
●サバイバー●取材・執筆/石野 斗茂子・本誌編集部
2023年5月。ウェストミンスター寺院でチャールズ3世の壮麗なる戴冠式が行われた。
同王が着座した戴冠式の椅子は特別な造りをしている。150キロもの大きな石を組み込むスペースが設けられているのだ。
その石は「運命の石」と呼ばれる。
今号ではこの劇的な名称を与えられた石についてお届けしたい。
クリスマスの大事件
1950年12月23日、ロンドン。クリスマス前のあわただしい喧噪の中を走る、2台のフォード・アングリアの姿があった。アングリアは家族向けのごくありふれた小型大衆車で、中に乗っている計4人の若者はみなスコットランド出身だった。リーダーのイアン・ハミルトン(25)はグラスゴー大学法学部の学生。あとの3人、すなわちアラン・ステュアート(20)、ギャヴィン・ヴァーノン(24)、紅一点のケイ・マセソン(21)はいずれもハミルトンから声をかけられ、ある計画の実行役として加わった学生たちだった。2台のアングリアのうち、1台はステュアートの所有、もう1台はレンタカーだったという。

ハミルトンたちの計画はいたってシンプルなものだった。クリスマスの闇にまぎれて、国会議事堂そばで威容を誇るウェストミンスター寺院に忍び入り、「戴冠式の椅子Coronation Chair」にはめこまれた「運命の石」を奪回し、スコットランドの地に取り戻す―ただそれだけのことだった。
計画実行にさきがけて同年9月に下見に訪れ、「これならいける」と自信を持ったハミルトンが用意したものは、ウェストミンスター寺院の扉をこじあけるためのバールのみ。しかし、できれば扉をこじあけて中に押し入る手段はとりたくない。ハミルトンは12月23日の午後、ウェストミンスター寺院に見学者のふりをして入り、物陰に隠れて夜を待った。しかし、閉院後、夜警の職員にみつかってしまう。出口がわからなくなり閉じ込められてしまった、と苦しい言い訳をしたハミルトンを、クリスマスに寒さをしのぐ宿を求めて紛れ込んだホームレスだと思い込んだ職員は、いくばくかの小銭を渡そうとしたという。ハミルトンは追い払われ、最初の計画は見事に失敗した。
24日夜。4人はひたすら待った。25日午前4時。マセソンひとりを車に残し、3人はウェストミンスター寺院の玄関の扉をこじ開けた。音があまりに大きかったため、マセソンは、その音が「ロンドンの反対の端まで」聞こえたに違いないと思ったと述懐している。
3人は暗がりの中、戴冠式の椅子が保管してあるセント・エドワード・チャペルに向かった。当時、警報機すらなく、3人は何の障害にもはばまれずに椅子に到達した。そこには、ハミルトンが思い焦がれた運命の石が横たわっていた。
強奪されたスクーンの石


ここで、運命の石について、その歴史をひも解いておきたい。「The Stone of Destiny」またの名を「the Stone of Scone(スクーン)」というこの石は、重さ152キロ。長さ66センチ、幅42センチ、高さ27センチの砂岩だ。
5世紀終わりにアイルランドから運ばれ、スコット族の王ファーガス・モアがその石に座って戴冠したと伝えられている。アイルランド王が住む地といわれたタラで、歴代アイルランド王の戴冠に使われていた石だったとされる。なお、この石がアイルランドに至った経緯については、旧約聖書に登場する聖ヤコブが、現トルコの南東部にあった古代都市ハルランで枕にしていた(枕にするには大きすぎるのだが)石がエジプト、スペインを経てアイルランドにもたらされたなど諸説ある。
9世紀に権勢を誇ったケネス・マカルピンが、スコットランドの中堅都市パース郊外にある、スクーンの修道院でこの石を管理するよう命じた。以降、「スクーンの石」とも呼ばれるようになる。

そして、この石を強奪したのが、スコットランド征服に意欲を燃やしたイングランド王エドワード1世(在位1272~1307)。1296年、遠征中の戦利品としてイングランドに持ち帰ってしまったのだった。1300年頃、この石をはめこむための特別な椅子が造られた。同王はブロンズ製の椅子にしたかったようだが、費用が高すぎ、樫の木製となったと言われている。この椅子が英君主の戴冠式に必ず使われるようになったのは、エリザベス1世の跡を継いでイングランド王となったジェームズ1世(在位1603~25。スコットランド王としてはジェームズ6世、在位1567~1625)の御代から。1953年のエリザベス2世の戴冠式、2023年のチャールズ3世の戴冠式でもこの椅子は重要な役割を果たし、写真では見えないが、その椅子には運命の石がはめこまれている。

