出会う機会はなかった。父親はイーデスに家庭教師(governess)として働きに出るよう命じた。この頃、イングランドには2万5000人ほどの家庭教師がいたとされる。家庭教師と言っても実際には見知らぬ家庭に住み込み、食住とわずかな賃金を受けながら子どもたちの世話をしたり家事を手伝うなど、日本で言うお手伝いさんのような存在だった。25歳までに結婚相手が見つかれば御の字。それを超えると陰で「行き遅れ」と言われた。

25歳の時、イーデスはブリュッセル市内の富裕層宅で家庭教師の職を得た。期待を胸に訪れたブリュッセル。生まれて初めて体験する大都会での生活。彼女は4人の子どもたちに英語を教える傍ら、自らはフランス語を磨いた。しかし、29歳の時、イーデスは倒れた父の面倒を見るために帰国した。妹2人は看護婦になっていた。献身的に父の看護をする中でイーデスは人のために尽くすことの高潔さを知った。


40歳頃のフローレンス・ナイチンゲール (Florence Nightingale, 1820~1910)。

「傷つき、不幸せな人の助けになりたい。何かの役に立ちたい。人のために何かをしたい」という衝動が彼女を突き動かした。この頃、看護婦という職業はイングランドにあってもその地位が確立されていなかった。看護とは本来、家の誰かがするもので、他人の身の回りの世話をする者はアルコール中毒患者や娼婦、老婆、そして他にすることがない人間がするものと認識されていた。その古い認識を変えようとナイチンゲールがロンドンで奔走している最中だった。しかしノーフォークの田舎にまでその影響が及ぶのはまだ先のことだった。田舎では病院自体が稀な存在だった。

三十路の転機

旧ロンドン病院に飾られたイーデス・カヴェルのブループラーク。

1895年12月4日、イーデスは30歳の誕生日を迎えた。父親も回復したある日、ロンドン病院(London Hospital=現ロイヤル・ロンドン病院)が看護婦アシスタントを募集していることを知り履歴書を送付した。しばらくして採用の通知が届いた。イーデスは偶然にもナイチンゲールが看護婦を志した時と同じ30歳でナース見習いとなった。

イーデスが見習い看護婦として学んだ旧ロンドン病院。現在は改装され、タウンホールになっている。

半年ほど勤務した後、イーデスは看護婦という仕事に生涯を捧げようと心に決め、正式な訓練を受けた。ロンドン病院は東ロンドン、ホワイトチャペルで病床700を備える大病院だった。もともとは篤志家たちがファンドを募って始めた病院だった。ホワイトチャペルには職を求めてロンドンに移って来たアイルランド人労働者の他、迫害を逃れて東欧から渡ってきたユダヤ人難民などが劣悪な環境の中で肩を寄せ合って暮らしていた。

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イーデスが働き始める7年前には病院の目と鼻の先で世界初の劇場型連続娼婦殺人事件「ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)」が起こり、遺体のいくつかが同病院に運び込まれた。犯人と思われる人物から病院宛てに「内臓を焼いて食べた。美味かった」と書かれた挑発的な手紙が届くなどしてロンドン病院は一躍注目の的となった。

イーデスが働き始める数年前までエレファントマンことジョゼフ・メリック氏がロンドン病院内の一室で暮らしていた。

また、ほぼ同じ頃、のちに「エレファントマン」として映画化されたジョゼフ・メリックが病院内の一室をあてがわれ1890年に27歳で息を引き取るまでこの病院内で暮らしていた。

まともな労働基準法がない時代、看護婦の仕事は過酷だった。朝6時起床、6時半から朝食をとると7時から12時間の勤務。休憩は昼食時の30分のみだった。夜勤の場合は午後9時から翌朝8時まで。年2週間与えられる休暇だけが生身の人間に戻れる至福の時だった。その後、イーデスは私設看護婦として独立。患者宅を訪問したり、依頼があれば病院副寮長を務めるなど忙しい日々を送っていた。

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運命のブリュッセル行

1907年、イーデスはブリュッセルに新設される見習い看護婦養成校の看護婦長に推薦された。養成校は英国式の近代的な看護婦育成法を広めることを目的としており、職務に熱心でフランス語に堪能な指導者が求められていた。42歳になっていたイーデスに白羽の矢が立った。

