●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

マーブルアーチ。ハイドパーク北東部角に置かれた大理石の門の愛称だ。元々はバッキンガム宮殿にあったが1851年に現在の位置に移設された。
マーブルアーチがやって来るまで、この辺り一帯はタイバーンと呼ばれていた。以前ここにあった集落の名だが12世紀から19世紀にかけて、誰もが震え上がる処刑場の代名詞だった。

初めての処刑

1746年頃のタイバーン。三叉路の中央に三連柱の処刑台が描かれている。

ヨーロッパでも最大級の人通りを誇るオックスフォード・ストリート。この道はかつてイングランドを占領していたローマ人が作った街道だ。18世紀後半に本格的に開発されるまでこの通りは近くを流れていた小川の名に因んでタイバーン・ロード(Tyburn Road)と呼ばれていた。タイバーン・ロードの西端には西(シェパーズブッシュ方面)に直進する道と北(エッジウェア方面)に向かう道とに分れる三叉路があり、タイバーンという小さなマナー(荘園)があった。1086年にまとめられた検地台帳「ドゥームズデイブック」にはタイバーンには家屋8戸、人口約40と記載されている。

1196年、この三叉路で最初の公開処刑があった。重税に苦しむ民衆が蜂起したもので、「貧者の代弁者」として暴動を主導したのがウィリアム・フィッツ・オズバートという教養人だった。反逆罪で死刑判決を受けたオズバートは衣服を剥がれ、馬に引き摺られてタイバーンまで連行された。そして首を吊られた後、四つ裂きにされた。最後までオズバートに付き従った9人の仲間も一緒に処刑された。この日を境にタイバーンの三叉路はロンドンを代表する処刑場となっていく。

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クロムウェルを吊るせ

タイバーン・ツリーでの処刑風景。

ロンドンには処刑場が幾つもあったが、貴族や宮廷関係者などの高貴な人物の処刑は、多くがロンドン塔そばのタワーヒルで行われた。特に高貴な存在、例えばヘンリー8世2番目の妻アン・ブリンや5番目の妻キャサリン・ハワードなど王室自身の恥部を晒すこととなる処刑はロンドン塔敷地内において非公開で行われた。

肉市場として名高いスミスフィールドやセント・ジャイルズ(現トテナム・コート・ロード)、ケニントンなどでも多くの人が吊るされ、焼かれ、切り刻まれた。ガイ・フォークスらジェームズ1世暗殺未遂事件の首謀者らは現国会議事堂前の広場で四つ裂きの刑に処された。タイバーンでは主に庶民や異端とされたカトリック教徒の処刑が行われた。

タイバーン女子修道院に掛けられた殉教者のための看板。

1571年、「タイバーン・ツリー」が設置された。これは大きくて頑丈な三連柱の処刑台で、一度に大量の囚人を効率よく吊るせる処刑台だった。ツリー最初の犠牲者となったのはジョン・ストーリーというカトリック教徒で、反逆罪で処刑された。1535年から1681年までの間に105人のカトリック教徒がタイバーンで処刑された。彼らは殉教者とされた。ツリーがあった地点からベイズウォーター方面へ200メートルほど西に行ったところにあるタイバーン女子修道院に記念プレートが掲げられている。1649年6月23日には、23人の男と女1人が一斉に吊るされた。タイバーン・ツリーの威力が発揮された。

1660年、王政が復古しフランスに亡命していたチャールズ1世の長男がイングランドに戻り、即位してチャールズ2世となった。チャールズ2世は清教徒革命時、父王チャールズ1世の首を刎ねた者たちを捕えて自らの戴冠式に合わせて一斉に粛清した。オリバー・クロムウェルはこの時既に病没していたが、わざわざ遺体を墓から掘り起こさせ、あえて下層民の処刑場で吊るした上に斬首。その首はロンドンブリッジに四半世紀に渡って晒された。

