英モダン・デザインの先駆者 ウィリアム・モリス [William Morris]
英国モダン・デザインの大御所といえば、真っ先に挙がる名前の一つに違いないウィリアム・モリス。
優れた芸術家であると同時に実業家としての手腕も兼ね備え、商業的にも成功、そのうえ、詩人、政治活動家としても大きな功績を残した。
しかし、その成功者としての顔の裏に、親友と妻との関係に耐え忍ぶ夫の顔も持っていた。
今回は、この偉大な人物の様々な顔をご紹介したい。

●Great Britons●取材・執筆/山口由香里・本誌編集部

ロマンチックな作品を好んだ本の虫

1896年10月3日。日が少しずつ短くなり始め、やがて長く暗い冬が間違いなく訪れることを予感させる、ある秋の日、ひとりの紳士が息をひきとった。
その人物の名をウィリアム・モリス(William Morris 1834―96)という。死亡診断書にはこう書かれた。「成人男性10人分の働き以上の仕事を成し遂げたことによる」、すなわち「働きすぎ」と医者は言いたかったようだ。実際、モリスの多才ぶりは尋常ではなく、生涯にわたって、成人10人分どころではない活動を精力的に繰り広げた。
しかし、我々がウィリアム・モリスの名を聞いて、もっとも身近に思い浮かべるものといえば、草花をモチーフとした数々のプリント・デザインではないだろうか。「リバティ・プリント」に用いられているものも含み、英国で暮らせばしばしば目にするはずだ。
葉脈まで美しく描き出された大きな葉、優美な曲線を見せるツタ状の茎、四季を感じさせる花々と果実、そしてそのまわりでさえずる声が聞こえるかのような小鳥たち。それらが、まるで万華鏡をのぞいているかのように、一定のリズムで繰り返される。かといって、決して単調すぎず、日々眺めても飽きることがない。モリスの卓越した色彩センスにより、注意深く選ばれた色の組み合わせとあいまって心地よい空間を演出する、そうしたデザインの人気は百年たった今でも衰えることを知らない。
そのようなデザインを生み出した自然を愛でる気質は、幼少の頃の環境によって出来上がったものと言えそうだ。
モリスは1834年3月14日、東ロンドンで産声をあげた。最終的には9人の子持ちとなるウィリアムとエマのモリス夫妻にとっては3番目の子供、そして待望の長男として誕生。父親と同じウィリアムと名付けられた。証券仲買人として成功した父のおかげで、経済的に恵まれた幼少時代を送ったと本人も述懐している。
モリスは、東ロンドンのウォルサムストーのエルム・ハウスから、6歳でエセックスの広々としたカントリーハウス、ウッドフォード・ホールに移る。王室の狩猟場でもあったエッピングの森近くに位置し、豊かな自然が残る場所だった。それはそのままモリスの広大な遊び場となった。少し大きくなってからは、乗馬も楽しんだ。「三つ子の魂―」とはよく言ったもので、成人してからも、しばしばカントリーサイドに家を構え、生涯、その自然志向は変わらなかった。
2人の姉エマ、ヘンリエッタと仲が良かったモリスだが、1人で本を読んで過ごすことも多かった。家にある数多くの本を読みあさり、中でも『アラビアン・ナイト』や、歴史小説家のウォルター・スコットの作品がお気に入りだったと伝えられている。この頃の読書により、ロマンチックなもの、歴史的なものへの志向が根付いたと考えていいだろう。
こうして屋外と屋内の両方で、モリスの感性は絶え間なく磨かれ、後に多方面で花開く素地がモリス本人も気づかぬうちに、しかし着実に築かれていったのだった。

人生を決めたオックスフォード時代

モリスは13歳の時に父親を亡くすが、父親は、残された家族が不自由しないだけの財を成していたため、進学にも困ることはなかった。
19歳になる1853年、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学。このオックスフォード時代に、その後のモリスの人生における主要登場人物となる人々と次々に知り合う。

