ヴィクトリア&アルバート博物館を征く
© Victoria and Albert Museum

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■ 大阪万博(4月13日~10月13日)の開催を目前に控えた今号では、前回の「世界初の国際博覧会 ロンドン万博開催への道」に続き、大成功を収めた万博での収益をもとに建造されたV&Aについてお届けする。

ヨーロッパ大陸から見た英国製品

1851年5月1日~10月15日までの5ヵ月半にわたり、ハイドパーク南西のガラス張りのクリスタル・パレスで開催された、世界初となる万博「ロンドン万国博覧会(The Great Exhibition)」。当時の英国全人口の3分の1に相当する600万人以上が来場し、現在の2000万ポンド以上に相当する収益を得るなど、期待以上の大成功を収めた。
しかし、産業革命によって大きく発展した英国の先進ぶりを国際的に披露したいとの思惑は達成できたものの、一方で大きな「欠点」も浮き彫りになった。それは「デザイン性の乏しさ」である。蒸気機関をはじめとする新発明・開発された工業製品の技術の素晴らしさに比べて、芸術面で見たときのデザイン・装飾性は今ひとつ。フランス人やイタリア人からすると、「すごいけど何だかちょっと…ダサい?」と思われてしまったのだ。

V&Aの初代館長ヘンリー・コール
それを痛感し、製品の芸術性とデザイン性を向上させなければ…! と立ち上がったのが、ロンドン万博を推進するために創設された王立委員会(Royal Commission for the Exhibition 1851)のメンバーの1人、上級事務官のヘンリー・コールだった。製造業者やデザイナーはもちろん、一般の人々も芸術やデザインを学べる施設をつくりたいと、ヘンリーは万博の提唱者で王立委員会の会長であるヴィクトリア女王の夫アルバート公に掛け合った。
ヘンリーの意見にすぐに同意したアルバートは、財務省の補助金を使い、ロンドン万博に出品された各国の逸品を厳選して購入。万博が閉幕した翌年の1852年、バッキンガム宮殿からまっすぐに伸びる道路「パル・マル」沿いに建つ王室所有の「マールバラ・ハウス」を貸し出し、産業製品博物館(Museum of Manufactures)を早速オープンさせる。これがV&Aの起源であり、館長は発案者のヘンリーが務めることになった。

 

不快なデザインが並ぶ「恐怖の部屋」

 

現在のV&A地上階の石膏の部屋。実はデザインの勉強のために制作されたレプリカが多い
産業製品博物館には万博で買い取られた展示品のほか、教育目的で収集された石膏像、装飾美術作品のコレクションが並べられた。だが、ヘンリーはそれだけでは満足しなかった。優れたデザインを知るためには、「正しい例」と「悪い例」を対比させる必要があると考え、誤った例を集めた部屋「Gallery of False Principles in Design」を館内につくったのである。
過剰装飾されたもの、凝りすぎて奇妙になってしまったもの、素材と装飾や色彩が合っていないものなど、不快感を覚える家具や織物、陶磁器、鉄細工などが陳列され、各展示品には欠点と改善すべき点を記載するという徹底ぶりであった。
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ロンドン東京プロパティ
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サウス・ケンジントン博物館と呼ばれていた1860~70年代に、画家フレデリック・レイトンが手がけたV&A南棟2階の壁画の一部
現在のV&A地上階のルネサンス期の邸宅の中庭をイメージした部屋
ところが、そうしたヘンリーの理念は裏目に出て、この部屋は「恐怖の部屋(Chamber of Horrors)」として広まり、別の意味で人々の注目を集めてしまう。来場者はそこに並ぶ品々を面白がってからかい、真面目にデザインの参考にする人はほとんどいなかったのだ。製品が批判された製造業者から強い苦情が相次いだ結果、わずか2週間で恐怖の部屋は閉鎖されている。

 

アルバートポリスで最初の博物館

 

