シェークスピアと熊と娼婦
悲しきサウスバンク
シャードから徒歩10分ほどにあるクロスボーンズ墓地。ここに1万5千の名も知れぬ下層民たちが埋められた。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■「人権保護」や「動物愛護」「レディファースト」―先進国のように言われるイギリス。しかしそれは産業革命後、「アングロサクソンは神に選ばれし民族」という思い上がった自負が芽生えて以降のお話。かつての実態は真逆だった。下層階級の人々は日々の暮らしにも困窮し、子どもたちの多くは読み書きすらできず社会の底辺を這いずり回った。女たちは男社会の中で抑圧、搾取され続けた。中世から近世にかけて、テムズの南岸(サウスバンク)はシティや宮廷の規制が及びづらかったため、早くから売春婦が闊歩し、劇場や見世物小屋、動物同士を闘わせる残虐な賭場がいくつも並ぶイギリス最大の歓楽街となっていた。サウスバンクには大英帝国誕生前夜の負の遺産が今も消しきれずに残っている。

退廃的な娯楽の街

ロンドンとは、かつては城壁に囲まれたおよそ1平方マイルほどの小さな街だった。現在でいうシティだ。エリザベス1世が統治したチューダー朝後期、中央集権化が進み始めたロンドンは活気づき、地方の貴族だけでなく、羊毛の需要が拡大したことで農地を取り上げられた農民らが、仕事にありつこうとロンドンに押し寄せ始めていた。ロンドンは人口の過密化が進み、16世紀以降はシティ城壁の外へ外へと拡大を始めた。

ウェストミンスターには古くから宮廷や議会の場があった。そのウェストミンスターとシティを結ぶ一本道「ストランド」には大貴族たちが競って屋敷を構えていた。ホルボーンには法律家や書籍商などが集まり、それぞれに栄えた。ロンドンの娯楽の中心は今でこそコベント・ガーデンやピカデリーサーカスなどが有名だが、ウェストエンド一帯が娯楽の中心地となるのは19世紀以降のこと。それまではロンドンブリッジを渡ったテムズ南岸一帯がその役割を担った。

1616年頃のロンドンブリッジ南側。手前に建つのは現在も残るサザーク大聖堂。門楼の上には処刑された罪人たちの首が槍に刺されてさらされている。
12世紀に建てられた、ウィンチェスター宮殿のグレートホール跡。宗教改革前、聖職者とはローマを後ろ盾とした絶大な権力者でもあった。

かつてのサウスバンクはウィンチェスター司教庁の所領であり、シティのルールや王の支配が及びづらく、その分規制が緩かったために様々な娯楽が発達した。また、エリザベス1世が演劇を手厚く庇護したため各地で劇団が組織された。さらにこの時期、大陸から流入したプロテスタント改革により、カトリック的な祭が弾圧され、代わって世俗的な娯楽がイングランドに拡大した。厳格なピューリタン(清教徒)たちはこの堕落した風潮を忌み嫌ったが、君主や貴族たちはむしろこれを奨励した。

今では「実験的、かつ先進的な芸術文化の発信地」といった印象があるサウスバンクだが、かつては劇場や見世物小屋、「ベア・ベイティング(熊いじめ)」のための闘技場が幾つも立ち並ぶ享楽の街だった。酒、たばこ、怒号、動物たちの咆哮と流血、そしてギャンブル。興奮覚めやらぬ男たちの多くが行きつく先は売春宿だった。中世から近世にかけてロンドンブリッジの南側一帯は「罪と快楽の場」「規制外の娯楽空間」として広く認知され、足を踏み入れるだけで何かワクワクするようなことが起こる予感を抱かせる危険な香りが漂うエリアだった。

右手に見える円形の建物がグローブ座。左手に見えるのが「ベア・ベイティング」の闘技場。両者は驚くほど近接していた。
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シェークスピア活動の場