フルハムにあったエドワード・バーン=ジョーンズの自宅の庭で1874年に撮影された写真。左から3人目がバーン=ジョーンズ、5人目が妻のジョージアーナ、右から3人目がウィリアム・モリス、その右隣が妻、ジェーン。
まず、オックスフォードに赴いて間もなく、生涯の友で共同事業主ともなるエドワード・バーン=ジョーンズ(下のコラム参照)と出会う。英国モダン・デザインの歴史をふり返る時、この出会いは、例えるならジョン・レノンとポール・マッカートニー級の出会いだったといって過言ではないだろう。
モリスは、バーン=ジョーンズとフランスを旅する。優れた建築物や芸術品を目の当たりにしたこの旅での経験が、その後の2人が進む道を決定した。聖職者となるための勉学に励んでいた彼らだったが、一転、芸術の道を志すようになる。
当時、注目を集めたネオ・ゴシックの建築家ジョージ・エドモンド・ストリートの事務所に研修生として入ったモリスは、そこでフィリップ・ウェッブとの友情を育む。建築家のウェッブは、モリスが新婚時代に住んだ家(後述のレッド・ハウス)の設計や、モリスの終の棲家といえる墓石のデザインも手がけることになる。
さらに、後に友という言葉だけでは説明しきれない関係となるダンテ・ガブリエル・ロゼッティと知己となったのも同時期だ。時として、偉大な人々が磁石に吸い寄せられるように集まることがある。この時のモリス周辺は、まさにそうした状況にあったと言えよう。

モリスに階級の壁を越えさせた、ジェーンの美貌

ロゼッティは、当時、最も影響力のある美術批評家だったジョン・ラスキンが支援したラファエル前派の中心的な画家だった。

ラファエル前派の画家の中で、もっとも成功したひとりといえるミレイの代表作『オフィーリア』(1852年)。
モリスが発起人の1人となった『オックスフォード&ケンブリッジ・マガジン』は、ラファエル前派が短期間出していた『ジャーム』誌を基にしたもので、詩や小説、批評を掲載していた。この刊行物に、詩作もたしなむロゼッティが寄稿したこと、画家になったバーン=ジョーンズもロンドンでロゼッティと知り合っていたことなどが重なり、モリスとロゼッティは自然に同じ芸術家グループのメンバーとして活動するようになる。
モリスが、後に妻となるジェーン・バーンズ(Jane Burns)と出会ったのも、ロゼッティを通じてだった。バーン=ジョーンズと出かけたオックスフォードの劇場でジェーンに会ったロゼッティは、すぐにモデルとしての素質を見抜く。背が高く痩せ型のジェーンは、当時の美の基準からは外れていたが、その大きな目、豊かな波打つ髪は、アヴァンギャルド(前衛的)な美の象徴として、ロゼッティの絵にそれから30年にもわたって登場し続ける。

モリスがジェーンをモデルに描いた『Queen Guenevere』(1858年)。
ロゼッティ、及びその友人画家たちのモデルとなったジェーンに出会ったモリスもたちまち、その魅力の虜となった。
それから間もない1858年、2人は婚約したことを発表する。それは、周囲の大反対を押し切っての結婚だった。
1834年生まれのモリスの人生は、1837年から1901年まで続いたヴィクトリア朝と、ほぼ重なる。このヴィクトリア朝時代にあって、異なる階級に属する者同士の結婚は、まず起こりえないことと見なされていたのである。ワーキング・クラスの出身だったジェーン。かたや裕福なミドル・クラスという育ちのモリス。ジェーンに対する、モリスの熱病のような思いを、友人たちは冷まそうと試みるが2人の決意は固かった。
モリスは美しいジェーンに純粋にひかれ、一方のジェーンはモリスとの結婚に安定した豊かな暮らしを見ていたとも言われている。しかし、この身分違いの結婚の先に、大きな試練が待ち受けていることをモリスもジェーンも予見していなかった。
後世になって我々が何を言っても詮ないことだが、もし、先に出会い、互いにひかれあってもいたであろうロゼッティとジェーンが結ばれていたら、二つの不幸な結婚の代わりに、一つの幸福な結婚が生まれていたのでは、と考えずにはいられない。
だが、ジェーンと知り合った時には、ロゼッティには既に婚約者のエリザベス・シダルがいたのである。

愛憎は芸術のコヤシ!?
ラファエル前派 関係メンバー

ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)はロイヤル・アカデミーの学生だったウィリアム・ホルマン・ハント、 ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイによって、1848年に結成された芸術家グループだ。当時、アカデミーでも主流となっていた古典主義に反発、古典主義を完成させたルネッサンスの画家ラファエロ(英語では「ラファエル」)以前のように、対象をあるがままに描くことをスローガンとして、命名された。ウィリアム・モリスや友人のエドワード・バーン=ジョーンズも、その中に含めて考えられることもある。
血気盛んな若者たち、画家とモデルの恋愛ざたも多かった。モリスと関わりのあった人々をご紹介しよう。