1953年と2023年の戴冠式の様子。故エリザベス2世もチャールズ3世も同じ「戴冠式の椅子」に着座しているのが分かる。
小さな幸運の連続
エドワード1世に持ち去られて以来、スコットランドからの返還要求は絶え間なく続けられ、また、奪回の試みも行われたが成功することなく迎えた1950年クリスマス当日。ハミルトンは自分の着ていたマッキントッシュ社製の丈夫なコートを椅子の前にひろげた。この上に石をのせ、ひきずって車まで運ぶ計画だった。
3人は運命の石を思いっきり引っ張り出した。大きな音をたてて床に落下した石を見て、全員腰を抜かさんばかりに驚いた。運命の石が、2つに割れてしまったのだった。2つに割れたといっても、ひとつは40キロ程度。もとの石の約3分の1の大きさだ。
「運命の石を壊してしまった!」
しかし、こここで逃げる訳にはいかない。ハミルトンはパニックに陥りながらも小さなほうのかたまりをマセソンが待機する車の後部座席になんとか運び込んだ。マセソンのとなりに座ったその直後、ひとりの警官が近づいてくるのが見えた。ふたりはとっさに熱い抱擁をかわし、恋人をよそおった。
警官は、クリスマスになぜこんなところに駐車しているのか、ふたりに職務質問を行なった。クリスマス休みにスコットランドからやってきたはいいものの、宿がみつからず困っていると説明すると、警官は気の毒がり、ハミルトンたちにタバコを薦めた。タバコをふかしながらしばらく世間話をしたあと、車を移動させるようにと告げて、警官はそのまま立ち去った。
ハミルトンによると、この世間話のあいだ中、ウェストミンスター寺院の中から怪しい物音が響いていたという。ステュアートとヴァーノンが大きいほうのかたまりを寺院の外へ運ぼうと四苦八苦して引っ張る音だった。警官が立ち去り、車を寺院から少し離れた場所に移すや、ハミルトンは寺院に急いで戻った。ステュアートとヴァーノンの姿は寺院内に見えなかったが、大きなほうの石が寺院の外まで運ばれているのを見つけた。
テムズ河近くのミルバンクに駐車していた2台めの車を運転して寺院に横づけすべく、車に向かったハミルトンだったが、鍵がないことに気づいた。鍵をコートのポケットに入れたまま、石の運搬に使ってしまった自分の愚かさを嘆きつつ、走って寺院に戻った。
寺院内は暗かった。マッチをすってみたものの、広い寺院内のどこに落としたか分からず、途方にくれた。しばらく狂ったように鍵を探していたハミルトンだったが、自分の足が何かを踏みつけ、ジャリッと小さな音を立てるのを聞いた。フォード・アングリアの鍵だった。
車に再び走ってもどり、エンジンをかけて大急ぎで寺院そばに車を停めたハミルトンは、ひとりで100キロほどもある石を車のカーブーツ(トランク)にのせる大仕事に取り組んだ。火事場の馬鹿力とはよくいったもので、ハミルトンは無我夢中で、カーブーツに入れることに成功したのだった。
スコットランドとの国境封鎖
後にハミルトンたちが知らされたのは、床に勢いよく落ちる前に、運命の石には既にひびが入っていたのではないかという説だった。1914年6月11日、婦人参政権を求め過激な運動を繰り広げていた「サフラジェットsuffragette」のメンバーが、戴冠式の椅子の爆破を計画。実際に爆発が起き、椅子の一部が破損した。けが人は出ず、不幸中の幸いだったが、この時の爆発で運命の石にひびが入ったのではないかと見られている。
さて、2つに割れた石に話を戻す。マセソンはひとり、小さな石をのせたフォード・アングリアをバーミンガムの友人宅へと走らせた。一方、ハミルトンはテムズ河の南、オールド・ケント・ロードを歩いているステュアートとヴァーノンを運よくみつけ、3人でケントへと向かった。2人はハミルトンたちに「見捨てられた」と思い込み、ウェストミンスター寺院を離れたのだった。3人はロチェスター近くの農地に大きなほうの石を埋め、近くに宿をとった。
その頃、ウェストミンスター寺院では大騒動となっていた。まもなくイングランドからスコットランドへと入る道路という道路に検問が置かれた。イングランドとの国境が封鎖されるのは400年ぶりだったという。当初は、ほとぼりが冷めるまで、ケントの農地に石を埋めたままにしておこうと考えていたハミルトンだったが、すでに2つに割れてしまった石が、凍てつく寒さの中、ケントの農場でさらにもろくなり破損の状態がひどくなるかもしれないと心配になってしまった。
12月31日、ハミルトンたちは農地に戻った。が、一難去ってまた一難。石を埋めたその上にトラベラー(ジプシー)たちが宿営しているのを見てがく然とする。なんとかトラベラーたちを説得して移動してもらい、石を掘り起こしたという。バーミンガム経由で小さな石、ケントから大きな石が運ばれ、警察に気づかれることなくグラスゴーで2つの石は揃った。スコットランドの完全自治を目指す組織で、ハミルトンに資金援助を行ったとされる、「スコットランド・コヴェナント協会」(コヴェナント=盟約)の上層部の手配で、秘密裏のうちに熟練の石工により修理が行われた。