墓から引き摺り出され、改めて吊るし首、斬首、晒し首とされたオリバー・クロムウェル。

処刑は庶民のお楽しみ

数えきれないほどの人がロンドンで公開処刑された。処刑はいつの日か庶民の一大娯楽となり、当日は大勢の人が見物に押し寄せた。富裕層向けに有料の特設スタンド席が組まれた。屋台が立ち並び、食べ物や飲み物が売られた。人々は今か今かと首を長くして囚人の到着を待った。

処刑された囚人の手には病を癒す力があると信じられていたため、死んだ死刑囚の手で子どもの頬を撫でる母親の姿がよく見られた。遺体は医学や解剖学の発展に寄与した。処刑後は解剖のために遺体を持ち去りたい解剖医やその請負人と、解剖されては魂が戻る「入れ物」がなくなると主張する遺族の間で遺体の取り合いが絶えなかった。

公開処刑はまさに「お祭り騒ぎ」だった。処刑が終われば法が正しく執行されたことに安堵し、安らかに眠りについた者もいれば、凄惨な処刑シーンにうなされる者もいた。何百年もの間、英国は公開処刑を利用して王室や国家、そして教会が国民の運命を握っているのだという認識を国民に擦り込み続けた。正確な資料はないがタイバーンだけでも4万~5万人が処刑されたと言われている。

最後の一杯

処刑当日、死刑囚は馬のひく荷車に乗せられ、スミスフィールド市場にも近いニューゲート監獄(現オールドベイリー中央刑事裁判所)からタイバーンへと護送された。道のりは約3マイル(約5キロ)。沿道に見物人が押し寄せて道を塞ぐため護送に3時間ほどかかることもあった。

セント・ジャイルズのパブで最後の一杯を楽しむ死刑囚ジャック・シェパード。シェパードは空き巣や窃盗を繰り返して逮捕され、死刑判決を受けた。しかしニューゲート監獄から3度脱獄に成功。1724年11月16日にタイバーンで処刑された。22歳だった。

ニューゲートとタイバーンのちょうど中間地点にあたるのがセント・ジャイルズ(現トテナム・コート・ロード近く)で、荷車は「ボウル・イン(Bowl Inn)」という酒場で小休止した。死刑囚はここでウイスキーやワイン、ビールなど「最後の一杯」をやることが許された。酒は大きなボウルに注がれた。

死刑囚に最後の一杯を提供したセント・ジャイルズのパブ「ジ・エンジェル」。

「最後の一杯」をふるまった場所は「エンジェル・イン(Angel Inn)」という名前でセント・ジャイルズ・ハイストリート61番地に現存する。古めかしいパブで、今も庶民用のパブ部分と上流階級用サロンがかっちり残されている。もちろん今は銀行残高と関係なくどちらの部屋でも飲むことが出来る。しかしそれぞれの入り口から中に入ると、パブの中ではお互いの部屋を行き来出来ない造りになっている。これは今では大変珍しい。

このパブの目の前を走るハイストリートがかつてのタイバーン・ロードだった。のちにホルボーンからトテナム・コート・ロードの交差点まで続くバイパスが作られ、ニュー・オックスフォード・ストリートと名付けられた。オックスフォード・ストリートとは、約80キロ北西にあるオックスフォードに続く道という意味だ。

タイバーンに到着すると囚人たちは荷車から降ろされ、群衆の前に引き摺り出された。間もなく処刑が始まる。死刑囚には懺悔や申し開きをする権利が与えられた。潔く死に向かわない者に対しては容赦なくブーイングが浴びせられた。人々は囚人が神に魂を委ねる前に自らの罪を認めることを期待し、実際に多くの囚人がそのようにしたと記録されている。その後、首に縄がかけられ、荷車が引かれると囚人の身体は宙吊りとなった。

大量処刑時代

チャールズ2世の弟が即位し、ジェームズ2世となって間もなくの1688年頃からイングランドは次々と法制度を上級国民に都合よく変えていった。イングランドでは中世以来、「犯罪を抑止する最良の方法は刑罰を厳しくすること」という考えが根強く残っていた。そのためこの時期、死刑が科される犯罪の種類が爆発的に増加。それらはのちに「血の法典(The Bloody Code)」と呼ばれることになる。