偉大な批評家で元祖ロリコン説もある
ジョン・ラスキン
John Ruskin 1819 - 1900

ラスキン、その妻エフィ、ミレイの三角関係は当時、一大スキャンダルとして騒がれた。
批評家のラスキンは当時のアート界で大きな影響力を持ち、モリスもオックスフォード以前から、その著作のいくつかを読んでいた。
ラファエル前派を支援していたラスキンが、中でも一番その才能を見込んでいたのがジョン・エヴァレット・ミレイだった。ミレイはラスキンの肖像画やその妻エフィをモデルとした絵も描いている。
ラスキンより10歳近く年下だったエフィはミレイと恋仲になり、離婚、再婚した。当時は難しかった離婚が成立したのは、結婚が非完成(=夫婦生活がない)であると裁判で認められたため。ラスキンは不能であったとも、ロリコンの語源となった小説『ロリータ』の主人公である男性のモデルとも言われている。

後に、反発していたロイヤル・アカデミーの学長となった
ジョン・エヴァレット・ミレイ
Sir John Everett Millais 1829 - 1896

ヴィクトリア女王の寵愛を得たが、ラスキンの妻との不倫騒動で怒りを買った。死の直前にようやく女王に赦された。
ミレイの代表作『オフィーリア』のモデルは、当時、ロゼッティの婚約者だったエリザベス・シダル。こちらはロゼッティと三角関係になるようなことはなかったが、水面に浮かぶオフィーリアを描くのに、長い間、エリザベスを水につけ、ひどい風邪をひかせてしまった。ミレイがエリザベスの父親に医療費を請求された記録がある。

ロゼッティのモデル兼妻、画家でもあった
エリザベス・シダル
Elizabeth Eleanor Siddal 1829 - 1862

エリザベスの死を悼んだロゼッティが描いた『ベアタ・ベアトリクスBeata Beatrix』(1864-70年)。
ダンテ・ガブリエル・ロゼッティの初期作品ほとんどのモデルを務め、ロゼッティに励まされ、絵も描いた。10年もの婚約期間を経て、ロゼッティと結婚したが、結婚生活は短かった。子供を死産で失って間もなく、薬の過剰摂取により亡くなった。ロゼッティと、モリスの妻ジェーンの間を気に病んでいたとも言われ、自殺とも疑われている。

女性を描き続けた
ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ
Dante Gabriel Rossetti 1828 - 1882

ジョージ・フレデリック・ワッツGeorge Frederic Watts作の肖像画。
©National Portrait Gallery
ジェーンの前にも、モデルのファニー・コーンワースと恋愛関係にあったロゼッティ(日本では「ロセッティ」が一般的)だが、エリザベスを亡くしてから薬に溺れ、精神を病み、一時は絵が描けなくなった。最後は友達関係であったとされるものの、ジェーンとのつきあいは長く続いた。当時、人目にたつ不倫ざたとなってしまった妻と友のスキャンダルの影で、モリスが心を通わせたのが、モリスの親友バーン=ジョーンズの妻で画家でもあるジョージアーナ・マクドナルドだった。

バーン=ジョーンズの妻、そしてモリスの心の友
ジョージアーナ・マクドナルド
Georgiana Burne-Jones (旧姓McDonald) 1840 - 1920

夫、エドワード・バーン=ジョーンズによる肖像画。
モリスの生涯の友エドワード・バーン=ジョーンズもモデルとの関係でスキャンダルを起こした。同病相哀れむということか、バーン=ジョーンズの妻で画家でもあるジョージアーナに、モリスは手紙を送り、悩みを打ち明けている。恋愛感情があったのでは、とも推測されているが、離婚は考えられないことだった当時、モリス、バーン=ジョーンズ夫妻とも、それぞれ添い遂げている。
ジョージアーナを含む4人の女きょうだいは、それぞれの夫、息子らが、画家、首相、作家など後世に名を残したことからマクドナルド・シスターズとしても有名。