学校は同年10月1日に開校したが初年度の入校者はわずか4名だった。イーデスは清廉を意味するエーデルワイス(西洋ウスユキソウ)を学校のシンボルと定め、ユニフォームにもエーデルワイスの刺繍を施した。教育方針は規律や規則に厳格なヴィクトリア時代そのものの教育を反映させたものだった。身だしなみは特にそうで、若い生徒たちがナースキャップを斜めに被るなど、お洒落をしたがると「ちゃんと被りなさい」と𠮟りつけて直させた。朝7時の朝食時には真っ先にダイニングテーブルに着いた。手元に懐中時計を置き、遅れた者を厳しく叱責した。

ナイチンゲールの教本通り、学校内の衛生状態向上に神経をとがらせ、まるで嫌味な姑のように部屋中をチェックし、少しでも指にホコリが付くと拭き掃除のやり直しを命じた。イーデスは時に冷酷な人物として生徒たちの目に映ったが、時折見せる笑顔はたちまち人の心を溶解させた。教師としての仕事を終えるとイーデスは総務と会計の仕事に没頭した。

開校からわずか1年後、ブリュッセルでは早くも近代的看護の重要性が理解され始め、英国式養成法が評価されるようになった。英国式は近代看護のモデルとなった。開校から2年後、23人が入校してきた。生徒たちはオランダやドイツ、ロシアやベルギーなど出身もまちまちだったが、最新の英国式看護法を学んで自国の看護技術に寄与しようとする真剣で実直な若い女性たちだった。

イーデスと共に写真に収まるジャック(右)とドン。

指導に厳しいイーデスだったが、学校に物乞いが来ると食べ物とわずかばかりの現金を分け与えた。また、年の瀬には子どもたちのためにクリスマスパーティーを必ず開いた。イーデスには社会的弱者への献身と言う、牧師であった父の生き様が脊髄にまで沁み込んでいた。また、飲食に対して極めてストイックで自己否定的。さらに禁欲的で神との対話を重視した。一方、イーデスは学校敷地内に迷い込んできた2匹の犬を保護して可愛がった。ジャックとドンと名付けた。野良犬だったため警戒心が強く、人に向かってよく吠えたが不思議とイーデスにだけ懐いた。

わずか4人の生徒から始まった養成校だったが6年後には300人を超える看護師を育て上げた。養成校は予想以上のスピードで軌道に乗った。何もかもが順調に見え、イーデスも神から与えられた使命を果たせているのかもしれないと密かに胸をなで下ろした。しかしこの頃、ヨーロッパには第一次世界大戦の暗い影がひたひたと迫っていた。

不吉な電報

1914年8月1日、ノーフォークに里帰りしていたイーデスの元に1通の電報が届いた。「ドイツ軍のベルギー侵攻が迫っている」という内容だった。未亡人となっていた老母は「危険だから行かないで欲しい」とすがり、イーデスを困らせた。

イーデスが育ったスウォーデストン村の実家。

翌朝、身支度を終えたイーデスは病床の母に「戦争は身体だけでなく人の心にも傷を負わせます。学校で戦傷者の看護経験があるのはボーア戦争を体験した私しかおりません。私が育てた大切な生徒たちが不安な思いで私の帰りを待っているのです。彼らを見捨てることはできません。必ず、生きて帰ります。約束致します。その日までお母さまもどうかお元気で」。そう言い残して実家を飛び出したイーデスはブリュッセル行きのフェリーに飛び乗った。イーデスは翌年、母親との約束を破ることになる。

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イーデスが実家を出たその日、ドイツ軍はパリに軍を進めるため、中立国だったベルギーに「我が軍を無抵抗で通過させよ。明朝7時までに返答がなければ敵と見做し、力ずくで通過する」と通達していた。8月3日朝、ベルギー政府はドイツ軍の恫喝を無視し、戦闘の準備を急いだ。今まさにドイツ軍のベルギー侵攻が始まろうとしていた。そんな緊迫した状況の中、イーデスは看護学校に戻った。イーデスの戦争が今まさに始まろうとしていた。イーデス・カヴェル、銃殺まであと14ヵ月。

(中編に続く)

※本稿では時代背景を鑑み、看護師をあえて看護婦と表現しています。

参考資料: Diana Souhami著「Edith Cavell」、Nick Miller著「Edith Cavell: A Forgotten Heroine」他。

週刊ジャーニー No.1296(2023年6月22日)掲載