上:焼失後に再建されたグローブ座(1667年頃)。
下:1997年、当時の姿を再現し「シェークスピアズ・グローブ」としてオープンした、現グローブ座。実際にあった場所とは若干異なる。
サウスバンクで演劇が上演されるようになったのは1570年代以降のことだ。ショーディッチに「ザ・シアター(The Theatre)」、そして「カーテン座(The Curtain)」が建設され、サウスバンクに「スワン座(The Swan)」、「グローブ座(The Globe)」、少し遅れて「ホープ座(The Hope Theatre)」が建てられた。シティでは演劇は騒乱や不道徳の元と見なされたため規制が厳しく、しばしば劇場の閉鎖命令等も出されていた。加えて娯楽は禁欲を訴えるピューリタン的価値観と反りが合わず嫌悪の対象となっていた。しかしシティの目が及ばないサウスバンクでは黙認された。

グローブ座ではハムレットやオセロなどシェークスピア劇を中心に、幅広いジャンルの演目が上演された。グローブ座は円形構造で、屋根のない中央の「立ち見席」と屋根のある木製座席から成っていた。劇場内は最安値の立見席(1ペニー)、長椅子が置かれたギャラリー1階席(2ペンス)、中産階級向けの屋根付きのギャラリー2階、3階席(3~6ペンス)、そして主に貴族が利用したロード・ボックス席(12ペンス以上)と階級別に分かれていた。

観劇中はビールやエールの売り子が場内を巡回。多くの客がアルコール片手に観劇した。新大陸からもたらされたタバコやパイプが流行しており、観客が吐き出すモウモウとした煙のために舞台が見えづらくなることもあった。現代と違って静かに鑑賞する文化はなく、客席からは応援の声や拍手だけでなく、ヤジや罵声が浴びせられることもざら。とくに最安値の立ち見客は興奮して舞台にモノを投げ込んだり、俳優に絡んだりすることも多かった。そのため、俳優たちも乱闘騒ぎを警戒しながら演技した。なかなかワイルドな環境だった。劇場を訪れたピューリタンは「淫らで不道徳な場所だ」と書き残し眉をしかめた。

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動物虐待花盛り

「Bear-baiting」。日本では「熊いじめ」と訳されることが多いが「bait」は挑発して闘わせるという意味で「犬などにクマを襲わせる見世物」のことだ。この「ベア・ベイティング」が、演劇流行とほぼ同時期、大変な人気となった。かつて犬と熊たちが血だらけになって戦った一帯には「ベア・ガーデンズ」や「ベア・レーン」といった通りの名前が残っている。熊の他に「ブル(雄牛)」に犬をけしかける見世物もあった。

当時の「ベア・ベイティング」の様子を伝える描画(大英図書館蔵)。熊は輸入頼みの高級品だったため、犠牲となるのはほぼ犬の方だった。
熊は会場中央に打たれた杭に鎖でつながれた。鎖の長さは犬と適度に闘える長さに調整された。そこに訓練を受けたブルドッグやマスティフなど、嚙む力が強く耐久力を備えた大型犬が放たれた。彼らは熊の前足や喉に噛みつくよう訓練されていた。熊が犬を蹴散らすか、犬が熊に致命傷を与えるかが勝負となった。熊に叩きつけられて足や背骨を折ったり熊の爪で顔面や腹を裂かれ、内臓損傷や頭蓋骨陥没で即死する犬も多かった。犬が負傷したり死んだりするとすぐに新しい犬が投入された。犬の命は使い捨てだった。1640年代に会場を訪れたあるピューリタンは「犬の頭が飛び、内臓が飛び散る光景が罪人どもを魅了してやまない」と苦々しく書き留めている。

会場内にはブックメーカー(胴元)がいて、どの犬が最も長く熊を追い詰めるか、熊が何匹目の犬に倒されるか、どちらが生き残るか、など様々な賭け方が存在し、人々は熱狂した。胴元を通さず、客同士が私的に賭けあうこともあった。