最後までモリスの親友だった
エドワード・バーン=ジョーンズ
Sir Edward Coley Burne-Jones 1833 - 1898

写真右:エドワード・バーン=ジョーンズ(左)とウィリアム・モリス。1874年撮影。
写真左:アーサー王伝説で活躍する魔術師マーリンを題材にした『The Beguiling of Merlin』(1874年)。
画家として、当初ロゼッティからの影響を色濃く受けながらも、次第に自分のスタイルを確立したバーン=ジョーンズだったが、不倫問題でもロゼッティを追う形となった。その波紋の大きさから、美術界を締め出されそうにもなった、ギリシャ人モデルのマリア・ザンバコとの恋愛は、ザンバコが自殺を図ったことで終焉を迎えた。
学生時代からのモリスとの友情は晩年まで続き、モリスの死の翌々年に亡くなっている。モリスの死にショックを受け、弱っていったとも伝えられている。

☆ドラマチックなラファエル前派の人間関係は、BBCで2度もドラマ化されている。『ザ・ラブ・スクール』という1975年のドラマではベン・キングズレーがロゼッティ役で出演した。2009年放映の『デスパレート・ロマンティックス』は、BBCのサイトでおおまかなストーリーが、いくつかの場面やインタビューと楽しめる。
☆『オペラ座の怪人』などの作曲家で、最近ではオーディション番組の審査員としてもお馴染みのアンドリュー・ロイド・ウェバーは、ラファエル前派の収集家としても知られる。ロイヤル・アカデミーで展示会を開いたこともある。

才能が結集したレッド・ハウス

晴れて夫婦となった25歳のモリスと20歳のジェーンは、ロンドンのブルームズベリーのグレート・オーモンド・ストリートに住みながら、自宅の建築に取り掛かる。モリスが選んだのはケントのべクスリーヒース。そこに赤レンガを使って建てられた2人の家は、レッド・ハウスと呼ばれ、間もなく、モリスと親しい芸術家たちの溜まり場となる。

ロンドンの東郊外にあるレッド・ハウス。家の前の「井戸」が、デザイン上のアクセントになっている。
このレッド・ハウスは、ウェッブが建築家として初めて設計した家であり、彼にとって記念すべき『作品』となった。また、モリスの友人たちがインテリアを担当。モダン・デザインのパイオニアたちの才能が結集し、それが実現されるという、贅沢な場となったのだ。
これはそのままモリス・マーシャル・フォークナー商会の誕生につながった。モリスとその友人たち、つまりロゼッティ、バーン=ジョーンズ、ウェッブに、フォード・マドックス・ブラウン、チャールズ・フォークナー、P・P・マーシャルらがデザインした家具、ステンドグラスなどを商品とするビジネスをスタート。モリスはこの時27歳。やがて、モダン・デザイン界の先頭を走り続けることになるモリスにとっては、まだ助走に過ぎなかった。
レッド・ハウスを愛していたモリスだが、モリス・マーシャル・フォークナー商会のビジネスが軌道に乗り、忙しくなると、ロンドン中心部まで半日がかりというレッド・ハウスに住むことが困難になっていく。加えて、当時のレッド・ハウスのまわりは何もない田舎で、友人もいないジェーンが寂しさのあまりノイローゼ気味になっていたこともあり、レッド・ハウスで生まれた2人の娘とともに、モリス一家はロンドンに居を移すことになった。

葛藤を乗り越え、容認を選んだ夫

こうして、表面的には順調に見える結婚生活を送るモリスとは対照的に、ロゼッティの私生活はきわめて難しい局面を迎えていた。結婚後も頻繁にロゼッティのモデルを務めたジェーンとの間を、ロゼッティの妻のエリザベスが疑わぬはずがなかった。ロゼッティは、彼の『ミューズ(美の女神)』として多くの作品のモデルとなったエリザベスと10年の婚約生活を経て結婚したものの(ラファエル前派 関係メンバーコラム参照)、結婚生活は突然、残酷な形で終わりを告げる。子供を死産で失ったことから立ち直れず、エリザベスが薬物の過剰摂取で急逝してしまうのである。ロゼッティとジェーンの関係に悩んだ末の自殺だったとも言われている。
エリザベスを亡くしたところに、ジェーンがロンドンに戻ってきたため、ロゼッティとジェーンの関係は世間で取り沙汰されるまでになっていく。
だが、当時、離婚は考えられないことだった。多忙でもあったモリスが状況をそのままにしたのは、致し方ないことだったのかもしれない。また、大反対を押し切って結婚したという経緯も、モリスに意地を張らせる理由となっていたようにも思える。
私生活での苦悩を昇華する道を探るかのように、モリスは、文学の分野でも認められるきっかけとなった叙事詩『地上の楽園(The Earthly Paradise)』の執筆に励む。