この時期に新たに死刑の対象とされた犯罪の多くは財産に関するものだった。鹿やウサギ、魚の密猟が死刑とされた。強盗、空き巣はもちろん、馬や羊などの家畜の窃盗でも死刑。貨幣の偽造も所持も証券詐欺も死刑。反乱軍の集結や匿名の脅迫状送付も死刑。工場設備や機械を破壊したら死刑。水門や堤防を破壊したら死刑。

これらの法律制定を担う国会議員の多くは地主や商業資本家であり、彼らの土地や財産を守る目的で次々と厳しい法律が誕生した。死刑となる犯罪は17世紀末には50種類ほどだったが19世紀初めには220種類に達した。「馬が盗まれたから死刑にするのではない。馬が盗まれそうだから死刑にするのだ」と批判する貴族すら現われた。

上級国民による不良下層民のお手軽処分。それを合法化するために法が次々と追加された。さすがにやり過ぎと感じた裁判官や陪審員たちはあえて犯罪を過小評価し、死刑を回避させた。恩赦も急増した。そのため死刑判決が下ったものの実際に死刑が執行されるのは全体の4割程度だったと言われる。死刑回避の受け皿として重宝だったのが流刑だ。最初の頃の流刑先は北アメリカの13植民地だった。約4万人の囚人が送られた。監獄はどこもすし詰め状態。しかし危険な下層民は排除したい。植民地は先住民と戦える労働力が欲しい。流刑はどちらをも満足させた。

ところが1775年にアメリカが独立。囚人の受け入れを拒絶した。その頃、太平洋の南にちょうどいい流刑地が見つかった。オーストラリアが新たな流刑地となった。

タイバーンでの公開処刑は1783年が最後となった。公開処刑はニューゲート監獄の敷地内で継続され、娯楽を求める市民たちを安心させた。1823年には「死刑判決法(the Judgment of Death Act)」が制定され、犯罪に対する量刑は裁判所の裁量に委ねられることとなり死刑判決は激減。1861年には220種類あった死刑適用の罪状は殺人や反逆罪、海賊行為などの5種類にまで削減された。そして1965年、国民を殺し過ぎた反省からか、死刑制度そのものが全廃された。

スピーカーズコーナー

もう誰も弁舌を振るう人はいない。閑散とするスピーカーズコーナー。

かつてタイバーン・ツリーがあった三叉路の目と鼻の先、ハイドパーク北東の端に有名な「スピーカーズコーナー」がある。ここでは王室批判や政府転覆計画等を除けばいかなる内容であろうと誰でも自説を唱えることができる。

真偽のほどは定かではないがタイバーンで処刑される囚人たちに与えられた最後のスピーチの名残と言われている。19世紀後半以降には労働者の抗議集会の会場となったが、近年はSNSや動画サイト等も発達したため、わざわざスピーカーズコーナーで声を枯らす人の姿は見かけなくなった。

リージェントストリートを設計したジョン・ナッシュが手掛けたマーブルアーチ。

1851年、バッキンガム宮殿にあったマーブルアーチがタイバーンに移設された。以降、この一角はマーブルアーチと呼ばれるようになり、数百年に渡って処刑場の代名詞ともなっていたタイバーンと言う名称は人々の記憶から消えた。マーブルアーチの三叉路に小さな安全地帯がある。そこに3本の若木に囲まれるように丸いプレートが埋め込まれている。3本の木はかつてここにあった三連柱の処刑台を想起させるものだ。プレートには「タイバーン処刑台跡地」と刻まれている。誰も注意を払わない小さなプレートだが、マーブルアーチ暗黒の歴史を未来永劫に語り継ぐ重責を静かに負っている。

マーブルアーチの三叉路に植えられた3本の若木。
誰も気づくことのない「タイバーン処刑台跡地」を示すプレート。

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動画で見よう!

ジャーニー編集部が制作したユーチューブ動画【英国ぶら歩き】マーブルアーチの暗黒の歴史 タイバーンも併せてご覧ください。

週刊ジャーニー No.1389(2025年4月17日)掲載