貴族や上流階級たちは自慢の犬や熊を持ち寄って参加させることもあった。イングランドには11世紀以前まで野生のヒグマが生息していたが大規模な森林伐採によって絶滅した。そのため熊は高価な輸入品。貴重な商売道具を簡単に死なせるわけにはいかない。必然的に安価な犬の方が多く死んだ。「熊いじめ」とは名ばかりで死ぬのはほとんどが犬の方だった。

サウスバンクに残る通り名からも、「ベア・ベイティング」が盛んだったことがうかがえる。
「ベア・ベイティング」人気は凄まじく、円形の闘技場には階段状の立派な観客席が作られた。グローブ座などと同様、上流階級から下層階級まで、女性を含みあらゆる種類の人が観戦に訪れた。会場内ではアルコールやたばこ、軽食が売られ、興奮した酔っ払いたちの怒号が飛び交った。演劇にも増してワイルドな環境だった。「ベア・ベイティング」は貴族や上流階級の間でも大変な人気でエリザベス女王も何度か会場に足を運ぶほどだった。

左側に見えるのが「ブル・ベイティング」の円形闘技場。右側の円形闘技場で「ベア・ベイティング」が行われていた。

しかし1642年、いわゆる清教徒革命が勃発。勝利した議会派の護国卿オリバー・クロムウェルは厳格なピューリタン。演劇や舞踏、ばくち等は堕落の源と見なされ、娯楽が一斉に禁じられた。劇場は閉鎖され、動物たちの多くが処分された。ところがクロムウェルが死に、1660年に王政復古が成ったことでこういった娯楽も一時的に復活した。

動物虐待への批判の声が高まったのは19世紀に入ってからだ。イギリスでは再びピューリタン的道徳心や価値観が圧倒的となる時代に突入する。1835年に「動物虐待防止法」が発布され、「ベア・ベイティング」は正式に禁止された。同時に「ブル・ベイティング」や闘犬なども禁止され、イギリスは動物愛護大国へと舵を切っていく。イギリスの動物虐待法とは、行き過ぎた動物虐待に対する反省がその原点だ。

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ウィンチェスターのガチョウ

エリザベス1世の治世下、サウスバンクには大勢の娼婦がいた。彼女たちは隠語で「ウィンチェスターのガチョウ(Winchester Geese)」と呼ばれた。売春婦の多くがウィンチェスター司教庁の庇護下にあったステュー(stews)と呼ばれる公認売春宿で働いていた。ステューはもともと蒸し風呂施設の意味だったが、15世紀ごろから売春宿を指す隠語となった。1500年代半ばの記録によるとサザークだけでも18軒の売春宿があったとされる。

売春宿は劇場やベア・ベイティングの主催者同様、一定の賃料や税金をウィンチェスター司教庁に納めていた。司教庁は売春婦に「病人や妊婦の営業は不可」「日・祝日の営業は禁止」「客との間に合意があること」「修道士や聖職者相手の営業禁止」といったルールを課した。しかし賄賂や見逃し等も多かったとされ、規則の実効性は限定的だった。

売春宿の一般的な相場は6ペンスから1シリング(12ペンス)だった。当時の熟練工の日当が6~8ペンス前後。単純労働者では日当が4~6ペンス程度だった。公認の売春宿に勤めていた売春婦は数百人程度だったが、街には非公認のいわゆるフリーランスの売春婦も大勢いて様々なサービスを提供していた。例えば路上での即決コースでは1~2ペンスで請け負う娼婦もいた。この場合、衛生状態は最悪で相互に感染リスクが高かった。客層は水夫や港湾労働者が多かった。

高級売春宿の相場は1シリング(12ペンス)以上。室内には装飾が施され、音楽や飲み物も提供された。客は貴族などの上流階級、または富裕な商人たち。2シリング(24ペンス)も払えばVIPルームに通され、扱いはキングかスルタン、お殿様。長時間の逗留が許され、酒や食事が提供された。貴族や上流階級の男たちは売春婦を「必要悪」と呼んでその存在を容認していた。遊び代からは場所代、仲介料などが差し引かれ娼婦の手元に残るのはわずかだった。