ケルムスコット・プレスの刊行物の口絵に使われた、ケルムスコット・マナー。
それにしても不可解なのは、そのような時期に、モリスがロゼッティと共同でオックスフォードシャーにケルムスコット・マナーという別荘を借りたことだ。モリスが、神話などアイスランドの文化に興味をいだき、旅行に出かけた際は、なりゆきとして同マナーでロゼッティとジェーン、娘たちが過ごすことになった。
モリスは、ロゼッティをどう見ていたのだろう。
モリスが出合った時には既に芸術家として一派をなし、年齢でも6歳年上だったロゼッティに、あるいは、妻を託すような気持ちもあったのだろうか。ジェーンが自分を愛して結婚したのではないことに気づいていたモリスは、自分を責めていたとも考えられる。ジェーンがロゼッティのそばにいられるよう、敢えてそういう機会を作り出していたとすれば、それはジェーンを愛するがこそで、ジェーンを女性として幸せにしてやりたいという、モリスの痛々しいまでの思いの表れだったといえるかもしれない。

友人との決別を招いたモリス商会

ロゼッティがジェーンをモデルにして描いた『Proserpine』(1874年)。
苦悩する人間は、しばしばそれを忘れようとするかのごとく、他の道に多大なるエネルギーを注ぐ。モリスもその典型といえ、芸術と生活の一致を目指し、幅広く活動を展開した。これは、「アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts movement)」と現在呼ばれるものだ。アートとデザインの垣根を取り払い、さらにそれを生活の場に取り込もうとする思想は、アートの大きな転換点となるものだった。
モリス・マーシャル・フォークナー商会を、もっと理想に近づけようと考えたモリスは、それを解散して、1875年、新たに単独でモリス商会を設立。これにより、従来以上に自分の目が行き届いた商品を生産できるようにした。
しかし、残念なことながらモリス・マーシャル・フォークナー商会に携わってきた友人たちは、そこで二派に分かれた。バーン=ジョーンズ、ウェッブ、フォークナーらはモリスをサポートし、ロゼッティ、マーシャル、ブラウンらはモリスを非難し、離れていったのである。その前年にケルムスコット・マナーの共同賃貸契約も解消していたロゼッティは、モリスとは袂を分かつ形となってしまった。
ジェーンとは長らく手紙のやり取りなども続けたものの、最後は友人としてのつきあいだったと言われているロゼッティは、1882年、53歳でこの世を去った。

大車輪の活躍

時間の許す限り、ケルムスコット・マナーで過ごし、釣りなども楽しんだモリスだが、それもままならないほど日々の忙しさは増していく。
さらに広いスペースを必要とするようになったモリス商会は移転し、ますます発展する。モリスは、ラグ、カーペットなどテキスタイルのデザイナーとしても才能を発揮、超のつく多忙な時期を過ごす。当時からおしゃれな通りであった、オックスフォード・ストリートの新しい店で、家庭で必要なインテリア用品のほとんどを買えるようにもし、英国各地の顧客の家に出向いてインテリア・デザインも請け負った。
本も執筆し続けていたモリスは、文学の分野でも、オックスフォードの教授に推されるまでとなっていく。時間的・体力的に難しく、さすがにそれは辞退したが、アートの分野では、美術史に関する造詣の深さも手伝って、講師として迎えられることも増えるなど、その活動の幅の広さには脱帽するしかない。

ケルムスコット・プレス刊『The Nature of Gothic』(ラスキン著、1890年)
自著『地上の楽園』の書籍としてのデザインについても理想を持っていたモリスは、それも自らの手で実現させる。ケルムスコット・プレスと命名した出版社を興し、美しい本を世に送り出し始める。
モリスはカリグラフィー(アルファベットの飾り文字)のデザインにも優れた素養を持っており、それをここで存分にいかしたのだ。ケルムスコット・プレスから出された全ての本は文字デザインなども含めモリスのデザインで、バーン=ジョーンズがほとんどのイラストを手掛けている。黄金のコンビと呼んで良いだろう。
芸術家、事業家としても名が広まるにつれ、ロンドンでの生活の比重が大きくなっていくが、都市とともにカントリーサイドも美しく保ちたいと願ったモリスは、ナショナル・トラストの元ともなるグループに属し活動に従事。下で紹介しているモリス縁の場所の中にも、ナショナル・トラストの手で管理されているものがあり、彼の先見の明について考えずにはいられない。