さて、実はマールバラ・ハウスを博物館として使用することは、一時的な処置であった。同邸宅はヴィクトリア女王とアルバート公の息子であるエドワード皇太子(後のエドワード7世)が成人した後の住居となることが決まっていたため、次の候補地を至急決めなくてはならなかったのである。
 万博の終了後、アルバートはクリスタル・パレスの建設地に近いサウス・ケンジントンの一帯を「芸術・科学分野に特化した文化地区」(別名・アルバートポリス/Albertopolis)とし、万博で得た収益をもとに様々な博物館や大学を設立する計画を立てていた。ヘンリーはその建設候補として産業製品博物館を真っ先に挙げ、同地区に建造される最初の博物館の座を勝ち取ることに成功。こうして1857年、「サウス・ケンジントン博物館」と名を改め、現在の場所に移転・開館したのであった。ちなみに、引き続き館長を務めたヘンリーは、いつでもすぐに博物館へ駆けつけられるよう、同館の向かい(33Thurloe Square)に引っ越している(ブループラークあり)。

現在のJohn Madejski Garden(中庭)から見た、かつてV&Aの正面玄関だった北側の建物。建物内には3つのカフェ・レストランが入っている。
建物上部のペディメントは、万博のシンボル「クリスタル・パレス」の黒いシルエットの前で、手を広げて立つヴィクトリア女王のモザイク画で飾られている

その後も同館は、学術研究の場を目指した大英博物館(1753年開館)、絵画などの高尚芸術を中心とするナショナル・ギャラリー(1824年開館)と一線を画し、装飾デザイン教育を行う施設としてコレクションを増やしながら発展し続けた。そのため、世界中の彫刻、家具、タペストリー、鉄細工、ガラス工芸、食器、服飾、ジュエリーなど300万点近くが幅広く展示され、また改修や建て替えによって取り壊された屋敷の部屋を一部移築したりもしている。
 アルバートは1861年、腸チフスにより42歳の若さで亡くなったが、それから約40年後の1899年に今の姿へと再増築された際、ヴィクトリア女王は亡き夫の偉業を称え、「アルバート博物館」と名付け直すことを希望したという。しかし周囲に反対され、「ヴィクトリア&アルバート博物館」(V&A)に落ち着いている。

 

 

世界初のミュージアム・カフェ・レストラン

ギャンブル・ルーム © Victoria and Albert Museum

 

ポインター・ルーム
1857年に移転オープンしたサウス・ケンジントン博物館(現V&A)は、ガス灯が初めて導入された博物館であり、そのおかげで夜間開館が可能になった。館長のヘンリー・コールは、人々がより楽しんで文化体験ができるようにと、正面入口から入った場所を展示室ではなく、飲食を楽しめるカフェ・レストランにした。これはロンドン万博を開催する中で、来場者にとってリフレッシュメント・エリア(紅茶やパン、温かい食事をつまみながら休憩できる場所)が大切であることを学んでいたからであり、こうした試みも世界初であった。
モリス・ルーム
現在ある3つのカフェ・レストランは1868 年に造られたもので、 とくにデザイナーのジェームズ・ギャンブルが手がけた「ギャンブル・ルーム」は、「明るいし楽しい。豪華で華やかなパリのカフェのようだ」と評判が良かった。また、画家エドワード・ポインターによる「ポインター・ルーム」はグリル料理を楽しむ部屋で、壁には耐熱用の陶器を使用。写真中央に見えるのは、暖炉ではなく鋳鉄製のオーブンである。そして3つ目の「モリス・ルーム」は、デザイナーのウィリアム・モリスがまだ駆け出しの頃に手がけたものである。

Travel Information ※2025年4月10日現在

Victoria & Albert Museum
(V&A South Kensington)
Cromwell Road, London SW7 2RL
www.vam.ac.uk

【開館時間】月~日曜 10:00~17:45
※金曜は22:00まで
【料 金】無料
【最寄り駅】South Kensington

開催中の特別展

◆The Great Mughals: Art, Architecture and Opulence
5月5日まで/£22
◆Cartier
4月12日~11月16日/£27

週刊ジャーニー No.1388(2025年4月10日)掲載