見捨てられた死者たち

クロスボーンズ墓地に設置された小さなプラーク。
バラマーケットを5分ほど南に歩いたところに壁で囲まれた小さな空間がある。鉄柵部分には無数のリボンが結ばれている。ここは「クロスボーンズ(Cross Bones)」と呼ばれる無縁仏の墓地だ。サウスバンクで身体を売った女性たちの中には感染症や栄養失調で命を落とす人たちが多かった。貴族や上流階級の男たちが「必要悪」と呼んだ売春婦たち。しかし死んで必要性がなくなると「悪」だけが残った。

教会は「罪深い女」「悔い改めぬ者」として教会墓地への埋葬を拒絶した。そのため売春婦たちは「独身女性の教会墓地」と呼ばれたクロスボーンズ墓地に墓標もなくゴミのように埋められた。狭い墓地はたちまち手一杯となったが、それでも深く掘り直してはさらに多くの遺体が折り重なるようにして埋められた。やがて「クロスボーンズ墓地」が貧者の墓地として利用されることが決まると売春婦だけでなく、行き倒れや身寄りのない子どもたちも埋葬されるようになった。

クロスボーンズ墓地内に置かれた小さな子どもたちの姿をした地蔵群。胸が締め付けられる。
「死体があまりに過密で風紀と衛生上大変問題がある」として墓地は1853年に閉鎖されたが、それまでに1万5千人前後が埋葬された。1992年に調査があり、148体の遺体が発掘された。過半数が乳幼児だった。成人の多くは30代後半の女性で、遺体には天然痘、結核、骨粗しょう症、ビタミン欠乏症などが確認され、慢性的な栄養不良や疫病に苦しめられていたことが明らかになった。今もこの小さな墓地にはサウスバンクの暗黒史を語る存在として1万以上の遺骨がひしめきあって眠っている。

慈善団体「フレンズ・オブ・クロスボーン」らの活動により2006年、墓地に記念のプラークが設置された。以降、「見捨てられた死者たち」の記憶を守る庭園として整備が続いている。

クロスボーンズ墓地の鉄柵に結ばれた無数のリボン。
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娯楽はウェストエンドへ

1660年に王政が復古し、ピューリタンの発言権が弱まると、劇場やその他の娯楽も徐々に復活し始めたがサウスバンクにかつての活気が戻ることはなかった。王族や宮廷とご近所になりたい貴族や上流階級、それに新興の中産階級らがこぞってセント・ジェームズ宮殿やバッキンガム宮殿があるウェストエンドに生活拠点を移し始めたためだ。居住地としてメイフェアやセント・ジェームズ周辺が人気となり、娯楽の中心もコベント・ガーデンやピカデリーサーカス、ソーホーに移された。上流階級はもう、川向うの庶民の娯楽街に行きたがらなかった。

産業革命期を経てイギリスは世界第一等国に成り上がった。世界中の植民地で民を虐げ、搾取を続けた結果、イギリスには莫大な富が転がり込んだ。しかしその富が国民に再分配されることはなかった。富める者はますます富み、むしろ下層階級の暮らしは悪化した。、多くの民が病気や栄養失調で若くして命を落とした。

サウスバンクも近年は開発が進み、かつて目に見えたイギリスの負の遺産はほとんどが取り壊され、続々と新しいビルが建ち続けている。バラマーケットの周辺には著名なレストランが集結し、昼に夜に美食家たちを惹きつけている。また、川沿いにはシェークスピアのグローブ座が再建され、かつてベア・ベイティングで盛り上がった一帯にはテートモダンが聳える。サウスバンクは数百年の時を経て見事な復活を遂げた。

1万5千の名も知れぬ娼婦や下層民たちが眠るクロスボーンズ墓地。ほとんど誰も関心を払うことのない小さな一角だが、そこにこそ眩しいほどのロンドンの繁栄を支えた悲しい影の歴史がある。

週刊ジャーニー No.1409(2025年9月4日)掲載