ケルムスコットでの静かな最期

ともに白髪となった、エドワード・バーン=ジョーンズ(左)とウィリアム・モリス。1890年ごろ撮影。
産業革命により、大量生産品に手工芸品が押しやられた当時の英国は、モリスの意に染まないものだった。
芸術家であると同時に理想主義者で実務家でもあったモリスは、理想の実現には社会変革が必要と考え、政治活動にも積極的に参加。マルクス主義に傾倒し、1884年には社会主義同盟を結成、その機関紙に5年間寄稿を続けた。罰金で済んだが、街角に立って演説し、逮捕されたこともある。
やや太り気味で、ロゼッティやバーン=ジョーンズなどに丸っこく描かれた風刺画的な絵も残されているモリスは、腎臓を患い、糖尿病でもあった。また、長女ジェーンは十代の頃、テンカンに苦しみ、モリスとジェーンを大いに心配させたが、これはモリスの家系からの遺伝で、モリス自身をも蝕んだことが最近の研究で発表されている。
もてる才能を余すところなく使い、多方面で活躍していたモリスも、天命には逆らえなかった。50代に入ってからは徐々に磨り減っていくかのように、次第に弱っていった。やがて、モリスはケルムスコット・ハウスと名づけられたロンドンの家で、1896年、息をひきとった。62年の、常人には味わい得ない中身の濃い生涯だった。
モリスは、生涯愛した地ケルムスコットで、友人ウェッブのデザインした墓石の下に安息の場を与えられた。ジェーンも、今は娘達とともにモリスのそばで永久の眠りについている。

ウィリアム・モリス縁の地

レッド・ハウス
Red House

写真左は、レッド・ハウスを庭から眺めたところ。中は、同ハウスへの入口の門に掲げられたブルー・プラーク。
モリス自身が計画段階から参加して建てさせた唯一の自宅。モリスの生涯の友、エドワード・バーン=ジョーンズが「地球上で最も美しい所」とたたえた。現在はナショナル・トラストが管理している。設計も担当したフィリップ・ウェッブと、モリスのデザインによる家具、バーン=ジョーンズによるステンドグラスや絵画など家全体が見どころといえる。モリスがデザインのヒントを得たのではないか、と思わせる草花が植えられた庭もお見逃しなく。

【アクセス】

最寄の駐車場からの距離と、ベクスリーヒース駅Bexleyheathからの距離はほぼ同じで約1.2キロ。バスで途中まで行けるが、歩いても20分余りの距離。ロンドン・ブリッジ駅からベクスリーヒース駅まで30分に1本(ダートフォードDartford方面行き)、所要約30分。
Red House Lane, Bexleyheath,
London DA6 8JF
Tel: 020 8303 6359
https://www.nationaltrust.org.uk/red-house

ケルムスコット・マナー
Kelmscott Manor

モリスの別荘。グレードIの歴史的建築物に指定されているチューダー朝様式のファームハウス。この地を愛したモリスの墓は、同じケルムスコットの聖ジョージ教会にある。
Kelmscott, Lechlade, Gloucestershire GL7 3HJ
Tel: 01367 252486
www.kelmscottmanor.org.uk

ウィリアム・モリス・ギャラリー
William Morris Gallery

©David Gerard
父を亡くした後、広大な屋敷が不要となっため、モリス一家が越してきた家。1848年から1856年まで一家が暮らした。モリス・マーシャル・フォークナー商会を立ち上げた頃の、モリスとその友人たちがデザインした家具、ステンドグラス、タイルなどが展示されている。 Lloyd Park, Forest Road, Walthamstow E17 4PP
Tel: 020 8496 4390
http://www.wmgallery.org.uk/

ワイトウィック・マナー・アンド・ガーデンズ
Wightwick Manor and Gardens

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティとエドワード・バーン=ジョーンズの作品やモリスの手によるインテリアなど、当時のアーツ・アンド・クラフツ運動の影響が保たれているヴィクトリア朝後期のマナー・ハウス。
Wightwick Bank, Wolverhampton, West Midlands WV6 8EE
Tel: 01902 761400
https://www.nationaltrust.org.uk/wightwick-manor-and-gardens

週刊ジャーニー No.623(2010年4月29日)掲載