運命の石をスコットランドの地まで戻したはいいが、このまま隠していても解決にはならない。「スコットランド・コヴェナント協会」は、運命の石を英国政府に引き渡すことを決定した。引き渡しの場所に選ばれたのは、アーブロース寺院(廃墟)。1320年、当時のスコットランド諸侯たちが時のローマ教皇ヨハネス22世にスコットランドのイングランドからの独立を宣言した「アーブロース宣言」が発せられた場所だ。
こうして、運命の石の奪回作戦はいったん終了した。1951年4月11日のことだった。
条件付きの帰還
奪回作戦の数ヵ月前から大学の図書館で運命の石に関する文献をあさった経緯から、容疑者としてハミルトンの名前がすぐにあがった。やがて実行犯の4人すべての身元が割れたが、彼らは逮捕されずおとがめなしとなった。1滴の血も流れず、また、彼らを罰することは「公衆が望んでいない」というのがその理由だった。
マセソンは地元で教師となり(2013年没)、電気技師となったヴァーノンはカナダに移住(2004年没)、ステュアートはグラスゴーで事業者となり成功を納め(2019年没)、犯罪法の弁護士となったハミルトンは97歳という長く充実した人生を送った(2022年没)。

一方の運命の石は、1996年、ジョン・メージャー政権下でついにスコットランドに返還されることが決まり、スコットランドの守護聖人、聖アンドリューの祝日である11月30日、厳かに引き渡しの儀式が行われた。ただし、英君主の戴冠式の際にはウェストミンスター寺院に運ばれ、戴冠式の椅子にしつらえられるという条件つきだった。チャールズ3世の戴冠式にあたっては2023年4月27日にスコットランドを離れ、5月6日の戴冠式後、無事にスコットランドへと戻された。
1996年からエディンバラ城で保管・公開されていた運命の石だが、2024年3月より、2300万ポンドをかけて改装が行われたパース博物館へと居を移した。。現在は、完全予約制(無料)で公開されている。
エドワード1世が持ち去った時点で、この石は「替え玉」だったとする説はいまだに否定されていないものの、こうして英君主の戴冠式に用いられるのが宿命だったとすれば、この石こそまぎれもなく、その運命の石。英王室がどのような道をたどるか、これからも見守り続けていくのだろう。
Travel Information ※情報は2025年4月28日現在のもの

■「運命の石」は、スコットランド北部の都市パースPerthにあるパース博物館にて保管・展示されている。パースはテイ川River Tayのほとりに築かれた町で、エディンバラから北へ約44マイル(約70キロ)。車で1時間10分、電車で約1時間15分。
パース博物館 Perth Museum

St John’s Place, Perth PH1 5SZ
Tel: 01738 632488
perthmuseum.co.uk
● 入場料…無料
※「運命の石」の展示スペースへの入場は完全予約制。
● 夏期オープン時間…毎日 10:00~17:00(木曜日のみ19:00まで)
※11月1日以降、冬期オープン時間となる。サイトにてご確認を。
スクーン宮殿 Scone Palace

● もともとここにはスクーン司教の館と大修道院があったが、16世紀にスコットランドに吹き荒れた宗教改革の嵐の中、1559年にどちらも焼失。その後、マンスフィールド伯爵の所領となり、今ある宮殿も新しく建設された。比較的新しい印象を得るのはこのため。
● パースの北約3マイル(4.8キロ)に位置する。パースのバスセンターからバスで行くことも可能(本数は多くないので、事前によく計画を練ってからお出かけを)。バス停はゲートそばにあり、ゲートから城まで約1マイル(1.6キロ)。
Scone Palace, Perth, PH2 6BD
www.scone-palace.co.uk
● 宮殿&庭園の入場料…大人19.50ポンド
※ファミリーチケット(大人2人と子ども2人)58.50ポンドなどもあり。
● 2025年オープン期間…4月1日~10月31日まで
毎日 10:00~17:30(最終入場16:00)

週刊ジャーニー No.1391(2025年5月1日)掲載